透明姫の幸せな婚約

nsk/川霧莉帆

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9.魔物たちの愛(後編)

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 全ての準備が終わったのはカジミールが部屋を訪れる数分前だった。取り次いだジャネットがノックした直後、ドアが開かれる。
「約束の時間だ、セレネ王女」
「はい」
 慌てふためいているのを予想していたのか、カジミールの眉が意外そうに動いた。セレネは窓のカーテンを引きながら声をかける。
「お返事はあちらでさせていただきます」
 指したのは寝室の方だ。カジミールは一人で袋小路に向かう愚をせず、部屋が暗くなるまで待った。
「なぜ日を遮る? よく見えないではないか」
「申し訳ありません。ですがこれは殿下のためです」
「服が変わっているのもそうなのか?」
「全て殿下のためです」
 カジミールは目を細めて笑う。
「ほう。初心に見えて気遣いはできるのだな。結婚の覚悟は決まったか?」
「わたしの方は、既に」
 セレネの後からカジミールが寝室へ入る。後ろ手に閉じたドアには指一本分ほどの隙間が残された。
 ベッドの脇に立ち、カジミールへ体を向ける。
「ですが殿下はいかがでしょうか。まだわたしを少しも知らないのに結婚などできましょうか?」
「一理あるな。では教えてもらおうか」
 カジミールまだ警戒を解いていない。丸腰に見えるが実際は衣装の内側に武器を隠し持っているのだろう。いざという時に己の命を守れるように。
「……はい。お教えしましょう、わたしの秘密を」
 セレネはまずドレスの襟を緩めた。
 次に引き締めている腰の紐を緩め、ボンネットのリボンを解く。そして、その全てを前屈みになって体から振り落とした。
 シュミーズ一枚になり、長い手袋と靴下を脱ぐ。シュミーズの下を脱ぎ、最後の一枚を取り払う。
 首から腰までは包帯が巻かれている。ゆっくり解いたが、時折ベリベリと嫌な音がする。まだ乾ききっていなかった部分が包帯に付着したり、包帯の跡が刻まれたりしている。乾いている部分からは、インクの細かい欠片が少し落ちた。
 目を上げると、カジミールは凍りついていた。
「これがわたしです」
「はっ……?」
「こんな姿でも、ご寵愛をいただけるのですよね?」
 淡々と、しかし期待を込めて。
 演奏記号の一つのようだ。演技は演奏に似ている、とセレネは思う。十分な間を取った後、もうひと押しするため一歩踏み出す。
 カジミールの顔に浮かんでいるのは驚愕と嫌悪だ。こちらへ手を伸ばすつもりは毛頭なさそうだ。
「無理なら無理と仰っていただいて結構ですよ、殿下。ただの口約束なのですから」
 静かにドアが開き、ユーグが姿を現した。
 前後を塞がれたと思ったのだろう、カジミールは壁際へ飛び退ったが、その前を通り過ぎてセレネの肩を抱く。
「貴様ら……?」
「お察しの通りです」
 ユーグは黒い頭を撫でながら愛おしそうに見下ろした。
「私たちは別れを覚悟しています。私たちの悲しみ一つで世界の平和が保たれるというなら、喜んでこの愛を明け渡しましょう。しかし、この人を私と同じように愛することができないとなると、無闇に秘密を知ってしまった代償を支払ってもらわなければいけませんね」
 カジミールは信じられないものを見る目をユーグへ向ける。
「その女を、愛している、のか……?」
「私たちは真の愛で結ばれています」
 腰を抱き寄せられてユーグの方へよろめく。それをきっかけに緊張の糸が切れたのか、膝が笑い始めた。抱きとめられなければ倒れていただろう。
 折り重なるように抱き合う二人のシルエットは、信頼し合う恋人同士そのものだ。
「魔物どもめ」
 おぞましそうに吐き捨てたカジミールは、猫のように部屋を出た。通り過ぎた侍女の鋭い目つきを看過して廊下へ飛び出し、王宮の出口を目指す。
 廊下の巨大な窓ガラスから太陽の光が差し込んでいる。砂漠の民にとって太陽は常に試練を与える厳しい神だ。神を拝することができる窓の下は、異国の地では唯一安心できる場所だった。
 その太陽が、突如黒い影に覆われる。
 窓の下から湧き上がった黒い集団はカァカァと不気味な声を上げながら羽ばたいていた。カジミールが知らない鳥、カラスだ。
 咄嗟にカジミールは窓ガラスを拳で叩いたが、図々しくもカラスの群れは高く飛ぶことでいつまでも太陽の前から退かない。
「……呪われているに違いない!」
「カジミール殿下」
 毒づいている間に近衛兵たちが近づいていたのだ。
「謁見の間へお越しください。国王陛下がお待ちです」
 カジミールの舌打ちが響いた。

