悪夢の淵までさよなら

野木千里

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春の靴

きっと春になれば

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 あの頃、森は私たちにとっての檻だった。

 木々が作る暗い影。静かな小川のせせらぎ。小動物の足音に、木苺のたっぷり実った甘い匂い。

 狩りと保存食作りは兄の仕事。家の雑事は私の仕事。
 目の見えない母の面倒を見るのは、幼い私たちにとって重労働だった。彼女は何もできない自分を歯痒く思うのか、度々私の夕食の皿を奪って食べた。「母親に死ねって言うのかい」と明りを灯さない暗い瞳で言われてパンを全て食べられてしまうこともざらにあった。

 いつからだろう。兄の皿に肉を沢山盛るようになったのは。
 そして、あの女が席を立ってから、二人で食べ物を分け合うようになったのは。

 スープの上澄ばかり啜る母がみるみる痩せ細っていくのを、二人でパンを分け合いながら眺めた。

 寝床から起き上がれなくなった母を見て、兄は今までになく嬉しそうに目を細めていた。

「ああ、俺たち魔女を殺したんだな……」

 噛み締めるように何度もそう言って、まだ微かに息の残る女に兄は斧を振り下ろした。
 肉と骨が潰れる音が、未だに耳に残っている。
 

 
 背中に入り込んだ冷気と兄の嗚咽で目が覚めた。

「か、母さんやめて……寒いよ……怖いよ……」

 いつかの夢を兄も見ている。
 月光さえ差し込まないほど暗い闇の中。暖炉に残った炎の燃滓もえかすが微かに兄の横顔を照らし出している。

 毛皮を縫い合わせた布団を引っ張って兄の背にかけてやると、彼はほっと吐息を漏らした。

「大丈夫だよ、兄さん」
「ドロシー……」

 見なくても分かる。泣き疲れてひどくやつれた顔をしているだろう。
 私たちは身を寄せ合って、氷みたいに冷たくなった手を握り合う。

「もうここに魔女はいない。春になったら街に行って、何か仕事をもらおうよ。二人ぼっちで森にいるからおかしくなるんだよ。ね、そうしようよ」

 きっと兄は人を殺したことを理解していない。魔女を倒したのだと心から信じているだろう。だから、街に行けばなんとかなるかもしれない。

 私さえ。
 私さえ、この良心の呵責かしゃくに耐え切れば、私たちの勝ちだ。

 兄の冷たい手が私の背に回された。そして、縋り付くようにぎゅっと抱きしめられる。狩りをしている兄は力強く、抱きしめられると息ができないほどに苦しい。抱きしめられると言うよりは締め付けられていると言った方が良いかもしれない。

 それでも、この孤独な檻の中で明日も生きながらえる覚悟ができるのなら、痛みさえも喜ばしいことだ。

 魔女の唸りのような風が、ガタガタと建て付けの悪い扉を揺らす。傷んで僅かに開いた扉の隙間から、吹雪のかけらが入り込んで家を凍て付かせている。

 私は兄をぎゅっと抱きしめ、彼が座ったまま眠ってしまうまでじっとそうしていた。
 横になると、二人とも死んでしまいそうなほどに寒い吹雪の夜のことだった。
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