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第二部 贅沢な10日間
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それから2日後、ティアは可愛らしい小鳥の歌声で目を覚ました。
ぼんやりとベッドに横たわったまま視線を動かせば、隣にいるクマの縫いぐるみは、大小ともにティアの添い寝をしてくれていた。
でも、まだ心地よく夢の中にいるように見える。
ティアはそのクマたちの頭をそっと撫でる。クマの首に巻いてある2色のリボンには気付いているけれど、そこにはそっと目を逸らす。
それから身体を起こして、ベッドの端に腰かける。絹の寝間着はいつまで経っても慣れることがなかったな。そんなことを考えながら。
カーテンの隙間から一本の筋のように、清々しい朝の光りが差している。
真っすぐに伸びたそれをティアは意味もなく、ぼうっと見つめた。
時間にして数分。
ティアは、迷いを振り切るようにぎゅっと目を閉じて、強く首を横に振る。次いで目を開けたと同時に、怪我をしている方の足首に手を伸ばした。
──……しゅる、しゅる、しゅる。
ティアは無言で足首の包帯をほどいていく。
左右の足首を比べてみる。さほど違いはない。
ついでに腫れていた箇所も指でつついてみる。痛みはない。
今度は恐る恐る、床に立って窓側まで歩く。意識して、いつも通りに。
2歩目まではぎこちなかったけれど、3歩目からは普段通りの歩き方ができた。
「よし、帰ろう」
カーテンを勢いよく開けて、ティアはそう言った。
熱も下がったし、足の怪我も治った。すももも食べたし、美味しかった。
だからもう、ここに居る理由はもうなくなった。
なにより本日は、晴天。絶好のお別れ日和だ。
思い立ったが吉日ではないけれど、ティアは今日、メゾン・プレザンに戻ることを決めた。
ただ一つ誤算があった。
それは、ここに留まることを決めたのは自分だから、ここを去るのも自分で決めることができる。ティアはそう思っていた。
──けれどそれは、どうやら思い違いのようであった。
「使用人が、お前に何か失礼なことでも言ったのか!?それとも、部屋が気に入らなかったのか!?まさかバザロフ様が、今すぐここから離れろとでも言ったのか!?」
「まさかっ」
ティアは目を丸くして、聞かれたこと全部を強く否定した。
なにがどうなったら、グレンシスがそんな思考回路になるのか、ティアはまったくもって意味が分からなかった。
ティアが本日、メゾン・プレザンに戻ると決め、そそくさと荷造りを始めた頃、メイドのミィナが朝のお茶を持って部屋に訪れた。
『おはようございます。良く眠れましたか?』
と、朗らかに笑いながらミィナは、ティアを見た。
けれどすぐに笑みを消し、荷物と呼べるほどでもない私物を鞄に詰め込むティアを2度見した。
そして、こう問うた。『どこかへ、お出かけですか?』と。
お出かけという単語に引っ掛かりを覚えたけれど、ティアは素直に答えた。
『本日、実家に帰らせていただきます』と。
途端に、ミィナは悲鳴を上げた。
そして、手にしていたお茶一式が入ったトレーを持ったまま、廊下へと消えた。
──その数分後、グレンシスが慌てた様子で部屋に飛び込んで来て、さっきの的外れな質問を頂戴したのだ。
「ミィナさん……いえ、皆さんには、本当にお世話になりました。私のほうこそ、失礼が多々あったと思いますのに、良くしていただいて感謝の気持ちしかありません。それに、バザロフさまは、ゆっくり養生しろとおっしゃってました」
短い否定では、納得できないご様子のグレンシスに、ティアは一つ一つ丁寧に説明をする。
ただ、なぜにミィナがあんなに大げさなリアクションを取ったのかは、未だにわかっていないけれど。
それにグレンシスが、こんなに慌てている理由もわからない。
彼は今、長期間の任務が終わって休暇中だ。
その期間がいつまでなのかはわからないが、休みの間中、ずっと自分がいるのはさすがに迷惑だろう。
グレンシスだって、自分なんかに構っているより、ゆっくり休暇を満喫したいはず。
ティアは、軽い頭痛を覚えて、こめかみを揉んだ。
グレンシスがティアの説明に、何一つ納得してくれる様子がないから。
