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第4章 オルダニアの春
第5話 春を!
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リチャードは妻のイレーネと、今や義母となったアデリーンとともに、二頭の白馬に繋がれた輿に乗り込んだ。イーディスとタイレルは賓客として後ろの、一回り小さな馬車に乗った。同伴者はそれだけで、あとは近習と護衛が徒歩で周りを固める。簡素ではあるが、細い山道を乱れることなく付き従う兵士たちの動きから、十分に彼らが訓練されていることと、その忠誠心を感じられた。
平坦な道ではない。ガタガタと左右に揺れる輿の中で、アデリーンは澄んだ微笑みをたたえていた。
リチャードたちが抱える疑問と問題のうちの一つ目。いったいなぜ、アデリーンはエドワード王から、回りくどい結婚への条件を受けたのか。
その疑問を、まるで見透かすかのような瞳だった。わかっていて、答えられない質問はしないでほしいとガードを張るような口元。相手に問わせない表情だ。この心理戦において、リチャードはアデリーンの足元にも及ばない。
新妻は静かに、淑やかに、夫の隣にいた。何も知らない無垢な存在が、さらにリチャードの足枷になって、疑念を忘れさせようとしてくる。
湖の北側には、すでに宴席が用意されていた。周囲の村人たちも集まっていて、即席で簡単ではあるけれど、ありったけのご馳走と葡萄酒が山と積まれていた。それぞれの村の特産品だ。驚くほどに種類豊富だったが、そのどれもが小ぶりで、色艶が悪い。昔は獲れた作物も、今は収穫が難しくなっているという話を聞いた。
リチャードは胸が痛んだが、ありがたくそれらを頂戴し、余った分はすべて村人たちで分配するように申し出た。
日が傾けば、山に囲まれ、湖を目の前にした村々は寒い。吐く息の白さに、リチャードが村民たちの生活を想った。
「湖の精霊へ報告を」
と、言われるように、そこにいるはずの守り神とやらへ結婚を伝える儀式が行われたのだが、リチャードは分厚く氷の張ったそれを眺めて、ジャナワルならもうここにはいないのだと一人静かに思った。
「リチャード様」
と、まだあどけない頬のイレーネが、こっちへ不安げな目を向けた。
「何をお考えですか? 何か、心配事でもおありのようですけど」
察しがいい。
「ただの『リチャード』で構わない」と、彼ははぐらかした。「きみは私の妻だが、付き従うことはない。私たちは主従関係ではないのだ」
「わかりました。リチャード」
それからまた彼は沈黙した湖に視線を投げた。かつては豊かな水をたたえ、この地に豊穣をもたらせたのだろう。リチャードも、湖で獲れた魚に舌鼓を打った覚えがある。なぜ、それが今、こんな姿に。
宴は時間を忘れて続いた。小さな村々の代表が次々に挨拶にやってくる。彼らはリチャードの容姿に多少の疑問を挟んだようだが、年若い「女性のように」美しい王子だと信じ込んだようだ。
リチャードは、それどころではない。寂しくも山の後ろに日が落ちて、松明に火が入れられた。その反対側から、ぷっくりと肥えた月が顔をのぞかせる。
リチャードの背中にゾワリと悪寒が走った。
「失礼」
と、誰かの挨拶の最中であるのをかまいもせずに中座する。
そばにイーディスが駆け寄ってきた。彼女はただ飲み食いを楽しんでいるだけではなかった。
「湖を半周してきたが、どこもだめだ。氷が弱っている部分もない。溶ける様子はひとつもないぞ」
リチャードは額のぬるつく汗を手の甲で拭った。自分こそ溶け出してしまいそうな緊張感だ。食べたものを全部戻してしまいそうだった。
「ああ、私はバカだ。なんであんなことを」
「そう言ってもはじまらないだろう。今タイレルに言って、急ぎ川をさらってジャナワルを探そうとしている」
