鎌倉黒猫カフェ クロスオーバー

櫻井千姫

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第一話 あの子と食べたかぼちゃプリン

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「ごちそうさまでした。すごくおいしかったです」

 空になったお皿をカウンターの上に載せて言うと、男性がうれしそうに目を細める。

「本当に思い出のおやつ、でした。なんで僕の思い出のおやつがわかったのか知らないけれど、見事なものです。これは手品かなんかですか?」
「手品というか。ルール、みたいなものでしょうか」
「ルール?」

「ここ『クロスオーバー』は特別なお店です。
何もない時、人生が上手くいっていて、何の悩みもない時は、ここに来ることはできません。

ここに来ることができるのは、死にたいとか消えたいとか、あるいは別の人間になりたいとか。
そんなふうに考えている人なのです。希死念慮がある、と言ってしまえばわかりやすいでしょうか」

「希死念慮……」


 思い当たることは、すごくある。

 内定が取れた時は本当にうれしくて、すぐに母に報告し、「これから大変だけどがんばるのよ」という言葉にすごく救われた。

だけどいざ社会人生活が始まってから、僕の心の高度は墜落すれすれまで下降している。

取れない契約、会社に帰れば矢嶋の叱責、給料だって、求人票に書いてあったものよりずっと少なく、夏のボーナスだって雀の涙みたいなものだった。


「おい、給料泥棒。契約取れないんだから、これぐらいやっとけよ。今日は終電まで帰れると思うな」


 定時を過ぎても、毎日矢嶋に残業を押し付けられる。
僕だけじゃない、営業三課の全員が、苛烈なサービス残業に苦しんでいた。
残業の時間まで時給換算したら、ひどいことになってしまうだろう。

でも僕は「嫌だ」と言えない。矢嶋は最低の上司だけれど、怒られる自分にも原因があると思ってしまう。
契約が取れないのは本当だし、みんなの足を引っ張っているのも事実。
ここは学校じゃなく会社だ。使えない従業員でも給料を払ってもらえているだけ、感謝すべきなのかもしれない――。


「働くまでブラック企業なんて他人事だと思ってたけれど、本当にあるんですね。
同期ではもう既に辞めたやつが何人かいるけれど、辞めるたびに上司が怒り狂って、お前なんか他のところでやっていけると思うなって、みんなの前でヒステリックに怒鳴るような感じで……

あんなふうに言われるのかと思ったら、辞めたいとも言えません」

 気が付いたら目の前の男性――この際マスターと呼ぼう――に、洗いざらい、自分の事情を話していた。
人見知りをする僕の口が、こんなにすらすらと動くことは珍しい。
おいしいコーヒーを淹れてくれて思い出のおやつを見事に再現してくれたマスターなら、受け止めてくれるような気がしたのだ。


「お仕事の悩みというのは、難しいですね」

 マスターは難しい顔になって言った。


「相談された側はすぐに、辞めればいいと言ってしまうでしょう。でも現実には、そうかんたんなことじゃない」

「本当にそうですよ。せっかく就職浪人を免れたのに、ここまで育ててくれた母をがっかりさせたくなくて。
それに、この売り手市場の世の中に情けないけれど、僕は就活でさんざん苦労したから。
辞めてまた、転職のためにあんなことを繰り返すなんて、嫌なんです。毎日上司に怒鳴られる苦痛と、天秤にかけてしまうくらい」


 マスターはこくりとうなずき、カウンターに活けてあるリンドウを水切りしながら言った。


「お仕事って、なんのためにするものだと思いますか」
「そりゃ、お金を稼ぐためじゃないですか」


間髪入れず答えていた。

母は僕をひとりで育てるため、昼も夜も必死で働いてきた。
特にパブの仕事なんて、僕と同じように人見知りで、見た目も地味だった母には向いていなかったはず。

それでも僕のために必死でがんばってくれたんだから、今度は僕が恩返しをするべきだ。
働いて、稼いで、母に楽をさせてやりたい。

たまには温泉宿に連れて行って、おいしい料理を食べさせて、「佑、よくがんばったのね。お母さんうれしいわ」って言ってほしい。

マスターはひたと僕の顔を見つめた。


「そのお金は、なんのためのお金ですか」
「なんのためって……生きていくには、お金がいるじゃないですか」

「だったら、おかしいと思いませんか。生きていくために働いてお金を稼いでいるのに、お金を稼ぐことで生きる希望を失ってしまうなんて」
「それは……そうですけれど。でも僕は、母に楽をさせてやりたくて、褒められたくて」


