透明姫の幸せな婚約

nsk/川霧莉帆

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9.魔物たちの愛(前編)

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 足音が遠ざかり、二人はそれぞれ力が抜けたようにソファへ腰を戻した。セレネは自分の冷めた紅茶に初めて口をつける。
「さすがの度胸だな。もし俺たちが馬鹿で、一服盛っていたらどうなっていたのか、見てみたかった気もする」
「縁起でもなくてよ」
 単身で王宮に乗り込んできたカジミールは一見阿呆だが、ロティスとアトッサ間の微妙な平衡を信用していなければできない芸当だ。それを暗殺すれば、ユーグを始めとする多くの者が築いてきた全ての努力が崩れ去ることになる。戦争は避けられない。
 だからセレネの向かいには空のカップが残っているのだ。
 とはいえ、カジミールの提案は到底飲めるものではない。
 結婚はアトッサの最初の手段だ。第二位の妃の座も目くらましに過ぎない。後宮に入った後のセレネは、アトッサにとってただの人質だ。ロティスはセレネの命を盾に取られ、アトッサの身勝手な要求を次々に飲まされることになるだろう。次第にロティスはアトッサの属国となり、一緒くたにエリニアの敵になる。
 これは既に前例のあるやり口だが、人質にされた王子や姫君が一人として命を捨てていないのは不思議なものだ。後宮で何が行われているのかは、誰も知らない。
「まさか承諾するつもりはないよな」
 確信と疑いを半々に混ぜてユーグが問う。だが、セレネは即答しなかった。
「セレネ?」
「……承諾するのが完璧な王女の選ぶべき道だわ」
 ユーグの沈黙が耳に痛かった。
 目を閉じて再び口を開く。
「わたしがいなくなったら、あなたもきっと他の誰かを見つけるでしょう。あなたは素敵な人だもの。別れの寂しさはいつか年月に溶けてなくなってしまうから、大丈夫よ」
「冗談が下手だな」
 瞼を開く。ユーグの微笑みが怒りを押さえている。
「見くびらないでくれよ。そんな上辺だけの言葉を聞き分けるほど俺は安くないぜ……誰よりも特别な貴方に惚れた男なんだからな」
 身を乗り出しているのに、両手は肘置きをつかんでいる。獲物を狙う動物のように、今にも掴みかかってきそうな様子だ。
 あの日のリスのように――セレネはこっそりと微笑む。
「誰よりも変な、でしょう」
「セレネ……!」
 少しの卑下も許してくれない。怒りの大きさは想いの大きさに比例している。
 この人に想われると幸せだが、まだ少しだけ苦しかった。
「わたしは、怪物なの。でも、そんなわたしを想ってくれるのだから、あなたはわたしよりも変よ。だから好きなのよ」
 顎の下のリボンを解く。ボンネットが緩み、開放感が広がっていく。
「あなたといると、わたしは人間でいられるの。自分が自分であることを認められて……楽しいとさえ、思うのよ」
 頭を晒す。
 黒い髪が空中から生えているように見えるだろう。ドレスの立て襟はまるで何も詰まっていないかのように。そのせいで、上から覗かれれば服の中が見えてしまう。上半身も下半身も、下着とは何のためにあるのだろうか。
 ユーグはソファを降り、足元に片膝を突いた。伸ばした両手が頬をそっと挟む。心配性な親指が涙が溢れていないか確かめる。笑うと、動いた頬が熱い手のひらを擦った。
「ありがとう、ユーグ。もうわたしは大丈夫よ。あなたが救ってくれたから……」
 ユーグは呆然から我に返った。
「俺を試したのか? あの賢明にして愚直なセレネが?」
「その言葉は好きじゃないわ」
「要するに堅物生真面目ってことだもんな」
「あなたはリスよ」
 ぽかんとした顔を手袋の両手で挟み、頭を近づけた。
 セレネが目を閉じたことも、開いたことも、ユーグは知らないだろう。それどころか何が起こったのか数秒間分からなかったようだ。感じたのは、僅かな唇の柔らかさのみ。セレネも同じものを感じた。
 腰を抱き寄せられるがまま床に降りて膝立ちになる。見下ろしている視界がユーグだけになる。
「皇子を諦めさせたいの。手伝ってくれる?」
 追い払うのではない。意思を問うのだ。
 その意に気づいた若葉色の瞳がしばし瞑目する。
「……分かった。やろう」