「そんなことができるのか?」
「わからんが、なにもしないよりはマシだろう。彼がどんな手を使うのかは知らないが」
川に潜るのだろうか。村人や船頭に頼むのだろうか。
ああ、いや、今そんなことに気を揉んでいる場合ではない。
「いいか、リチャード。どんなことがあろうとも、堂々としているんだ。何が起きても、遠い土地で起きる災害なんか、お前の責任じゃない。お前は『鷹ノ巣城』の君主になったんだ。お前は、今ここに集まった村人たちに対する責任を背負っているんだ」
耳元で、イーディスが何か励まそうとしてくれている。だが、わからない。聞こえない。本当にそんなことでいいのか。
『愚かで小さな人間よ』
大蛇の言葉が蘇る。
『お前たちは天性の嘘つきだ』
なんという辛辣だろうか。
「ああ、イーディス。私は愚かだ。それは確かだ」
凍りつき、白くけぶる湖を前に、リチャードはふらふらと近寄って膝を折った。
すぐそばにはイーディスが付き従い、異変を察知したイレーネが、分厚い毛皮の外套を手に駆け寄ってくる。
「この湖はなぜ凍っているのだ? なぜだ。どうして神はこのような仕打ちを与える。我々が、古代の神々を見捨てたからか。新しい大陸の、ただ一人という神に祈りを捧げるからか。エドワード大王は、ただ一人の王になろうとした。それは正しいのか。今日集まった村のひとつひとつは、それぞれの作物を持ってきてくれた。それらはすべて違うのに、ひとつの国と呼んでいいのか」
リチャードの頭は混乱し、考えは錯綜した。
イーディスとイレーネは心配したが、村人たちは熱心に語りに耳を傾けていたし、アデリーンも止めようとしなかった。
「私たちが何か過ちを犯し、そのために湖に春が訪れないというのなら、それを教えてほしい。私はそれを正そう。ジャナワルよ、聞いているか。私だ。エセルバートの子、リチャードだ。愚かで小さい人間の一人だ。だが私は嘘つきではない。嘘つきにはなりたくない。どうしていいかわからないだけなのだ」
彼の必死の訴えは、意味はわからなくとも群衆の心を打った。新しい領主様は、この地が凍えるのを案じて涙してくれている。それだけで、小さな村人たちは感じ入っていたのだ。
リチャードは身を投じて謝罪するかのように、土に膝をつき、湖に向かって両手もついていた。
月は西の『滅びの山』へ隠れようとしている。氷など、溶けようはずのない寒さだ。
「さあ、もう立とう」
イーディスが腕を引っ張った、その時だった。
「あ、あれを……」
誰かが指をさした。
「見ろ!」
「あれは……」
気づいた人々が周囲と顔を見合わせる。
リチャードも顔を持ち上げた。ゆっくりと立ち上がる。
イーディスと、イレーネと、アデリーンも見た。
湖の真ん中で、ミシミシ……と軋む音。それとともに、ギザギザとした亀裂が一つ、左右に角度をつけながら、こっちへ走ってくるのだ。それはまるで空を切る鷹のように、鋭利で素早かった。
あっという間に氷は瓦解し、群衆の目の前で音を立てて湖の中へ崩れていった。水飛沫が上がり、冷たいモヤが晴れていく。黒く、硬くなっていた岸辺の土は柔らかくなり、彼らは命の躍動を伝える暖かさを手のひらに感じていた。
唖然として、リチャードは振り返った。
そんなまさか。
いや、馬鹿な。
本人の頭に浮かんでいるのは、そればかりだったが、彼らは驚愕と期待と、神聖なものを見る眼差しを寄せている。
そして誰かが片膝をつくと、それが伝播して、次々に人々がリチャードの前に忠誠を誓う姿勢を取った。貧富も身分も関係なく、誰もが膝を折って首を垂れる。
そんなリチャードの後ろでは、まだ氷が溶けるダイナミックなショーが終わらない。
「なにか言ってやれよ」
イーディスに囁かれ、リチャードは戸惑った。
イレーネを見る。潤んだ瞳に星が輝いた。
「春だ!」
と、リチャードは群衆へ向かった。
「春は必ず訪れる! 信じて待て! オルダニアに春をもたらすのだ!」
