敗北者

東園寺和響

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vol.2「朝、目覚めても暗黒、地獄の果て、俺はここの住民」

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ジーン、ジーン

底冷えする寝室に鳴り響く起床音は至極冷酷、そして獰猛。命まで取られそうだ。ビール缶をかきわけ無我夢中で止める。布団の外に肌を晒すと刺すような冷気が突き刺してくる。
窓の外では地吹雪が狂喜乱舞している。
猛獣の咆哮は天を覆い、断末魔の叫びは地を這う。嗚呼……。
個に蠢く不確かな感情は、人類が抱く共通の事案なのか、単なる被害妄想なのか。あの事件以来、俺は郵便局非常勤職員として生計を立てている。独り身、安月給の借金生活に苦しんでいる。毎日息苦しい生活。終わることを知らない腐肉と糞尿の顔面騎乗。借金のほとんどはパチンコの負け。この状況を何とかしたいのだが、パチンコで負けた金はでしか返せないという典型的な破産思考の為、何も変わらない。寧ろ悪化の途を辿っている。これは怪力アトラスや軍神マルスでもどうにもならない至極現実的な問題である。朝刊に目を通すと〈出生率過去最小〉〈がん死亡率全国ワースト〉〈脳血管疾患死亡率全国ワースト〉〈自殺率全国ワースト〉〈最低賃金全国ワースト〉の文字が力強い。ここは暗黒、地獄の果て。俺はここの住民。安月給上等!現実逃避のドブ底life。
「ばあちゃん。仕事さ行ぐど」
仏間の襖を少し開けると幽けき光が、父親の遺影を照らす。ばあちゃんは梅干しのような口元を動かし、うっすら目を開けた。
「んん、けんじ、気をつけで行ってけ」
ばあちゃんは起き上がろうとしたが、やんわりと制止した。
「調子なんたもんだ?」
心の中で大丈夫、という答えを期待しつつ尋ねてみた。
「んん、何ともね。大丈夫だ」蚊の鳴くような声だった。
父親が亡くなってからというもの、ばあちゃんの体調は次第に悪化していった。息子を亡くした悲しみは当人にしか分からないが、精神的苦痛は相当なものだったと推測する。以来、俺は毎朝、ばあちゃんの状態を確認し、父親の遺影に手を合わせてから出勤することにしている。父親の死、そしてばあちゃんが衰弱していく姿は正直辛く、切ない。行き場を無くした悲嘆の感情は、他者に対して不遜な態度をとらせてしまう。そこに当人の意思が入っているかと言えば、否ではない。周囲の状況次第である。
玄関を開けると吹雪は止んでいた。凍っていた闇も溶け、ぼんやりと朝を感じる。長靴がすっぽり埋まるくらいの雪を掻き分けて進む。昨夜はかなり降った。車に積もった雪を払い落としていると、背後に気配を感じた。

今がら仕事さいぐのが!

大家の婆だった。
「まだ非常勤で働いているのが!早ぐ定職さつげ!婆さん心配するべしゃ!」
チィ!反射的に舌打ちをしてしまう。婆は何やら文句を言っているようだった。無視をしていると、後頭部に痛みを感じた。どうやら雪玉をぶつけられたみたいだ。傘寿になると本来人間が持っている暴力性は失われるのだが、この婆だけは益々此盛んである。俺は背後を睨みつけた。と、その時、一瞬だが〈間〉を感じた。この〈間〉は俺の殺気がつくりだしているのか、婆なのか分からない。ただ、婆は恐ろしく冷ややかな視線を放っていた。本気で人間を卑下する振る舞いに一瞬たじろいだ。
婆が俺に嫌悪を抱いていることは重々承知している。借家を早く取り壊して、賃貸アパートを建てたいからだ。毎日、住宅会社の車が婆の家に止まっていることは近所の人間であれば誰でも承知である。俺は小さい頃から婆の家に爆竹を投げ込んだり、飼い犬に落書きしたりと悪行に限りを尽くしてきた。ただ、それらを差し引いても俺に対する扱いはひどいものだった。俺の親は婆の横柄に沈黙していた。借家暮らしは人間を矮小にさせる。しかし、ばあちゃんだけは「どれ、せば、言ってきてやる」と、孫の手を持って家を飛びだしたこともあった。
路面は凍結し、猛吹雪は容赦なくフロントガラスを叩きつけてくる。二十年落ちの軽自動車は力なく左右にふ
られる。バックミラーを覗くと白のワゴンが煽ってきた。運転手は俺の運転にかなり苛ついている様子だ。自身の力量不足から構成される厄災の塊が体内から沸き上がる。こうなると抑制できないことは分かっていた。運転手は色黒で坊主頭だった。眉間の縦のしわ、分厚い唇、鋭い眼光、醜悪な面構えだ。毎日何を食ったらそうなるのだ?俺は野蛮人に諭す教父の如く、柔和な微笑を鏡越しに浮かべる。気持ちとは裏腹な行動をとってしまうのは何故だろうか?昔から好意をもった女に対しても不思議と冷たい態度をとってしまう。わざとブレーキを踏んでやると、今度は益々煽ってくるようになった。その後、二車線になった所でワゴンは勢いよく追い抜いていった。
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