悪夢の淵までさよなら

野木千里

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この先、口を開くべからず

空虚の城の主人

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 人間は醜い。

 記憶に残った微かな恐怖が、夢の中で私を襲う。

 首に呪いの紋を刻まれ、この美しい城でのたうち回る私を主人はただ静観していた。捧げられた供物がどこにでもいるような垢抜けない子供だったことは申し訳なかったが、ただ、主人はその中で最も美しいものを奪っていった。

 もうやめて、と主人に縋ろうと声を上げた時、主人に逆らった罰として私の喉は紋に締め付けられた。

 幼かった私は、村人たちのすがるような目を思い出して泣きじゃくった。
 自分が病を呼んだのではない。ただ、父と母を病で失い、孤児だっただけ。その自分が流行病を止める生贄に選ばれたのは、罪を犯したからではなく、守る人間がいなかったからだ。

 美しくもなく、賢くもない、ただの痩せた子供。
 主人が対価として受け取れたのは自由民の身分くらいのものだった。




 夜闇の中で目を覚まし、汗に濡れた額を拭った。震える手を押さえつけるために、私は自分を慰めようと記憶の隅に引っかかった子守唄を歌う。この歌を歌ってくれた母の記憶も朧げだ。

 月光に駒鳥の手紙が照らされている。柔らかく穏やかな文字は、彼女が学校へ通っていたことの証左である。

『あなたの歌声は綺麗です』

 本当にそうであるならば、主人はこの声を奪っただろう。
 ただ、駒鳥はこの静寂に満ちた屋敷の中で人の気配を求めているだけだ。

 それでも、ただ城を美しく保つだけだった人生に一粒の星のような灯りを灯したことは間違いない。

 彼女は気づいているだろうか。若く美しい自分が、ただの城の番人に恋焦がれている矛盾に。もの言わぬ使用人を、美しい少女が必要とする『恋心』の相手として落とし込んでいるということに。

 だから明日の朝、主人に審判を問おう。
 私の醜い姿を見れば、これが恋でさえないことに気がつくことだろう。

 薄暗い部屋に置かれた一枚の鏡に私が起き上がった姿がうっすらと映し出されている。
 青白い顔。痩せた体。人間を恨む陰惨な目つき。美しさから遠くかけ離れた姿に、身震いをした。

 あの美しい駒鳥が、この醜い奴隷に恋を?

「……馬鹿馬鹿しい」

 到底あり得ない話だ。

 心根が優しいほどに、私の姿に恐怖するはずだ。
 だがもしも、私のこの醜さを、彼女が受け入れてくれたらどれほど嬉しいことだろう。愛するわけでもなく、ただ、私の醜さに目をつぶってさえくれれば。そして、愛する者を求めてここを出ていってくれたら。

 それだけで、命尽きるまでこの空虚の城に囚われる価値がある。
 星々が遠く、朝焼けに変わっていく色が見える。
 私は窓から月を見上げた。

「……朝焼けではない」

 城の端、森と城の柵の間から、獣の雄叫びが聞こえてくる。手に松明を持ち、唸り声をあげ、だんだんとこの城に近づいてくる。一本の道を辿る松明が道を照らし出し、それが行列であることを知った。

 彼らは柵の周りに次々と集まり、やがて一つの入り口から一気に雪崩れ込んでくる。

「……駒鳥を守らねば」

 ここに迷い込んだ犬はこの際良いだろう。彼らの目的が何にせよ、ただの犬を害することはないはずだ。

 しかし駒鳥は、若く美しい女だ。奴らの目的が略奪なのであれば、真っ先に『褒美』として扱われることだろう。

 部屋から飛び出して階段を駆け下り、駒鳥の元へと急ぐ。彼女の部屋は襲撃場所からとても近いのだ。主人への贄が奪われればどんな災厄が起きることか。
 霧を重ねたような繊細な布を捲り上げ、駒鳥の寝床を露わにする。

「起きてくれ、襲げき……」

 しかし、そこで眠っていたはずの駒鳥も子犬もいなかった。
 ベッドの脇に用意した部屋履きがない。

 まずいことになった。ヒヤリと冷たい汗がこめかみを伝う。何としてもあの子を守らなければ。

 部屋から駆け出し、屋敷中を走り回る。図書館、食卓、大広間、庭。襲撃場所からちょうど正反対の場所にある柵の戸の前まで駆け抜けた時、草を掻き分ける男の声が聞こえた。

「本当にローザがここにいると思うか?」
「しらねぇ。興味ねぇ」
「ま、土がいいから何でも育つよな、ここなら。さっさと魔女とやらをぶっ殺そうぜ」

 ローザとはあの子の名だろうか。返してやりたいが、主人を狙っているのなら話は別だ。

「せめて、主人だけでも……」

 男たちが遠ざかった後、暗い方へ駆け出す。この城には無数に張り巡らされた使用人用の出入り口がいくつもあり、中で入り組んでいる。私が主人と逃げ出す方が、奴らが主人の元へ辿り着くよりも早いだろう。

 塔を駆け上りながら窓の外を眺めると、至る所で松明が光っているのが目に留まった。駒鳥はこの景色を見ているだろうか。彼女ならこの景色を、星空を城に流し込んだようだと形容するかもしれない。

 正面玄関が乱暴に打ち破られる音が聞こえた。額の汗が目に入って痛い。乱暴に拭って私は主人の前に転がり出た。

 ガラスでできた美しい薔薇の花。月光を浴びてほのかに光り輝いている。
 美しく朽ちない空虚の城。それを作り上げているのがこのたった一輪の花だと知っても尚、彼らはこの城を欲しがるのだろうか。


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