「春を!」と誰かが繰り返した。
「オルダニアに春を! 新領主様、万歳!」
「オルダニアに春を! リチャード様、万歳!」
宴は朝まで続いた。
そして温かい陽気に目を覚ますと、湖畔には花が咲き乱れ、緑豊かな楽園が姿を現していた。
平坦な道ではない。ガタガタと左右に揺れる輿の中で、アデリーンは澄んだ微笑みをたたえていた。
リチャードたちが抱える疑問と問題のうちの一つ目。いったいなぜ、アデリーンはエドワード王から、回りくどい結婚への条件を受けたのか。
その疑問を、まるで見透かすかのような瞳だった。わかっていて、答えられない質問はしないでほしいとガードを張るような口元。相手に問わせない表情だ。この心理戦において、リチャードはアデリーンの足元にも及ばない。
新妻は静かに、淑やかに、夫の隣にいた。何も知らない無垢な存在が、さらにリチャードの足枷になって、疑念を忘れさせようとしてくる。
湖の北側には、すでに宴席が用意されていた。周囲の村人たちも集まっていて、即席で簡単ではあるけれど、ありったけのご馳走と葡萄酒が山と積まれていた。それぞれの村の特産品だ。驚くほどに種類豊富だったが、そのどれもが小ぶりで、色艶が悪い。昔は獲れた作物も、今は収穫が難しくなっているという話を聞いた。
リチャードは胸が痛んだが、ありがたくそれらを頂戴し、余った分はすべて村人たちで分配するように申し出た。
日が傾けば、山に囲まれ、湖を目の前にした村々は寒い。吐く息の白さに、リチャードが村民たちの生活を想った。
「湖の精霊へ報告を」
と、言われるように、そこにいるはずの守り神とやらへ結婚を伝える儀式が行われたのだが、リチャードは分厚く氷の張ったそれを眺めて、ジャナワルならもうここにはいないのだと一人静かに思った。
「リチャード様」
と、まだあどけない頬のイレーネが、こっちへ不安げな目を向けた。
「何をお考えですか? 何か、心配事でもおありのようですけど」
察しがいい。
「ただの『リチャード』で構わない」と、彼ははぐらかした。「きみは私の妻だが、付き従うことはない。私たちは主従関係ではないのだ」
「わかりました。リチャード」
それからまた彼は沈黙した湖に視線を投げた。かつては豊かな水をたたえ、この地に豊穣をもたらせたのだろう。リチャードも、湖で獲れた魚に舌鼓を打った覚えがある。なぜ、それが今、こんな姿に。
宴は時間を忘れて続いた。小さな村々の代表が次々に挨拶にやってくる。彼らはリチャードの容姿に多少の疑問を挟んだようだが、年若い「女性のように」美しい王子だと信じ込んだようだ。
リチャードは、それどころではない。寂しくも山の後ろに日が落ちて、松明に火が入れられた。その反対側から、ぷっくりと肥えた月が顔をのぞかせる。
リチャードの背中にゾワリと悪寒が走った。
「失礼」
と、誰かの挨拶の最中であるのをかまいもせずに中座する。
そばにイーディスが駆け寄ってきた。彼女はただ飲み食いを楽しんでいるだけではなかった。
「湖を半周してきたが、どこもだめだ。氷が弱っている部分もない。溶ける様子はひとつもないぞ」
リチャードは額のぬるつく汗を手の甲で拭った。自分こそ溶け出してしまいそうな緊張感だ。食べたものを全部戻してしまいそうだった。
「ああ、私はバカだ。なんであんなことを」
「そう言ってもはじまらないだろう。今タイレルに言って、急ぎ川をさらってジャナワルを探そうとしている」
「そんなことができるのか?」
「わからんが、なにもしないよりはマシだろう。彼がどんな手を使うのかは知らないが」
川に潜るのだろうか。村人や船頭に頼むのだろうか。
ああ、いや、今そんなことに気を揉んでいる場合ではない。
「いいか、リチャード。どんなことがあろうとも、堂々としているんだ。何が起きても、遠い土地で起きる災害なんか、お前の責任じゃない。お前は『鷹ノ巣城』の君主になったんだ。お前は、今ここに集まった村人たちに対する責任を背負っているんだ」
