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2.龍の髭を狙って毟れ!
魔女の呪い
しおりを挟むザアア、と遠くで聞こえるシャワーの音をBGMに、気持ちを落ち着けようと何度も足を組み替えては唸る。でもその度に宗介の泳いだ目が、健康的に焼けた肌に居心地悪そうに咲いた紅が脳裏に蘇って駄目だった。
「……クソがッ…………」
どうにも苛立ちが収まらずにガツン、とローテーブルの脚を蹴る。蹴った後にハッとして耳を澄ませたが、シャワーの音は変わらずに軽快に響いていた。良かった、バレていない。ほっとしている自分に笑った。毒されているなぁ、随分と。
私物をぞんざいに扱ったり物に当たったりすると、宗介は目を吊り上げて怒る。まだまだ使えるものだろう、物は大事に扱えなんてガミガミと口うるさく。全部俺の私物なんだからどう扱ったって自由だろうに、宗介はフィクションでしか見ない典型的な母親みたいに怒るのだ。
——そういう所が、いい。宗介のそう言う、駄目なことはちゃんと駄目って言って、躊躇いなく𠮟ってくれる普遍的な普通な所が、すごくいい。
ちゃんと俺のことを見てくれてるんだなって、遠慮も崇拝も嫌悪も無く、ただただ俺を『砂盃菊之助』という人間として見てくれてるんだなって思う。普通の家族ってこんなもんなのかなって、柔らかな夢を見せてくれる。
噛み付いた時の色気のない悲鳴を思い出す。薄暗いベッドの中で噛み付いた時に跳ね上がるような甘ったるい響きは一つもない。汗ばんだ素肌が混じり合う、くらくらしてどこか吐き気のするような熱も無かった。それなのに、不思議と心が満たされた。
『悪かったなおブスで!!!』
痛みで少し涙目になりながらもガルルと噛み付いてくる宗介は可愛くなくて可愛くて、それでいいと思った。
別の人間に構わないで。前野篤志はもう仕方がない。アレは恐らく後田宗介という人間を形成するときに、核の一つとして組み込まれてしまった存在だ。今更ぽっと出の俺がどうこう出来るようなことも無いだろう。
そこを否定してその位置からあの男を追い出そうとすれば、多分宗介の輪郭はドロドロに溶けて『後田宗介』じゃなくなっちゃう。
だから、不服ではあるが飲み込む。諦める。でも、でも、それ以外は。
アイツ以外の一番は、俺にしても欲しいと思う。猪狩よりも鹿屋よりもリカルドよりも近い、お前にとっての一番のクラスメイトで、ルームメイトで、友人で在りたい。そういう砂盃菊之助になりたい。
「………………ええ~~、いやキッモ~。うっそ、思ったよりはまっちゃってる感じ?」
自分があまりにも気持ち悪くて頭を抱えて笑ってしまう。ただのクラスメイトで、ただのルームメイトで、ただの友人だ。出会って一か月ちょっとしか経ってない。
でも、眩しい。眩しいからずっとは見ていられないけど、でもふとした時に目で追ってしまう。
一人部屋は楽だった。いつ帰ったって誰にも咎められないし、いつ誰を連れ込んだっていい。家具を適当に使ってもいいし、家事なんてしなくても親衛隊の子たちが頼んでも居ないのに甲斐甲斐しく世話してくれた。
放送委員会を辞めたのは本当に何となくだ。一人部屋に飽きてしまったというのも本当。でも実際に高等部に上がって、久々に一人じゃない部屋を見て、怖くなった。
どんな人間が来るのだろうとか、俺を見てどう思うのだろうとか。何てったって俺は校内でも有名な魔女の子だ。親衛隊の子たちは俺を神様みたいに扱ってくれるけど、所詮は井の中の蛙。奇異の目で見られることは明らかだった。
だから、先生から同室者が外部生で、しかも一週間遅れてやってくると聞いた時は少しだけほっとした。
手にした新しい部屋の鍵を仕舞いこんで、色んな子たちの部屋を渡り歩いて。ようやくやって来た新たなルームメイトは、爛々と輝く鋭い目を持つ男だった。
誰かの為に生きられる男。眩しい、と思った。干乾びる、と思った。俺みたいな人間にとってはまともに相手したら疲れてしまうタイプの人間だった。
その真っすぐな貫くような目が居心地が悪くて、教室ではちゃんと会話するけれど部屋には帰らず、避けるように外泊を繰り返して四日目。
俺は不服そうな宗介に首根っこを掴まれて言われたのだ。『飯、どうすんの』。それからはもう、トントン拍子。自作の契約書を突きつけられた時は腹がよじれるかと思った。
『おー、おはよう。飲みモンは自分で淹れろよ』
『は……、おま、これだけ? ゼリー飲料って病人が食うもんだろうが、ちゃんと飯食えよ』
『砂盃ー! ゴミーー! 出しとけって言ったよな!!』
『えっ、これ食っていいのか。……嬉しい。ありがとな』
『はい布団干すぞ~、さっさと退け~、はい文句言わなーい』
『お、ま、え、な~~~! 晩飯要らないなら連絡しろって言っただろ! 契約書にも書いてある!』
『——おう、お帰り。飯出来てんぞ』
帰る時に連絡をするようになった。部屋に戻る前に必ずシャワーを浴びるようになった。怒られるからそれなりに家具を大切に扱うようになったし、家事もまあ、出来る事はやり始めた。締め切られていた俺の部屋の窓は定期的に開けられるようになったし、毎日夕飯を食べるようになって少し健康的になった。
ドアを開けたら、お帰りと言われる。ただいま、を、躊躇いなく言えるようになったのは、いつ頃からだろう。
「…………巳上」
薄らと気味悪く笑う男を思い出す。巳上巴、よく出来た人間だ。あれだけの激情を抱えながらそんな素振りを欠片も見せずに振舞っているのだから御見それする。巳上家なんて継がずに舞台俳優にでもなればいいのに。
あれはきっと、蛇のように虎視眈々と狙っているのだ。俺を絞め殺す機会をうかがって、目を光らせ続けている。
——俺がアイツにしたように、俺から全部奪ってめちゃくちゃにするつもりだ。
俺の顔と性能だけで寄ってくる蛾のような連中は良い。俺をトロフィーのように扱う人間が、アイツらに取られたって壊されたって何とも思わない。そうなったのならまた別の物を探せばいい、どうせ放っておいても向こうから群がってくるのだから。
だけど、宗介は駄目だ。アイツはそう言うのに巻き込んでいい人間じゃない。アイツにとって俺はトロフィーじゃない。ただの友達だ。だから、だから。
キュ、と音がしてシャワーの音が止む。その音が全て『そう』ではないというのに、慣らされ切った心はびくりと跳ね上がって口の中が急速に乾いていく。上擦る呼吸音だけが部屋に響いた。呪い。これは呪いだ。
『————菊は、私の言いたいことが分かるわよね』
うっそりと女が笑う。こちらに伸ばされる指先。爪の先まで丁寧に彩られた豪華なそれは、きっと、子供に触れる事を想定していない。
「………………魔女め…………」
俺は頭をかき混ぜながら、記憶の中でさえもぞっとする程美しい女に向かって吐き棄てた。
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