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2.龍の髭を狙って毟れ!
執着
しおりを挟む未だ生暖かさの残る手首を何となく摩りながら呆けていると、ガラリと教室のドアが勢いよく開かれた。
「そ、う、す、け~?」
「……お、砂盃。悪いな、こんなところまで」
「ホンットにね! あれだけ動くなって言ったのにGPS動きだした時は気絶するかと思ったよ、度し難くて! お前は本当に嘘しかつかな、……ってアレ、ジャージ」
「通りかかった親切な人が貸してくれた」
入室してきたのは青筋を立てた砂盃だった。アプリで居場所が分かるとは言え、無駄足を踏ませてしまったことに変わりはない。素直に謝れば、額を押さえながらデカいため息を吐く。
「はァ? 親切な人ォ? この学園に居るかよそんな奴」
「自分の通ってる学校の治安を少しは信じろよ」
篤志の好感度を上げたいという下心はバリバリにあったが、まあ引き返してまでタオルやジャージを貸してくれたのは事実だ。取り急ぎ親切な人ということにしておこう。
「ま、いいけどね。宗介の猪突猛進ぶりは今に始まった事じゃないし……」
ぶつぶつと呟きながら俺の後ろに回って、ガシガシと乱暴な手つきで濡れた髪を拭いてくれる砂盃。なんやかんやで面倒見がいい奴だよなぁ、家事は壊滅的だけど。
壊滅的というか、やる気が一切ない。きっと今までも連れ込んだ誰かがやってくれていたのだろう。生きるのが他力本願というか、シャカリキに生きようという気概を感じられないというか。
人生全部が微睡みの中のような、いつ終わりが来てもぼんやりとした返事で納得してしまいそうな執着のなさ。それが俺から見た砂盃菊之助の生き方だ。
すり、と手首の内側をなぞりながらぼんやりと考える。肌が粟立つような視線と思わせぶりな言葉。これは、触れてもいいこと、だろうか。
もしも仮に、巳上が砂盃に持つ感情が悪意に由来するものであるとするならば。出来れば、それらから護ってやりたいと思う。
編入したてで右も左も分からない俺の面倒を見てくれて、篤志至上主義の頑固な俺に愛想をつかさず友達で居てくれる砂盃。いつも口ではぞんざいな扱いをしているが、その実その存在に助けられてばかりだ。
胡散臭い笑みの下に隠された本心も、夜にどんな生徒に会っているのかも、どんな風に今迄生きてきたのかも知らない。それでも大事な友達だから。一歩だけ、足を踏み出してもいいだろうか。お前のその心に触れる為の一歩を。
「……なあ、砂盃」
「何ですかお客様~。どこかお痒い所ございますか~?」
「——巳上と、知り合いなのか」
勇気を出してそう聞いてみれば、あれだけ忙しく動いていた手がぴたりと止まった。
まずい、これは地雷だったか。いやでも、砂盃ならきっと気まずくならないように適当に誤魔化して流してくれるだろう。多分、こいつはそうやって他人と深く関わらずに生きてきた。だから、今回だって。
やっぱり俺は砂盃にとってまだ『外側』の人間だ。変な気を起こすんじゃなかった。俺は篤志じゃないんだから、あんな風に誰かを掬い上げて救うことなんて出来ないのに、随分と驕ってしまっていた。
そんな俺の自己嫌悪とは裏腹に、砂盃の少し冷たい指先はじわりと喉を這った。そのままく、と上を向かされる。ぞっとする程暗い瞳が、俺を見下ろしていた。
「あったの」
短い問いかけだった。だがしかし、それには人を屈服させる圧力が籠っている。
怒っている? 何に。どうして。初めて見る表情のない砂盃が、恐ろしくて堪らない。
「ジャー、ジ、貸してくれた」
「……チッ……、アイツかよ……」
顔を歪めて舌打ちをする砂盃が怖くて視線を逸らそうとする。だが、喉をがっちりと掴まれているので身動き一つとれやしない。掌が喉仏を圧迫してきて酷く苦しい。
「なんて言われた?」
「え、えっと、砂盃によろしくって」
「……それだけじゃないだろ」
いつになく口調が荒い。これは俺に対して怒っているのか、それとも巳上に対してなのだろうか? 痴情の縺れという単語が脳裏によぎる。これはいよいよ本格的な話になって来たかもしれない。
「そ、の」
「うん」
「砂盃が、不純同性交友をしていることを知ってるか、とか。……お前と、ヤったことあるか、とか」
「…………」
「勿論否定した! ただのルームメイトだって言った、向こうだって納得してる!」
俺のあの反応からして、二人の間にそんな関係が無い事はよく分かっただろう。ちらりと手首を見やった視線を目敏く見つけられて、問答無用で腕を掴まれた。ぐい、と一気にジャージの袖が引き上げられる。素肌とメッシュが擦れて痛い。
教室に差し込むのどかな日差しに、居心地悪そうに照らされるキスマーク。生傷だらけの腕に残っているそれは、最早ただの痣の内の一つだった。砂盃が時折首にちらつかせているそれと同じようには見えやしない。
「巳上にやられたの」
「あー、そのー、えと」
「やられたんだな」
「ウス……」
チッとまた一つ舌打ち。居た堪れなくて目を逸らす。
「なあ砂盃、何でそんなに怒って——」
俺の言葉なんて聞いたこっちゃないとばかりに砂盃が俺の手首に顔を近づける。あれ、なんかこの光景、デジャビュ——。
瞬きの間に砂盃の赤い唇が俺の肌に触れる。がぱり、と開かれる口。アレ、意外と、犬歯が鋭い。
——ガリッ!