 風呂場に一枚のシュミーズとナイトキャップが浮いている。インク瓶や大量の包帯を抱えて入ってきたユーグとジャネットは一瞬ぎょっとした。
「それ……下着一枚だけか?」
「見ないでよ」
「何も見えないんだが」
 視線に耐えかねたのかシュミーズが背を向けると、体の曲線が布に浮き上がった。目を釘付けにしたユーグへジャネットが呼びかける。
「ユーグ様。包帯の準備をしておいてくれませんか?」
「ああ」
 ジャネットは大きなインク瓶の手のひらほども大きい蓋を開けた。新品のインクのにおいが僅かに漂う。
 風呂場には他に、柄の長いスプーンや刷毛、筆、布切れなどが用意されている。変わった道具を使う絵描きのアトリエめいている。
「もう一度言うけれど、遠慮は要らないわ」
「はい」
「テーマは……『蝕んで共生する穢れ』、という感じよ」
「……頑張ります」
 セレネはシュミーズを脱いで丸めると、両手に持って掲げた。こうすれば何も見えなくとも腕を上げて立っていることは分かるだろう。
 ジャネットはまずスプーンを取ってインクを掬い取った。
「行きます」
 狙いを定めてスプーンを振る。塊となったインクがタイルの壁の手前で弾ける時、ユーグは我知らず顔を顰めた。

『その覆いの下に何が隠されていようとも、他の妃と変わらぬ寵愛を授けることも約束しよう。砂漠の栄えある民の約束は絶対だ』
 カジミールは自信満々にそう言った。付け入る隙をセレネに与えたとも知らず。
 セレネはカジミールを追い払うため、自分の最大の秘密を打ち明けることにした。ただし、少し手を加えてからだ。
 伴侶になり得る女性から男性が手を引きかねない理由の一つ、病。それも深刻で、治る見込みもないと、子を産む能力も疑問視される。いくら政略的に婚姻が必要だとしても、皇子が忌避すべき女性を傍に置いておく義理はない。
 特に見た目が悪い病ならなおさらだろう。ということで、セレネは病者を演じることにした。
 書き物をする時、ペン先にインクを浸した後、瓶の縁に余計なインクをなすりつけて落とす。それを繰り返したインク瓶の縁には、液体のような見た目の不気味な塊が出来上がる。
 今、セレネはその妙に生物的な塊から着想を得て、自分の体に病的な皮膚を作ろうとしているのだ。
 インクを荒く重ね塗りしたり道具を使ったりして細かに凹凸させ、異様な質感を作る。それを体中に染みのように作れば、爛れて腐りかけている透明人間の出来上がりだ。インクが付いていない部分から体の裏側が見えるのが、なんとも気色が悪い。

「なんだか芸術的ね」
 部屋の姿見の前でくるりと回ってみせる。体の隙間から、背後で苦い顔をしているユーグが見えた。
「ユーグ。いつまでそんな顔をしているの」
「……一生かな」
「もう……」
 この作戦で、セレネはカジミールの前で服を脱ぐことになる。
 ユーグは自分より先に他の男がセレネを見ることに納得できないでいた。時間がないのでそのまま手伝わせたが、ずっと言葉を喉に詰まらせている様子だ。
「ねえユーグ。わたしだってこんなことできればしたくないわ。何も見えないからって、何もないわけじゃないんだから」
「当たり前だろう、触ればそこに肌があるんだ。……あぁ、セレネがあいつに触られでもしたら、俺はおかしくなる自信がある」
「何がそんなに受け入れられないの?」
 ユーグは包帯を丸める手を止めた。
「何がも何もない、その姿さ! 俺は今の姿はセレネの本当の姿じゃないと信じてる。いつか必ず、昨日のように姿を取り戻すはずだ。そうでなければ昨日一瞬だけ姿を取り戻した意味が分からないじゃないか! 教えてくれ。昨日どうして元に戻れたんだ?」
「そんなの……わたしにも分からないわ。昨日はただ、あなたのことを考えて、踊って、すごく楽しかっただけよ。そこに魔法なんてないわ」
 激しい剣幕を浴びて、セレネはなんとなく両腕で体を隠す。ユーグはバツの悪い顔で頭を掻いた。
「……そうだよな。悪かった」
 伸ばした包帯を体に巻き付けていく。包帯は首から腰までを覆い、それ以外は下着や手袋、靴下で覆う。
 引越しの際に置いていったドレスをジャネットが持ってきたので身につける。少し小さく感じたのは包帯の厚みのせいだけではないようだ。以前の多忙さから解放された影響だろう。
「提案があるんだが」
 身支度が終わる頃、ユーグが口を開いた。
「俺が一緒にいるのはどうだ?」
「いいえ、駄目よ」
 セレネは鋭く返す。
「あなたに悪評が立つかもしれないわ。そうなればあなたの仕事はこれまでのようには行かなくなってしまう。致命的な障害になるわよ」
「そうかな。むしろ迫力があって良くないか? 怪物と愛し合ってる男、なんてさ」
「ユーグ様……!」
 ぎょっとしたジャネットを手振りで押さえる。
「本気なの?」
「本気だし、正気だ」
 二人はしばしベール越しに睨み合った。互いに考えていることは同じ、相手を危機に晒す価値がどれだけあるかだ。
 ユーグはベールを捲くった。透明な顔に散らばっている黒々とした斑点から唇の位置を正確に見定めると、自身の唇を押し付ける。
「セレネだけには背負わせないよ。疎まれるなら、俺も一緒だ」
「……分かったわ」
 ジャネットは手で顔を覆っていた。
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