そんなティアの仕草をグレンシスは何か言いたげに見つめていた。手にとあるものを持ったまま。
そして、それを一旦、ポケットにしまった。
今、これをティアに渡すタイミングではないと判断したのだろう。
「なら、ここを離れるのは、こんな急じゃなくっても良いだろう?」
苛立つ感情を押さえてグレンシスが問えば、ティアは小さく溜息を吐いた。
しつこい、と言わんばかりに。
「怪我も治りましたし、体調もすこぶる良いです。これ以上ここでお世話になる理由がありません。それに……こんなに至れり尽くせりの生活を送っていては、娼館に戻った後、自分が辛くなります」
お城のように、ピカピカに磨かれたまぶしい部屋。
日当たりが良く、木のぬくもりが感じられる調度品。温かみのある壁紙。
どれも全部、ティアは好きだった。
だからグレンシスから『そろそろ帰れ』と言われることに怯えていた。
居心地よさを、暖かさを、優しさを感じるたびに、ティアは背中に刃物を突き付けられるような恐怖を感じていた。
そして、もう限界だった。幸せながらも怯えて暮らす日々に。
だからもう、これ以上何も聞かないで。そんなニュアンスを込めて、ぴしゃりと言い切ったティアに、グレンシスは少しだけ眉を上げた。
「なら、戻らなければ良い。ずっとここにいれば良いだけの話だ」
「は?」
すかさずティアは間抜けな声を出した。
本当にグレンシスの言いたいことがわからなくて、ティアは、もう一度、胸の内で咀嚼してみる。
結果、もう一度「は?」と同じ言葉を繰り返していた。
そんなティアに向かってグレンシスは、気を悪くする素振りはみせない。
ただ、なぜか今にも泣きそうで、それでいて切実な何かを秘めた表情になった。
「俺は、お前がずっとここにいることを望んでいる」
「……?」
ティアは間抜けな声を出す代わりに、首を傾げた。
「俺が何を言いたいか、伝わっていないようだな」
「はい。申し訳ありません」
「……」
食い気味にティアが答えた途端、グレンシスは知らない場所に瞬間移動してしまったかのように、息を呑んだまま唖然となった。
けれどすぐ、片手で顔を覆って大きく息を吸って吐く。
肩まで上下している様子からして、相当感情を押さえ込んでいるようだ。
待つこと15秒。
グレンシスは顔を覆っていた手を離して、ぎゅっと握りこぶしを作った。
何かとてつもない覚悟を決めたように。
「俺と結婚してくれ。ティア」
「──……は?」
おおよそ求婚の返事にしては相応しくない言葉をティアは紡いだ。
けれど、ティアからしたら気絶しなかっただけ褒めて欲しいところ。
ただ、感情は死んでしまったかのように動かない。
キャパオーバーとは、このことを言うのだとティアは頭の隅でぼんやりと思う。
そしてグレンシスが突拍子もなく自分に求婚した理由を考える。……一つだけ思い当たることがあった。
「あの………えっと、薬湯の口移しは救命行為ですので、お気になさらず。私も忘れますから」
「そうじゃない」
「なら、なぜ───」
「お前が好きだから」
「はい!?」
ティアの言葉を遮ってグレンシスが放った言葉が想像を絶するもので、告白を受けた本人は飛び上がらんばかりに驚いた。いや、本当に飛び上がった。
後ろに飛び退いた拍子に、トンッ、と背中に何かが当たった。
びくりと身体を強張らせて振り返れば、ただの壁だった。ティアは、なんだと安堵の息を吐く。
「ティア、こっちを向いてくれ」
どうやらグレンシスには、話を逸らされたかのように見えたようだった。
切実に懇願するグレンシスの口調に抗えず、ティアは長い時間をかけて、首を元の位置に戻した。
そうすれば、傷の痛みに耐えているかのように、辛そうな表情のグレンシスがじっとティアを見つめていた。
「お前、俺の気持ちが、かけらも気付いてなかったようだな?」
「………申し訳ありません」
呻くように問われ、ティアは項垂れることしかできない。
本音を言うと、ちょっとは『もしかして?』と思う部分があった。ちゃんと気付いていた。
けれど、全部気のせいという言葉で、覆い隠し続けてきた。勘違いするほど惨めなものはないから。
だから、グレンシスの問いに嘘を付いた罪悪感で、ティアはもう一度謝罪の言葉を紡いで、頭をより深く下げた。
「やめろ。頼むから、謝るな。これほどみじめな気持ちになったのは産まれて初めてだ」
