悪夢の淵までさよなら

野木千里

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この先、口を開くべからず

楽園を打ち砕く魔法

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「管理人さん……?」

 背後から囁かれて、私は立ちすくんだ。
 駒鳥だ。
 外敵たちの遠い喧騒《けんそう》を寄せ付けない、凛とした声。星の囁きのようだ。

「どうしてここに?」
 彼女に問う声が震えた。

「管理人さんならここにいると思ったから」
「なぜ逃げない?」
「蛇を見たことのないイブが、りんごを齧りますか?」

 この楽園以外の場所を、彼女は知らないのだ。
 私は纏ったマントを深く被り、振り返った。相反する二つの気持ちにこの身ごと切り裂かれそうになる。

「犬を連れて行くといいでしょう。そして、今度こそ振り返らないで」
 喉に纏わされた呪いが痛む。

「……管理人さんは一緒に来てくれないのですか?」
「城から出ることはできない」

 呪いの紋は二つの禁則を私に課《か》した。
 一つは、自由民と主人に逆らわず、許しがない限り話しかけないこと。
 もう一つはこの城から出ないこと。

 私は死ぬまでここでこのガラスの薔薇を守り続ける役割を課せられているのだ。主人には守護が必要だ。

「あなたの顔が見たい。約束でしょう?」
「この暗がりでは見えないでしょう」

 震える手で顔を露わにするが、背に月光を背負った私の顔を彼女は見られないはずだ。
 階段を駆け上がる音。

「ローザ!」

 途端に駒鳥は怯えたように息を詰めて手を引っ込めた。私は震える足で駒鳥と侵入者の間に立ちはだかった。懐には果物ナイフが一本。

 私たちの前に現れた男は、左手に松明を持ち、右手に輝く長い剣を握りしめていた。松明の荒々しい光に照らされる男の顔は鋭く恐ろしい。金の髪が炎で赤く染まっている。

「彼女を離せ!」

 駒鳥は私のマントをぎゅっと握ったまま後ろから出てこない。私のマントを掴む手が震えている。

 早く、この男に彼女を引き渡さねければ。じりじりと喉が締め付けられる。
 微動だにしない私と彼女を見て、男は顔を歪ませた。

「ローザ……絶対に助けてやるからな」

 この美しい駒鳥は名前まで美しい花の名を冠するのか。
 そんなことさえも知らなかった。

 駒鳥は男を見て故郷のことを思い出すだろうか。生まれ育った場所と彼女を求める人間の存在があれば、この城に残る理由はないはずだ。

「……管理人さん、この人、誰?」

 目の前の男が、今にも剣を取り落としそうなほど震えている。
 男の顔を見れば分かる。どれほどこの娘を探し求めていたのか。そして、私を憎んでいるのか。
 鋭い眼光が私を睨みつけた。

「ローザに何をしたッ!?」
「私は何もしていない」

 私は振り返って主人を見た。美しい薔薇の花がものを言うことはない。ただ、求められた分だけ奪うだけだ。

 私も主人と同じように、求められた分だけ奪うことができればどれだけ良かったことか。私には何も与えないこの美しい娘に、せめて愛を乞い願うことができれば。
 胸の奥がじりじりと焼ける。喉が締め付けられるように痛んだ。

「……今まで、誰かに何かをしたことはない」

 男に向けた果物ナイフの切先は哀れなほどに震えている。
 今ここから逃げ延びたとして、今日も明日も同じように生きて行くだけだ。駒鳥を奪われたとして、変わらず城を守り続けるだけだ。私は男と戦う理由なんて一つもない。

 なぜ。
 こんなにも、必死になって駒鳥を自分の手元に置こうとしているのだろう。この城を囲う柵を鳥籠とでも錯覚していたのだろうか。

「なら返せ! 俺の花嫁だ!!」
「真実ならば自分から駆け寄っているはずだ!」
「お前が酷いことをして忘れさせたんだろう!?」

 侵入者たちが次々と部屋に雪崩れ込んで、私と男を松明で照らした。
 炎の向こうに見知った顔を見つけた。

「あ……」

 忘れもしない。私をこの城の前まで連れてきた村長だ。私を置いていったくせに。

 こんな風に何もかも手遅れになっても、私からまだ奪うのか。
 頭の中が真っ白に染まっていく。腹が熱い。目の前の男はまるで私が極悪人かのように私を睨みつけている。この塔に響く甲高い悲鳴は、駒鳥のものだろうか。安心させてやらねば。

 ようやく私は自分の腹が銀の美しい剣によって貫かれていることに気がついた。

 なぜだ。
 なぜ、この怪物たちは私の住処に押し入って、私の命さえも奪うのに、怯えた顔をしているのだ。

 私は冷たい石の床にのたうちまわり、怪物たちを睨みつけた。

「何かしたのはお前たちだろう? 今も、あの時も!」

 ぶつり。そんな音が聞こえるほどに呪いの紋が私の喉を締め付け、引き裂いた。 

「管理人さん」

 駒鳥の凜とした声が私の呻き声を止めた。柔らかな手のひらが私に触れている。
 ガラス片のような澄んだ粒が落ちてくる。

 泣き止ませてやらないと。そうだ、子守唄はどうだろう。駒鳥はここにきた時からずっと、子守唄を歌えば泣きやんでくれたのだ。何も覚えていなくても、私の心配を受け取ってくれる優しい娘だったのだ。

 主人よ。この子が現れてから今まで、私は本当に幸せだったのだ。美しいものだけを集めているあなたには分かるまい。




 塔の天辺で美しい娘が泣いていた。彼女が抱き寄せているのは、痩せて顔色の悪い1人の男だった。

 村一番の美しい娘を閉じ込めていたこの男の死に、誰もが歓喜すべきだった。しかし、誰もが自らの罪を突きつけられたように黙りこくって俯いている。男の消え入りそうな弱々しい子守唄と、娘の啜り泣きだけが塔に響く。

 男を殺害した英雄でさえ、今にも泣き出しそうな顔で黙りこくっている。
 娘は泣き疲れた様子で英雄を見上げた。

「あなたは、私を愛していますか?」

 男を抱き寄せる娘の目と、娘を見下ろす英雄の目は同じだった。2人が視線を交わしてようやく、娘は自分の気持ちを理解した。もうこの虚無の楽園にはいられないだろう。

 確かにこれは愛だったのだ。もう手に入れることも、確かめることも叶わない。
 この塔の一番上に飾られていた美しいガラスの薔薇はいつの間にか砕け散っていた。
 そして、この城にかけられた永遠の美しい呪いも消え去り、静かな雨が塔に降り注いでいた。

 降り注ぐガラス片のような小雨の中、赤い靴を履いた少女が子犬と一緒になって塔をじっと眺めていた。子犬の主人である花の名の娘が現れるまで、本の最後のページを覗き込むように、ずっとそうしていた。

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