「いっっっっで!!」
空き教室に俺の汚い悲鳴が響き渡った。わななわなと震えながら信じられないものを見る目で男を見上げる。砂盃は真っ暗な目で俺を見下ろしながら、おまけとばかりに今さっきくっきりとつけた歯形を舐め上げた。ざらついた味蕾が肌を擦る感覚が気色悪くて仕方がない。
か、か、嚙みやがった、コイツ……!
「ブスな声。うちの子たちはもっと可愛く啼くのに」
「悪かったなおブスで!!!」
そりゃあお前が侍らせてる目のデッケェ小型犬みたいな奴らだったら、もっと可愛く可憐に鳴いただろうさ。でも俺だぞ。この俺、可愛くない代表の後田宗介に一体何を求めているというんだ。むしろこの顔面で可愛く鳴いたらキショいだろうが!
「な、な、なにす、」
「消毒」
「消毒って言葉をお前に教えた奴を連れてこい。シメてやる」
普段の砂盃であればここで軽口の一つや二つぽんぽんとテンポよく返ってくるのだが、どうにも今日はそうはいかない。いつも喧しい奴が静かだとこうも調子が狂うのか。
「それ、巳上のジャージ?」
「そ、うだけど」
「脱いで。今すぐに。宗介の持ってきたから、早く」
ぐいぐいと袖を引っ張られて慌てる。一応借りものなんだぞ、伸びたりなんてしたらどうする。イライラした様子の砂盃に見守られながら着替えると、あっという間に巳上のジャージを奪われてしまう。
「おい、どうすんだソレ」
「捨てる」
「はあ?」
「その辺に捨てる。宗介は気にしないで」
「アホ! 何言ってやがる!」
仄暗い目でぐちゃぐちゃにジャージを纏める砂盃に慌てて拳骨を落とす。左程痛くは無かっただろうが、不服そうな目でこちらをじとりと見てきた。
「お前なあ、篤志への下心が九割とは言え、仮にも貸してもらったジャージだぞ。捨てるなんて言語道断、ちゃんと洗って返します」
砂盃と巳上の間にどんな因縁があるのかなんて俺には関係ない。俺はただ親切にしてもらっただけだ。恩を仇で返すような真似はしたくない。そんなことをしたら前野家の看板に泥を塗ってしまうだろうから。
「なんで巳上の肩持つの」
「そう言う話じゃない。受けた恩は返すべきってことだ」
「なんだよ恩って。武士かよ」
「いいだろ別に、武士じゃなくても。信頼貯金って知ってるか」
ぶすくれる砂盃の頭をもう一度軽く叩いてジャージを取り返す。恩だとかの前に、返さなかったらあらぬ誤解を生みそうで嫌だ。盗んだとか転売しただとか。そんな濡れ衣を着せられるのは絶対に御免だ。
「……もういい。とりあえず部屋に戻ろ。早急にシャワー浴びて」
「えっ、篤志たちは?」
「リカルド先輩に任せておけばいいでしょ。さっさと消毒!」
俺の背中を押してさっさと空き教室を出る砂盃は、やっぱりちっとも笑っていなかった。
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