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第4章 オルダニアの春

第6話 旅路

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 ヒルダは『馬鞍山』を前にして立ち往生していた。もちろん彼女は一人でそんなところにいるわけではない。ヘンリーを筆頭としたゴーガ人、ギアルヌ一行の全員で困り果てていた。

 谷を渡るための、唯一の橋が凍っているというのだ。

 裾野の村でその話を聞いて、一行は道を変えるために立ち止まった。ヘンリーと経験豊富な年上連中が状況を確認して相談している間、中間は万が一宿泊することになった時のために寝泊まりする場所と、当面の食料の再計算と収集に走る。下っ端は荷物番と、そのときどきに応じて使いっ走りをするなど忙しい。

 ウォルターは『崖の町』を出て最初に訪れた村で、ヒルダのためにロバを手に入れた。彼は他のギアルヌ同様の倹約家で、働いた賃金を「いつか」のためにほとんど親方に預けていたのだ。自分だけのロバを手に入れるくらい、どうってことないのだと話してくれた。

 それでもヒルダは恐縮して、行く先々で占いをするなどして稼いで返したいと聞かない。道中二人はずっと押し問答だったが、遅れをとるほうが迷惑をかけるのだと気づいたヒルダは、鞍をつけたそれに跨った。

 乗り物に乗るのは初めてだったが、まるで封印されていた古い記憶が蘇ったかのように、彼女はすんなりそれを操った。はじめこそウォルターが綱を持っていたのだが、旅を進めるうちに、それも必要なくなった。

「私は、覚えていないだけで、ロバに乗ったことがあるのか?」
 首を傾げるヒルダに、ウォルターは、「勘がいいんだよ」と返した。

 ヒルダの勘のよさはそれだけに留まらなかった。壁の外に出た彼女は、すぐさま太陽から方角を読み、星の位置を覚えた。『崖の町』にいた頃は、縦につっかえた町並みと、横に広がる海という二つの景色しか見たことなかったが、外にはどこまでも視界を遮るもののがない草原が広がっていたかと思うと、鬱蒼と生い茂って数メートル先も見えない森もあり、また今その麓で行き道を困らされている頭の白い山もある。

 ロバを繋いで、他のギアルヌと共に、屋根とベッドだけの宿屋に腰を下ろした。吹き抜ける風は冷たい。ヒルダはベッドだったが、ギアルヌたちは小さな焚き火に集まっていた。

 パンを持ってウォルターがやってきた。周りに食料を配り歩いて、最後の二つを手にヒルダに前に座る。

「南側へ回り込むことになりそう」
と、ヘンリーたちの会議から漏れ聞こえたことをこっそり教えてくれた。

「山を迂回するってこと?」

 確認しながら、ヒルダは頭の中で地図を開いた。ウォルターの言う通り、この地図というやつは便利だ。

 ウォルターは硬いパンをかじって頷いた。
「遠回りになるけど、これ以上は待っていても冬になるだけだから」

 冬になると言うが、すでに十分冬の様相である。『崖の町』の背面にそびえていた『無垢なる山』を越えたら、吹きつける風が一気に冷たくなったのだ。そこから先、草原の緑は空っ風に吹かれて寒そうだった。

 ギアルヌの一団の中にいると、まるで彼らが天然の防寒具のようだった。とはいえ、朝晩はボロのマントでは防ぎきれないほど冷える。ここから先、隊を離れて北へ向かうなら、ここで装備を整えなければならないだろう。

 ヒルダはソワソワしていた。

 ウォルターから、「『白鷹の森』へ行くのなら、分岐点は『馬鞍山』を越えたところ」と聞かされていたからだ。橋が凍って動けないと言われた時、考える猶予がまた少しできたと、ほっとしてしまったくらいである。

 このまま『金の鉱山』へ行くのもいいような気がしていた。ギアルヌの人々はぶっきらぼうだが、情に厚い。むやみなお喋りはしないから、冷たく無愛想な連中だと思われがちだが、まったくそうではないということが、彼らと旅を共にし、過ごしてきて知れたのだ。

 彼らは陽気で、ユーモア好きで、仲間想いだ。突然合流したヒルダに対しても紳士的に振る舞い、好奇の目を向けたり揶揄したりしない。「『金の鉱山』へ来るのなら歓迎する」とまで言ってもらえている。

 ヒルダはウォルターを前にして、会話に困った。「それじゃあ『白鷹の森』へ行くにはどうするの?」と聞いたら、その道が決まってしまいそうで怖気づく。
 ウォルターは何も言わずに簡素な食事を続けていた。でもどことなく、昼だから話すのを待っているようにも思えた。

 ここまでの道のりも、決して平坦ではなかった。道そのものも起伏に富んでいたが、色々な町を見た。活気づいた賑やかな町だけではない。うらびれ、朽ち果てようとしている無人の村も見た。かつては人と家畜で溢れていたという農村も。ギアルヌたちは壁を修理しながら、そんな町や村の興亡もつぶさに見続けてきたのだという。

 特に印象に残っているのは、戦火のあとの生々しい、半分焼けた農村だった。この辺り一体は、エドワード王の七大騎士たちによる小競り合いが起きているのだと教えられた。

 ヒルダはショックだった。自分が何気ない毎日を暮らしていた町から数日歩いたところに、こんな惨状が広がっているなんて。
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