耳元で、イーディスが何か励まそうとしてくれている。だが、わからない。聞こえない。本当にそんなことでいいのか。
『愚かで小さな人間よ』
大蛇の言葉が蘇る。
『お前たちは天性の嘘つきだ』
なんという辛辣だろうか。
「ああ、イーディス。私は愚かだ。それは確かだ」
凍りつき、白くけぶる湖を前に、リチャードはふらふらと近寄って膝を折った。
すぐそばにはイーディスが付き従い、異変を察知したイレーネが、分厚い毛皮の外套を手に駆け寄ってくる。
「この湖はなぜ凍っているのだ? なぜだ。どうして神はこのような仕打ちを与える。我々が、古代の神々を見捨てたからか。新しい大陸の、ただ一人という神に祈りを捧げるからか。エドワード大王は、ただ一人の王になろうとした。それは正しいのか。今日集まった村のひとつひとつは、それぞれの作物を持ってきてくれた。それらはすべて違うのに、ひとつの国と呼んでいいのか」
リチャードの頭は混乱し、考えは錯綜した。
イーディスとイレーネは心配したが、村人たちは熱心に語りに耳を傾けていたし、アデリーンも止めようとしなかった。
「私たちが何か過ちを犯し、そのために湖に春が訪れないというのなら、それを教えてほしい。私はそれを正そう。ジャナワルよ、聞いているか。私だ。エセルバートの子、リチャードだ。愚かで小さい人間の一人だ。だが私は嘘つきではない。嘘つきにはなりたくない。どうしていいかわからないだけなのだ」
彼の必死の訴えは、意味はわからなくとも群衆の心を打った。新しい領主様は、この地が凍えるのを案じて涙してくれている。それだけで、小さな村人たちは感じ入っていたのだ。
リチャードは身を投じて謝罪するかのように、土に膝をつき、湖に向かって両手もついていた。
月は西の『滅びの山』へ隠れようとしている。氷など、溶けようはずのない寒さだ。
「さあ、もう立とう」
イーディスが腕を引っ張った、その時だった。
「あ、あれを……」
誰かが指をさした。
「見ろ!」
「あれは……」
気づいた人々が周囲と顔を見合わせる。
リチャードも顔を持ち上げた。ゆっくりと立ち上がる。
イーディスと、イレーネと、アデリーンも見た。
湖の真ん中で、ミシミシ……と軋む音。それとともに、ギザギザとした亀裂が一つ、左右に角度をつけながら、こっちへ走ってくるのだ。それはまるで空を切る鷹のように、鋭利で素早かった。
あっという間に氷は瓦解し、群衆の目の前で音を立てて湖の中へ崩れていった。水飛沫が上がり、冷たいモヤが晴れていく。黒く、硬くなっていた岸辺の土は柔らかくなり、彼らは命の躍動を伝える暖かさを手のひらに感じていた。
唖然として、リチャードは振り返った。
そんなまさか。
いや、馬鹿な。
本人の頭に浮かんでいるのは、そればかりだったが、彼らは驚愕と期待と、神聖なものを見る眼差しを寄せている。
そして誰かが片膝をつくと、それが伝播して、次々に人々がリチャードの前に忠誠を誓う姿勢を取った。貧富も身分も関係なく、誰もが膝を折って首を垂れる。
そんなリチャードの後ろでは、まだ氷が溶けるダイナミックなショーが終わらない。
「なにか言ってやれよ」
イーディスに囁かれ、リチャードは戸惑った。
イレーネを見る。潤んだ瞳に星が輝いた。
「春だ!」
と、リチャードは群衆へ向かった。
「春は必ず訪れる! 信じて待て! オルダニアに春をもたらすのだ!」
「春を!」と誰かが繰り返した。
「オルダニアに春を! 新領主様、万歳!」
「オルダニアに春を! リチャード様、万歳!」
宴は朝まで続いた。
そして温かい陽気に目を覚ますと、湖畔には花が咲き乱れ、緑豊かな楽園が姿を現していた。
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