鎌倉黒猫カフェ クロスオーバー

櫻井千姫

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第四話 290円の贅沢チーズケーキ

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担当してくれたハロワの職員は、幸い、前回失業してここに来た時とは違う、穏やかでやさしそうな人で、すみやかに失業手当の申請ができた。フロアの片隅にあるパソコンで求人情報をチェックしていると、するどい声が聞こえてくる。


「ふーん、中卒で資格も職歴もなし? あなた四十五でしょ、いったい今まで何やってたんですか」
「いや……あの……その……ずっと引きこもっていて、親が倒れちゃったので、働かないといけなくて……」

「へー、社会復帰するんですか。素晴らしいですよそれは。でもあなた、現実見えてなさすぎですよ! 志望している仕事、ぜんぶ正社員のオフィスワークばっかりじゃないですか」
「それは。正社員のほうが……親が……安心、するので……」

「そういう問題じゃありません! 無理だって言ってるんですよ!! 今までなんっっにもしてこなかった人間を、いきなり正社員で雇うような懐の広い会社があるわけないでしょう!? まったく、なんでまたこういうやつを相手しなきゃいけないんだよ……」


 おそるおそる振り返ると、職員はいらいらしながら頭を掻きむしっていて、その前にいる人の顔は見えなかったけれど、でっぷり太った背中を丸め、うつむいていた。

 可哀想だとは思うが、たしかにあの職員の言うこともわかる。今まで何もしてこなかった人があの歳からいきなり働きたいと言っても、現実は厳しい。

 そう考えると、親に恵まれず、早くに家を出ざるを得なかった俺のほうが、かえって恵まれているとも言える。


「……こういう考え方も良くないんだろうな」


 とはいえ、上ばかり見ていたらきりがない。幸せになりたいと、お金とかかわいい彼女とか、ひとの持っているものが欲しいと夢見るばかりじゃ、つらい。欲しいものは今すぐ手に入るとは限らないし、努力すれば報われるという時代じゃないことは、俺自身が誰よりよく知っている。

 幸せになることじゃなくて、人生にある不幸の要素を、ひとつひとつ取り除いていくことのほうが、大事な人もいるだろう。

 ハロワを出て歩き出す。からっ風が吹く一月の街は、木々もすっかり葉を落として寒そうだ。道行く人たちも、みんなマフラーに首を埋めて歩いている。ケーキ屋の前を通り過ぎようとして、Uターンした。

 璃音のところにはもう行くことはないんだし、あの頃みたいに、ケーキひとつ買って帰るのもいいだろう。

 人生は修行なんかじゃない。つらいことに耐えてばかりいたら頭がおかしくなる。だから自分の機嫌は、自分で取らなくては。

 小さなケーキの箱を抱えて歩き出した時、ポケットでスマホが震えた。画面を見て、表示されている名前に一瞬息が詰まる。


「……もしもし」
『あー、やっと出てくれたー! ねえお願い、清隆! 今すぐ十万振り込んでっ! 十万がないと婚約者に捨てられちゃうのよぉ』


 切羽詰まってるのにねちねちした声が、べっとり耳朶にまとわりつく。ぎゅ、と端末を握る。もう片方の、ケーキを持っているほうの手が、小さく震えていた。


『お金用意できない、グアム無理かもって言ったら、彼怒ってさあ。どうしてもグアムで結婚式挙げたい、それが子どもの頃からの夢だったんだって! 好きな人の夢だもん、叶えてあげたいでしょう? だからね、お願い。あたしは本当に、清隆だけが頼りなんだから。今こそ育ててもらった恩を返す時だと思わない?』

「……親子でも、接近禁止令出せるって知ってる?」


 は、と虚を突かれたような声が聞こえてきた。それだけで罪悪感がふくらむ。

 ここで引いちゃ駄目だ。今は負けちゃいけないんだ。

 俺の幸せを阻んでいるものは、俺の力で取り除く。

「ちょっとハードルは高いんだけど、できなくはないんだよ。日本では法的に絶縁することは無理なんだけど、あんたみたいにいつまでも子どもにたかってくる、迷惑しかかけない。