 乱暴な足音が遠ざかり、セレネの膝がとうとう折れる。
 ユーグは細い体を抱きとめると脱いだ軍服の上着で包み、両腕に抱き上げた。真っ白なシャツに黒い塵が付くが、セレネの手はそれを払うこともままならないほど震えている。
 風呂場へ連れて行って浴槽へ下ろし、蛇口を限界までひねる。掬ったぬるま湯でセレネの顔を拭おうとしたが、焦れったそうに唇を重ねた。
 啄むように何度も何度も口付けられる。緊張で呼吸もままならないセレネの息が上がる。
「もう、許して……」
 ようやく顔が離れたが、セレネを覗き込む瞳は熱っぽいままだ。驚くほど衝動的だったのに、これでも抑えてくれていたのだと気づいた。
「ユーグ、来てくれてありがとう」
 膝立ちになって目線を合わせると、ユーグはしばらく不機嫌そうにセレネの顔を拭っていた。が、やがて低く笑い出す。
「あいつのへっぴり腰を見たか? お化けにでも遭ったみたいに尻尾丸めて逃げ出したぜ」
「本当に尻尾があったら可愛かったでしょうね」
「違いない。猫……いや、狐かな」
 陰でこんなことを話すのは悪いと分かっていたが、こみ上げる笑いをどうしても抑えられなかった。なにせ、目論見通りの展開となったのだから。
「今頃はカラスの大群に肝を冷やして、陛下の御前で震えているだろう。あとは、俺の仕事だ」
 立ち上がりざま額に口づけ、頭をポンと撫でた。
「借りを返しに行ってくる」


 カジミールは近衛兵に見張られながら謁見の間へ入った。両陛下に歓迎の色はない。
「これはどういうことですか、陛下? 勘違いでなければ、私は罪人の扱いを受けているようですが?」
「残念ながら勘違いではないかもしれませぬぞ。カジミール殿下」
 疑問を顔に浮かべた背後で扉が再び開く。糊の効いた軍服姿のユーグが入ってきて宰相の隣に並んだ。
 王が手振りで文官を呼び、誓約書を持ってこさせた。ユーグがそれを受け取り、カジミールへ差し出す。
「我々からの要求は二つだけです。一つは殿下、貴方がこのロティス王国に今後一切出入りをしないこと。もう一つは、貴方がエリニア大公国とその同盟国へ、今後一切干渉しないこと。署名はここにお願いします」
 空欄を指し示そうとした指の腹を銀色の光が掠めた。誓約書が、それが載っていた下敷きごと切り裂かれる。
 カジミールが右腕を振り抜いた。手の甲の側の手首から仕込みナイフが突き出ている。
「代償、だと?」
 切っ先がユーグへ、ひいては王へ向く。近衛兵たちの槍がカジミールを取り囲む。
「これは詐欺だ! 貴様らはこの私を騙し、脅し、あまつさえ毟り取ろうとしている! 覚悟するが良い、無闇に知ってしまった王女の秘密とやらは私の口を発端に今に世界中に広まるだろう。呪われよ!」
「王女様の話が何の役に立つんでしょうか?」
 ユーグは人差し指を舌先で舐めた。血が微かにぬめる。
「王女様が透明で、しかも奇病に侵されているなんて話が仮に事実だったとして、それを広めた場合、一体我が国に何の損があるんでしょうか。そもそも王女様が何かしら病みついていらっしゃることは誰でも知っていますよ、一年中あんな格好をなさっているので。むしろ理由を知れば誰もが納得するでしょう、『あぁ、体が病んでいるから心もそうなのか』とね。つまり、殿下の数々の行いに比べたら大したことはありません」
「……何だと? 私の行い?」
「無断で王宮に入り、王女様へ強引に迫られた。紳士とは思えませんね」
 カジミールはあまりの怒りと呆れで立ちくらみがしたようだった。
「貴様こそ瑣末事を引き合いに出してこの私の署名を手に入れようとしているではないか!」
「では、入国申請書に虚偽の内容を書いた件はいかがでしょうか?」
 切っ先が宰相へ向く。宰相は二枚の紙面を見せる。
「一枚はパーティへの招待状に対して殿下の代理人が送られた返信で、もう一枚は数日前に書かれた入国申請書です。同じ名前が書かれていますが、筆跡は同一人物のものではありません。申請書を受け取った管理官によると、この人物に同行者はいなかったと証言しています」
 仕込みナイフがゆっくりと下ろされ、鋭い音を立てて袖の中に引っ込んだ。
 宰相が予備の誓約書を出し、切り裂かれた下敷きの無事な部分に置く。
「お一人でここまでいらっしゃる度胸には感服いたしますよ」
 カジミールは羽ペンを受け取ると、指し示された空欄に名前を書き始めた。だが、強い筆圧のせいでペンが紙を破る。
「穴が開いた」
 悪びれないカジミールの目の前でユーグが軍服の内側に手を入れた。巻かれた誓約書を取り出してニヤリと笑う。
 謁見の間に舌打ちが響いた。
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