グレンシスは、そのまま虚無の深淵に転落してしまいそうな表情を浮かべ、そう呟いた。
ぼんやりとベッドに横たわったまま視線を動かせば、隣にいるクマの縫いぐるみは、大小ともにティアの添い寝をしてくれていた。
でも、まだ心地よく夢の中にいるように見える。
ティアはそのクマたちの頭をそっと撫でる。クマの首に巻いてある2色のリボンには気付いているけれど、そこにはそっと目を逸らす。
それから身体を起こして、ベッドの端に腰かける。絹の寝間着はいつまで経っても慣れることがなかったな。そんなことを考えながら。
カーテンの隙間から一本の筋のように、清々しい朝の光りが差している。
真っすぐに伸びたそれをティアは意味もなく、ぼうっと見つめた。
時間にして数分。
ティアは、迷いを振り切るようにぎゅっと目を閉じて、強く首を横に振る。次いで目を開けたと同時に、怪我をしている方の足首に手を伸ばした。
──……しゅる、しゅる、しゅる。
ティアは無言で足首の包帯をほどいていく。
左右の足首を比べてみる。さほど違いはない。
ついでに腫れていた箇所も指でつついてみる。痛みはない。
今度は恐る恐る、床に立って窓側まで歩く。意識して、いつも通りに。
2歩目まではぎこちなかったけれど、3歩目からは普段通りの歩き方ができた。
「よし、帰ろう」
カーテンを勢いよく開けて、ティアはそう言った。
熱も下がったし、足の怪我も治った。すももも食べたし、美味しかった。
だからもう、ここに居る理由はもうなくなった。
なにより本日は、晴天。絶好のお別れ日和だ。
思い立ったが吉日ではないけれど、ティアは今日、メゾン・プレザンに戻ることを決めた。
ただ一つ誤算があった。
それは、ここに留まることを決めたのは自分だから、ここを去るのも自分で決めることができる。ティアはそう思っていた。
──けれどそれは、どうやら思い違いのようであった。
「使用人が、お前に何か失礼なことでも言ったのか!?それとも、部屋が気に入らなかったのか!?まさかバザロフ様が、今すぐここから離れろとでも言ったのか!?」
「まさかっ」
ティアは目を丸くして、聞かれたこと全部を強く否定した。
なにがどうなったら、グレンシスがそんな思考回路になるのか、ティアはまったくもって意味が分からなかった。
ティアが本日、メゾン・プレザンに戻ると決め、そそくさと荷造りを始めた頃、メイドのミィナが朝のお茶を持って部屋に訪れた。
『おはようございます。良く眠れましたか?』
と、朗らかに笑いながらミィナは、ティアを見た。
けれどすぐに笑みを消し、荷物と呼べるほどでもない私物を鞄に詰め込むティアを2度見した。
そして、こう問うた。『どこかへ、お出かけですか?』と。
お出かけという単語に引っ掛かりを覚えたけれど、ティアは素直に答えた。
『本日、実家に帰らせていただきます』と。
途端に、ミィナは悲鳴を上げた。
そして、手にしていたお茶一式が入ったトレーを持ったまま、廊下へと消えた。
──その数分後、グレンシスが慌てた様子で部屋に飛び込んで来て、さっきの的外れな質問を頂戴したのだ。
「ミィナさん……いえ、皆さんには、本当にお世話になりました。私のほうこそ、失礼が多々あったと思いますのに、良くしていただいて感謝の気持ちしかありません。それに、バザロフさまは、ゆっくり養生しろとおっしゃってました」
短い否定では、納得できないご様子のグレンシスに、ティアは一つ一つ丁寧に説明をする。
ただ、なぜにミィナがあんなに大げさなリアクションを取ったのかは、未だにわかっていないけれど。
それにグレンシスが、こんなに慌てている理由もわからない。
彼は今、長期間の任務が終わって休暇中だ。
その期間がいつまでなのかはわからないが、休みの間中、ずっと自分がいるのはさすがに迷惑だろう。
グレンシスだって、自分なんかに構っているより、ゆっくり休暇を満喫したいはず。
ティアは、軽い頭痛を覚えて、こめかみを揉んだ。
グレンシスがティアの説明に、何一つ納得してくれる様子がないから。
そんなティアの仕草をグレンシスは何か言いたげに見つめていた。手にとあるものを持ったまま。
そして、それを一旦、ポケットにしまった。
今、これをティアに渡すタイミングではないと判断したのだろう。