「お母さまは本当に、それを望まれているのでしょうか? お母さまの気持ちを聞きましたか?」


 はっとした。

 高校卒業時に生まれ育った山梨の田舎町を出て、ずっと東京に住んでいる。
夏休みも冬休みもちゃんと帰っていたけれど、離れたところで大学生活を送る息子に、母は一度もいい仕事に就いてほしいとか、将来立派になってほしいとか、そんなプレッシャーをかけたことなんてなかった。


「次に来る時は彼女でも連れてきなさいよ。青春なんて一瞬なんだからね。若い時期をちゃんと楽しまないと、後悔するわよ」――


 そう言って笑っていた、母が望んでいたことはなんだろう。

 現代の親は過干渉かつ、すぐ子どもにプレッシャーをかけたがると言うけれど、うちの母は一度もそんなことはなかった。

お金がないながら、僕がやりたいと言ったことは素直にやらせてくれたし、受験の時に本命の国立大学を滑って、三流の私大にしか受からなかった時も、「いい大学に行っていい会社に入ることだけが、すべてじゃないのよ」とやさしく言ってくれたっけ。

 僕はそんな母の温かさを無視して、いつのまにかお金でできる親孝行にばかり、意識が向いてしまっていたのではないか。


「佑さん、あなたはもう、子どもではありません。自分の力で、環境を変えることができるんです。
心をすり減らしてまで続けなきゃいけない仕事なんて、ありませんよ。
お金を稼ぐよりも、自分の心を、命を守るほうがずっと大事なんですーー私がお母さまなら、そんな言葉をかけるでしょう」

「……そう、ですね」


 返事をしてから、あれっと違和感に気づいた。


「あの、僕、いつ名乗りましたっけ?」
「ここは『クロスオーバー』ですから」
「……はあ」


 答えになっていないと思ったが、このマスターと話したことでなんとなくすっきりして、これ以上現実逃避をしていても仕方がないと思った。

 立ち上がり、会計を済ます。今どき珍しい、現金のみの決済。
あれだけちゃんとしたスイーツとコーヒーがついて八〇〇円なら、この物価高のご時世、かなり良心的な価格だろう。


「本当に素敵な、いいお店ですね。話を聞いていただきありがとうございます。また来ます」
「また来られないほうが、いいんですけどね」
「どういう意味ですか?」
「いえ、こちらの話です」


 マスターは高級ブティックの店員がそうするように、ちゃんと出口まで送ってくれた。

 歩き出し、風を感じる。秋の穏やかな日差し、観光客たちの楽しそうな顔。僕だって横浜に住んでいて、鎌倉まで近いのに、一度もこの辺りに足を運んだことがなかった。

京都は外国人だらけで、日本人の観光客はすっかり遠ざかっているというけれど、この辺りはまだ日本人が多く、『クロスオーバー』のように良心的な価格のお店もある。今はまだ無理だけど、いつかゆっくりと訪れてみたい。


「てか、今何時だろ」
 スマートフォンを取り出して時間を確認して、えっと声が出た。つい、その場に立ち止まってしまう。


「時間……進んでなくない?」

 鶴岡八幡宮に参拝した後、『クロスオーバー』に入ったんだから、今は一五時半くらいだと思っていた。でも時計はなぜか一四時半を差している。

 思い出のおやつに、なぜか僕の名前を知っていたマスター。別れ際に言われた、不思議な言葉。


「いや……考えすぎだよな」


 頭に浮かんだファンタジーすぎる仮説をぶんぶん振り払って、僕は鎌倉駅に向かって歩を進めた。
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