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春の靴
何もいらなかったのに
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小川のせせらぎが聞こえてくる。
春だ。
一体いつの間にそんな季節になったのだろう。
私はゆっくりと藁の間から起き上がり、扉を開けた。いつから起き上がらずに生活していたのか思い出せない。2、3日に一度は井戸まで水を汲みに行っていたはずだが、それさえも記憶が曖昧だ。
部屋に差し込んだ日の光が惨状を明らかにする。
倒れた燕麦の壺。大麦が入ったままの鍋。火の消えた暖炉。床に落ちた干しキノコ。切ったまま忘れたベーコンが干からびている。机で何をしていたのだろう。繕いっぱなしの服が途中で投げ出してある。
あの日、畑で拾ったままの泥のついた玉ねぎが机の上にある。泥は干からびてひび割れていた。
一つだけ不自然なものが机の真ん中に放り出してあった。
燕麦と蜂蜜を練って作ったケーキ。鶏小屋で卵が取れたのだっけ。少しだけ干しブドウも混ぜてある。
一切れだけ切った跡があるが、すでにかびている。横には蜂蜜の壺が置いてあり、目敏い蟻が家と外を行き来していた。
暖炉の煤だらけの家の中、きっと私も真っ黒に染まっているのだろう。
扉の向こう側は綺麗な若草色と空色だった。
「兄さん……」
返事なんてあるはずがない。
彼は最後私に何を求めていただろうか。
扉の脇にある赤い靴に視線を落とす。無理をして街で買ってきてくれた時の兄の嬉しそうな顔が忘れられない。
私は寝室の片隅の衣装箱に入れっぱなしの白い服を取り出した。結婚するには花嫁衣装がいると、兄が誰かからもらってきてくれたものだ。
井戸から水を汲み、服を脱ぎ捨てた。今まで着ていた服は驚くほど真っ黒で、私の汚れを吸って重たかった。拭いても拭いても体は黒く、いつになっても水が濁っていた。最後は鬱陶しくて水を頭から何度も被った。それでも凍てつくような寒さはなく、かえって心地よかった。
全てが綺麗になってようやく、私は髪を結び、服を着て、あの赤い靴を履いた。
そして日が高く登った空を見上げる。
「お腹、空いたな……」
あの甘い食べ物はどこにあるだろう。あの家にはもうないはず。
それなら、探しに行かないと。
木々のざわめきは穏やかで、ふわりと香る野イチゴの香りが甘酸っぱい。一粒つまんで落胆する。
これじゃなかった。
木陰の部分を縫うように森を歩けば、赤い靴がいくらでもイチゴを踏み潰して甘い匂いを引き立たせる。白い服の裾に僅かに果汁が飛び散った。段々見えなくなっていく、陽の光に照らされた家を一度だけ振り返る。
涙が出そうに切なかった。
ふと赤い靴を見下ろす。
きっと私は、あの日眩しいものでも見るかのように私を見ていた兄と同じ顔をしていた。あれは、彼の最期の離別の挨拶だったのかもしれない。
優しかった兄だけでも、あの幸せだった日々の思い出の中に置いて行こう。
靴に取り付けられたリボンを外した時、それが足首を絞めて皮膚を食い破っていたことに初めて気がついた。にじむ血は赤く、どこかで見かけた紅みたいだと思った。甘く漂う鉄の香りに眩暈がする。
できるだけ暗いところを歩こう。
あの狂気が兄のせいだと言い訳をしないように。
私の置いていったあの赤い靴が、この先の私を見つめないように。
◇
ドロシーの足跡を追うかののように、木漏れ日に徐々に色がつき始める。
影は徐々に形を変え、やがて一つのものを作り出した。
一人の少女だ。
一切の汚れのない、無垢な目をした少女。靴も履かずに森に佇んでいるというのに、その足は白かった。
彼女はドロシーの真っ黒に汚れた足の裏を見ると、ふと自分の足元を見下ろした。
年頃の少女の心をくすぐるような、真っ赤でリボンのついた可愛い靴。
彼女はそれを拾い上げると、薄暗い森の中をじっと眺める。小川のせせらぎと小動物たちが行き来する音だけが聞こえていた。
「……靴、忘れてるよ」
太陽が木陰を打ち破り、彼女の佇んでいた場所はスポットライトでも当たっているかのように照らし出された。
しかし、彼女はもういない。
森が夢でも見ていたかのように、光の中に消えたしまっていた。