「なら、ここを離れるのは、こんな急じゃなくっても良いだろう?」
苛立つ感情を押さえてグレンシスが問えば、ティアは小さく溜息を吐いた。
しつこい、と言わんばかりに。
「怪我も治りましたし、体調もすこぶる良いです。これ以上ここでお世話になる理由がありません。それに……こんなに至れり尽くせりの生活を送っていては、娼館に戻った後、自分が辛くなります」
お城のように、ピカピカに磨かれたまぶしい部屋。
日当たりが良く、木のぬくもりが感じられる調度品。温かみのある壁紙。
どれも全部、ティアは好きだった。
だからグレンシスから『そろそろ帰れ』と言われることに怯えていた。
居心地よさを、暖かさを、優しさを感じるたびに、ティアは背中に刃物を突き付けられるような恐怖を感じていた。
そして、もう限界だった。幸せながらも怯えて暮らす日々に。
だからもう、これ以上何も聞かないで。そんなニュアンスを込めて、ぴしゃりと言い切ったティアに、グレンシスは少しだけ眉を上げた。
「なら、戻らなければ良い。ずっとここにいれば良いだけの話だ」
「は?」
すかさずティアは間抜けな声を出した。
本当にグレンシスの言いたいことがわからなくて、ティアは、もう一度、胸の内で咀嚼してみる。
結果、もう一度「は?」と同じ言葉を繰り返していた。
そんなティアに向かってグレンシスは、気を悪くする素振りはみせない。
ただ、なぜか今にも泣きそうで、それでいて切実な何かを秘めた表情になった。
「俺は、お前がずっとここにいることを望んでいる」
「……?」
ティアは間抜けな声を出す代わりに、首を傾げた。
「俺が何を言いたいか、伝わっていないようだな」
「はい。申し訳ありません」
「……」
食い気味にティアが答えた途端、グレンシスは知らない場所に瞬間移動してしまったかのように、息を呑んだまま唖然となった。
けれどすぐ、片手で顔を覆って大きく息を吸って吐く。
肩まで上下している様子からして、相当感情を押さえ込んでいるようだ。
待つこと15秒。
グレンシスは顔を覆っていた手を離して、ぎゅっと握りこぶしを作った。
何かとてつもない覚悟を決めたように。
「俺と結婚してくれ。ティア」
「──……は?」
おおよそ求婚の返事にしては相応しくない言葉をティアは紡いだ。
けれど、ティアからしたら気絶しなかっただけ褒めて欲しいところ。
ただ、感情は死んでしまったかのように動かない。
キャパオーバーとは、このことを言うのだとティアは頭の隅でぼんやりと思う。
そしてグレンシスが突拍子もなく自分に求婚した理由を考える。……一つだけ思い当たることがあった。
「あの………えっと、薬湯の口移しは救命行為ですので、お気になさらず。私も忘れますから」
「そうじゃない」
「なら、なぜ───」
「お前が好きだから」
「はい!?」
ティアの言葉を遮ってグレンシスが放った言葉が想像を絶するもので、告白を受けた本人は飛び上がらんばかりに驚いた。いや、本当に飛び上がった。
後ろに飛び退いた拍子に、トンッ、と背中に何かが当たった。
びくりと身体を強張らせて振り返れば、ただの壁だった。ティアは、なんだと安堵の息を吐く。
「ティア、こっちを向いてくれ」
どうやらグレンシスには、話を逸らされたかのように見えたようだった。
切実に懇願するグレンシスの口調に抗えず、ティアは長い時間をかけて、首を元の位置に戻した。
そうすれば、傷の痛みに耐えているかのように、辛そうな表情のグレンシスがじっとティアを見つめていた。
「お前、俺の気持ちが、かけらも気付いてなかったようだな?」
「………申し訳ありません」
呻くように問われ、ティアは項垂れることしかできない。
本音を言うと、ちょっとは『もしかして?』と思う部分があった。ちゃんと気付いていた。
けれど、全部気のせいという言葉で、覆い隠し続けてきた。勘違いするほど惨めなものはないから。
だから、グレンシスの問いに嘘を付いた罪悪感で、ティアはもう一度謝罪の言葉を紡いで、頭をより深く下げた。
「やめろ。頼むから、謝るな。これほどみじめな気持ちになったのは産まれて初めてだ」
グレンシスは、そのまま虚無の深淵に転落してしまいそうな表情を浮かべ、そう呟いた。
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