透明姫の幸せな婚約

nsk/川霧莉帆

文字の大きさ
4 / 17

3.友人協定(前編)

しおりを挟む
 開いたドアから薄い湯気が広がり出る。
 ユーグはまだ濡れている髪をタオルでかき回しながら、ローブ姿で風呂場を出た。深夜の窓にカーテンが引かれた部屋をランプが一つきりで照らしている。
「速いのね」
 声がかかった瞬間ぎくりと強張った。だがすぐに警戒を解く。
「王女様、お部屋をお間違えですよ」
「……居場所を注意できる立場なのかしら」
 ソファの上で揺れる淡いベールと絹の寝衣がぶつくさ言った。セレネが頭からベールを被った格好で座っているのだ。
「不用心にも鍵が開いていたから、掛けておいたわ」
 テーブルの上に用意してある酒のボトルを小さなグラスへ傾ける。身動きする度に膝まで丈のあるベールが揺れている。
「……クラゲみたいだな」
「なにか?」
「いいや。晩酌ならお供しようか?」
「違うわ、これはあなたが飲むの」
 見えない手がグラスを差し出す。中身は一見蒸留酒だ。
「毒かな」
「あなたのボトルよ。執事が開けていいと言ってくれた、と侍女が言っていたわ。必要かと思って用意したの」
「一体この状況で何をする気なんだ?」
「あなたが望んだこと。こんなふうだから、疲れた心の癒やしになるかは分からないけれど」
 セレネはソファを立って寝室へ入った。
 僅かな光を頼りにベッドの縁に腰を下ろす。開いているドアの向こうで、ユーグがこちらを見ながらグラスを一気に煽った。
 薄着の体がやってきて影のように伸し掛かってくる。セレネはシーツを掴みそこねて拳を握った。
 ベールを剥がし、ユーグが顔を近づけてくる。その目には、襟ぐりの広い寝衣が人の形に膨らんでおり、長い黒髪を背中の下に敷いている様子が見えている。
「うん、無理だな。透明で何がなんだか分からん」
「なっ……!」
 ベールをもとに戻すと寝室を出ていこうとする。セレネも急いで身を起こした。
「無理とは何事よ! わ、わたしに恥をかかせる気?」
「俺は抱かれに来てほしいとも恥かいてほしいとも願ってない。それに震えてる女を相手にするなんて願い下げだ」
 全身が怒りでかぁっと熱くなるが、反対に頭は水を浴びせられたようだった。
「命令するまで来るなってことね。分かったわよ。わたしを王宮から出したのは懐柔して従順な召使いにするため、そういうことでしょう?」
「なんだと?」
 思わず身を引いた。ユーグの声があまりにも冷静だったからだ。
「俺との婚約をそんなものだと思ってたのか?」
「ち、違うっていうの? あなたは交換条件で王女を自分の家に連れてきたんじゃない。一体何のためだというの?」
「そりゃあ多少は下心もあったかもしれないさ、男だからな。でも連れてきたのはそんな……あぁ言いたくもない。大体、貴方こそ嫌ならこんな条件断れたはずだ。なのにどうしてここまで来た?」
 ユーグに気圧され、喉にある重いものを飲み込む。
「わたしには義務があるから、成婚前に自分が機能するか確かめないといけないわ。そこであなたの条件は好都合だったのよ。もちろん空を飛ぶような軽薄さには呆れたけれど!」
 何を弁明したいのか、語尾を強める。
 しかしユーグの声はますます冷えた。
「それは女としてのことを言っているのか?」
 先程とは違う意味でこちらへ迫ってくる。
「セレネ。『義務』とは何だ?」
「……どうしてそんなに怒ってるのか分からないわ」
「答えろ」
 理不尽に脅されたセレネはユーグを睨みあげた。
「国のために子を産むことよ」
 渋面が返されたが、セレネの目に今のユーグは、どんな訳で自分を詰問したのかは知らないが、王家の人間の努力を理解しない愚昧な者に映った。
「俺はただの種馬かよ」
 憎々しい呟きも、高潔な大義のためなら聞き流してやれる。
「それで、どうしてわたしを連れてきたのかまだ聞いていないわ」
 ユーグは溜息をつき、頭を抱えた。
「報奨だからだ」
「ああ……そうだったわね。あなたは水かガラスでできた女をただ芸術品として鑑賞したいのよね」
 金髪をかき回す手が乱暴になる。セレネは立ち上がり、その横をさっさと通り抜けようとして、後ろからベール越しに腕を掴まれた。
「待ってくれ。今のは違う、照れ隠しだったんだ。本当は友達から始めたいからだ!」
「はぁ……?」
 呆れた声が出た。
「この期に及んで冗談なんて……ならそもそも連れてくるべきじゃなかった、としか言えないわ」
 腕を取り戻して冷たい視線を送る。
 ユーグは初めて余裕のない表情を見せた。
「明日ここを出ていくわ。こんな支離滅裂なことには付き合っていられなくてよ」
 部屋を突っ切って施錠したドアへ向かう。
 これで婚約騒動は終わりだ。セレネは清々した気分になりかけていた。
 だが内鍵に手を伸ばしたその時、ぬっと背後から突き出された右腕が音もなくドアを押さえた。
「本当にそれでいいのか? 両陛下は俺の求婚をえらくお喜びだったんだぜ」
「っ……!」
 耳元で囁いた吐息がベールをくすぐる。
「俺たちの仲が上手く行かなかったと知ったら、どれほど悲しまれるだろうな」
 セレネは内鍵から透明な手を離した。
 別居し、あまつさえ婚約を解消してしまったら、結婚における忍耐力や義務の遂行能力を示せなくなってしまう。そうなれば両陛下はユーグの言う通り悲しむだろうし、他の者からは失望されてしまうだろう。それに結婚適齢期に失敗の経歴を作ると痛手だ。
「友達、なってくれないなら追い出しちまうぞ」
「…………分かったわ」
 苦渋の決断を聞いたユーグはぱっと身を離し、打って変わって腰に手を当てる。
「よーし。じゃ、早速明日は友達一日目記念として俺の遊びに付き合ってもらうとしよう」
 ニヤリという笑いをセレネはうんざりと見遣った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【完結】仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです

こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。 まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。 幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。 「子供が欲しいの」 「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」 それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

久しぶりに会った婚約者は「明日、婚約破棄するから」と私に言った

五珠 izumi
恋愛
「明日、婚約破棄するから」 8年もの婚約者、マリス王子にそう言われた私は泣き出しそうになるのを堪えてその場を後にした。

お飾り王妃の死後~王の後悔~

ましゅぺちーの
恋愛
ウィルベルト王国の王レオンと王妃フランチェスカは白い結婚である。 王が愛するのは愛妾であるフレイアただ一人。 ウィルベルト王国では周知の事実だった。 しかしある日王妃フランチェスカが自ら命を絶ってしまう。 最後に王宛てに残された手紙を読み王は後悔に苛まれる。 小説家になろう様にも投稿しています。

裏切られた令嬢は、30歳も年上の伯爵さまに嫁ぎましたが、白い結婚ですわ。

夏生 羽都
恋愛
王太子の婚約者で公爵令嬢でもあったローゼリアは敵対派閥の策略によって生家が没落してしまい、婚約も破棄されてしまう。家は子爵にまで落とされてしまうが、それは名ばかりの爵位で、実際には平民と変わらない生活を強いられていた。 辛い生活の中で母親のナタリーは体調を崩してしまい、ナタリーの実家がある隣国のエルランドへ行き、一家で亡命をしようと考えるのだが、安全に国を出るには貴族の身分を捨てなければいけない。しかし、ローゼリアを王太子の側妃にしたい国王が爵位を返す事を許さなかった。 側妃にはなりたくないが、自分がいては家族が国を出る事が出来ないと思ったローゼリアは、家族を出国させる為に30歳も年上である伯爵の元へ後妻として一人で嫁ぐ事を自分の意思で決めるのだった。 ※作者独自の世界観によって創作された物語です。細かな設定やストーリー展開等が気になってしまうという方はブラウザバッグをお願い致します。

処理中です...