小鳥の囀る音が森の中に消えていく。
すでに、兄を失った哀れな少女の足音も消えていた。
春だ。
一体いつの間にそんな季節になったのだろう。
私はゆっくりと藁の間から起き上がり、扉を開けた。いつから起き上がらずに生活していたのか思い出せない。2、3日に一度は井戸まで水を汲みに行っていたはずだが、それさえも記憶が曖昧だ。
部屋に差し込んだ日の光が惨状を明らかにする。
倒れた燕麦の壺。大麦が入ったままの鍋。火の消えた暖炉。床に落ちた干しキノコ。切ったまま忘れたベーコンが干からびている。机で何をしていたのだろう。繕いっぱなしの服が途中で投げ出してある。
あの日、畑で拾ったままの泥のついた玉ねぎが机の上にある。泥は干からびてひび割れていた。
一つだけ不自然なものが机の真ん中に放り出してあった。
燕麦と蜂蜜を練って作ったケーキ。鶏小屋で卵が取れたのだっけ。少しだけ干しブドウも混ぜてある。
一切れだけ切った跡があるが、すでにかびている。横には蜂蜜の壺が置いてあり、目敏い蟻が家と外を行き来していた。
暖炉の煤だらけの家の中、きっと私も真っ黒に染まっているのだろう。
扉の向こう側は綺麗な若草色と空色だった。
「兄さん……」
返事なんてあるはずがない。
彼は最後私に何を求めていただろうか。
扉の脇にある赤い靴に視線を落とす。無理をして街で買ってきてくれた時の兄の嬉しそうな顔が忘れられない。
私は寝室の片隅の衣装箱に入れっぱなしの白い服を取り出した。結婚するには花嫁衣装がいると、兄が誰かからもらってきてくれたものだ。
井戸から水を汲み、服を脱ぎ捨てた。今まで着ていた服は驚くほど真っ黒で、私の汚れを吸って重たかった。拭いても拭いても体は黒く、いつになっても水が濁っていた。最後は鬱陶しくて水を頭から何度も被った。それでも凍てつくような寒さはなく、かえって心地よかった。
全てが綺麗になってようやく、私は髪を結び、服を着て、あの赤い靴を履いた。
そして日が高く登った空を見上げる。
「お腹、空いたな……」
あの甘い食べ物はどこにあるだろう。あの家にはもうないはず。
それなら、探しに行かないと。
木々のざわめきは穏やかで、ふわりと香る野イチゴの香りが甘酸っぱい。一粒つまんで落胆する。
これじゃなかった。
木陰の部分を縫うように森を歩けば、赤い靴がいくらでもイチゴを踏み潰して甘い匂いを引き立たせる。白い服の裾に僅かに果汁が飛び散った。段々見えなくなっていく、陽の光に照らされた家を一度だけ振り返る。
涙が出そうに切なかった。
ふと赤い靴を見下ろす。
きっと私は、あの日眩しいものでも見るかのように私を見ていた兄と同じ顔をしていた。あれは、彼の最期の離別の挨拶だったのかもしれない。
優しかった兄だけでも、あの幸せだった日々の思い出の中に置いて行こう。
靴に取り付けられたリボンを外した時、それが足首を絞めて皮膚を食い破っていたことに初めて気がついた。にじむ血は赤く、どこかで見かけた紅みたいだと思った。甘く漂う鉄の香りに眩暈がする。
できるだけ暗いところを歩こう。
あの狂気が兄のせいだと言い訳をしないように。
私の置いていったあの赤い靴が、この先の私を見つめないように。
◇
ドロシーの足跡を追うかののように、木漏れ日に徐々に色がつき始める。
影は徐々に形を変え、やがて一つのものを作り出した。
一人の少女だ。
一切の汚れのない、無垢な目をした少女。靴も履かずに森に佇んでいるというのに、その足は白かった。
彼女はドロシーの真っ黒に汚れた足の裏を見ると、ふと自分の足元を見下ろした。
年頃の少女の心をくすぐるような、真っ赤でリボンのついた可愛い靴。
彼女はそれを拾い上げると、薄暗い森の中をじっと眺める。小川のせせらぎと小動物たちが行き来する音だけが聞こえていた。
「……靴、忘れてるよ」
太陽が木陰を打ち破り、彼女の佇んでいた場所はスポットライトでも当たっているかのように照らし出された。
しかし、彼女はもういない。
森が夢でも見ていたかのように、光の中に消えたしまっていた。
小鳥の囀る音が森の中に消えていく。
すでに、兄を失った哀れな少女の足音も消えていた。
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