そういう親に、接近禁止令を出している人もいる。裁判所に認めてもらうのは大変みたいだけど、俺はやるよ。これ以上、あんたに振り回されたくないしあんたのことで気を揉みたくない」

『ちょっと清隆、何言ってんのよ! 落ち着きなさいよ!!』


 電波の向こうの声が急にあわてだした。いくら頭の悪いこの女でも、子どもに捨てられそうになっていること、俺の意思が固いことを理解したようだ。


『たしかにあたしはあんたに迷惑かけてきたかもしれないし、親としてしてやるべきことを、ろくにやってこれなかったかもしれない。それは反省してる。

だけどさ、あたしは清隆しかいないの。清隆だけが頼りなの。親にもお姉ちゃんにも伯父さん伯母さんにもとっくに見捨てられてるし、友だちもいないし、婚約者以外誰もいないのよ!! あんたがいなくなったら、あたし野垂れ死ぬかもしれない! そんなの嫌でしょ!?』

「生活保護受けたら? 幸い、どれだけ悪い人でも、自業自得で不幸になった人でも、この国は見捨てないから。俺が面倒看ません、って意思表示したら受けられるんでしょ。それくらいやってあげるよ」

『な、なんなのよあんた、いきなり……』


 今にも泣きだしそうな声になるのが、後ろめたくて、かつ爽快でもあった。

 反省してる、だなんて、どうせ嘘だろう。

 本当に、俺に申し訳ないって気持ちがあるなら、今なおこんな電話をしてくるわけがない。その前からそうだ。俺の前で彼氏といちゃいちゃしたり、バイト代を奪っていったり、自分のものは好きなだけ買って、俺の教科書代すら渋ったり。

 この世には親になってはいけない人間が一定数いて、この人もそうだった。そんなやつの子どもに生まれたことは、不幸でしかないけれど、脱出できない方法がないわけじゃない。

 俺の固い意思さえあれば。


『清隆は、あたしのこと嫌いなの……?』


 小さな子どもみたいな頼りない声が、その決意をぐらぐらと揺さぶる。

 大嫌い。そう言えたらどんなに楽だったか。

 俺はずっと、この人に頭を撫でてもらいたかった。すごいね、えらいね、よくがんばったねって褒めてもらいたかった。高校に落ちた時に一緒に残念がってほしかったし、バイト代が入った時に親孝行したい、と思えるような人でいてほしかった。

 でもその気持ちとも、もう決別しなきゃいけない。

「好きとか、嫌いとかじゃない。俺はもう大人だし、ちゃんと自分の人生に、幸せに、責任を持ちたい。それには、あんたが邪魔なんだ。あんたがいることで、俺の苦しみは深くなる」

 ひゅう、と電波を通して嗚咽に変わる直前のつぶやきが聞こえる。

 今ここで情にほだされて形ばかりの和解をしたところで、この人は変わらない。変わるわけがない。相手に変わることを求めても無理だ。変われるのは自分だけなんだし、変わらない相手とはきっぱり一線を置かないといけない。

「つーわけで、スマホの番号変えるわ。もう連絡つかないと思う。あと、金貯まり次第引っ越すから。アパート来ても俺、いないよ?」

『……清隆』

「今まで俺の母ちゃんでいてくれてありがとう。でももうこれで終わりだから。さよなら」

 清隆っ、と叫ぶ声をタップで遮断する。どこにもつながっていないスマホで、母親の番号を着信拒否設定にした。

 もっと早く、こうすれば良かったんだろうな。

 佇んでいる俺の横を、小さな子どもと手をつないで歩く母親が通り過ぎて行って、子どもが何か言って、母親が笑っていた。そんなどこにでもある光景が痛いほど胸に染みて、少しだけ泣いた。
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