鎌倉黒猫カフェ クロスオーバー

櫻井千姫

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第四話 290円の贅沢チーズケーキ

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履歴書を書きまくっているうちに、なんとか一社、面接に漕ぎつけた。

 またあの時のように嫌な思いをするかもしれないけれど、それでも気分は少しだけ晴れていた。

今日は午前中のうちに、溜まった家事を片付けたい。洗濯と掃除を済ませ、冷蔵庫の奥で可哀想なことになっている、期限切れの食材をゴミ箱に放っていく。

あっという間に一時間が過ぎ、カーテンの隙間から冬らしい白っぽい日差しが差し込んでいた。


「……報告、したほうがいいよなあ」

 頭に浮かんだのはあのイケメンの顔。初対面であんな重い話をしてしまったんだし、あの生真面目そうなイケメンは心配しているかもしれない。

そう考えるといてもたってもいられず、顔を洗ってちゃんと髭を剃り、持っているなかでいちばんましな服を着た。

 ちょうど季節は大寒、空は晴れていても街には木枯らしが吹きすさんでいる。こんな日でも平日からそこそこ人手があるのが、鎌倉である。小町通りをちょっとだけ冷やかした。

大仏さまを模した大判焼きである大仏焼きや、ロールタイプのいなり寿司。しらす天にカレーパン。この寒さでもジェラートを頬張っている外国人がいる。

なんとなく、ロシアとかそのあたりの人に見えた。さすが、寒さに強いのだろう。


 面接を控えているので、鶴岡八幡宮に寄ってしっかりと祈願した後、おみくじを引いたら末吉だった。万事あせるな、なんて書いてある。今の俺にぴったりすぎる言葉だと思って、笑ってしまった。


「さて、向かうか」


 この前と同じ住宅街に入ったが、現れたのは白っぽい洒落た外観の建物だった。店名だってこの前とは違う。

まさかこの短期間に建物を取り壊して、改装? いやいやさすがに無理あるだろ。マップアプリで近くを探したり、鎌倉 カフェ クロスオーバーで検索しても出てこない。

SNS全盛期のこの時代に、まったくネットに情報を載せてないっていうのか。不思議な店である。


「ま、いっか」

 心残りを抱えつつも、俺は今日のもうひとつの用事を果たすため、大船に向かった。


 大船にはデパートがあるので、そこでビジネス用のバッグを買いたかった。この前の面接に持って行ったのは、高校時代から使い古したリュックだったので、今思うとあれも落とされる一因だったのかもしれない。

たかがバッグ、されどバッグ。出費は馬鹿にならなかったが、必要な投資だ。これを買ったからには、ぜったいに受かってやると気合を新たにする。

 駅構内に入ったところで、見覚えのある後ろ姿を見つけた。


「すみません、サンドイッチひとつください」

 大船軒の前で、サンプルを指さしてそう言っているのは、璃音だった。

 もとは真っ白だったであろうコートはあちこち染みだらけ、髪は相変わらず傷んでいて、顔にはくっきりと疲れが浮かんでいる。店で見た時より、十歳ぐらい老けて見えた。それでも、璃音だった。胸がどくどくと高鳴りだす。


「ありがとうございました」

 店員さんに会釈をして振り返った璃音と、目が合った。ぎょっとした璃音が、踵を返して走り出す。


「ちょ、待って……!!」

 ハイヒールを鳴らして走り出す璃音を、反射的に追いかけた。周囲の人が何事かという目でこちらを見てくる。

 俺はなんで、フラれた女を追っているんだろう。今さら何を伝えたいんだろう。わからない。

わからないけれど、足は勝手に動く。何年ぶりかの全力疾走に、ぜいぜいと肺が暴れていた。なのに、どういうわけか、妙な気持ち良さのようなものを感じていた。

 璃音は足が速かった。階段を駆け下り、駅からまっすぐ伸びるペデストリアンデッキを、風のように突っ切っていく。待て、待ってくれと叫びながら、ちっとも距離は縮まらない。そして璃音が派手にこけた。


「痛っ……」
「大丈夫!?」

 駆け寄っていって手を差し伸べると、璃音はようやく観念したように俺を見て、差し出した手は握らず、自力で立ち上がった。転がったサンドイッチの箱を開け、中を確認している。


「よかった、これは無事」
「本当によかった……なんかごめん」
「ごめんっつーかさ、なんで追いかけてくるわけ? あんた、ガチもんのストーカーだったの?」

「い、いや。なんで追いかけたのかわからないけど。しいていえば、璃音ちゃんが逃げるからとしか」
「何それ。あたしのせいだって言いたいの?」
「そんなわけじゃ……」


 璃音は俺の顔を見つめ、ふーっとため息を吐いてサンドイッチの箱を押しやった。


「半分、あげる」
「えっ、いいの?」
「どうせお金ないんでしょ。貧乏人への施し」
「……ありがと」
「そこで食べよ。観音様見ながら」


 大船駅のペデストリアンデッキの中腹からは、仏海山の観音様が見える。

上半身だけの観音様は神々しいほどの真っ白で、ここからでもよく見える、街のシンボルになっていた。

昭和のはじめに建設が始まったけど、世界恐慌のせいで二十三年間も放置され、戦後になってようやく資金が集まり、昭和三十五年に完成したという、苦労人の観音様。

悟りの象徴みたいな穏やかな顔で、世界の平和をじっと祈っている。


 璃音と半分ずつ食べたサンドイッチは、シンプルな見た目に反してびっくりするほど美味かった。

ハムはジューシーだし、チーズはバターか? と疑いたくなるほど濃厚で、ちゃんと塩気が効いている。マスタードもいい仕事をしていた。


「美味しいでしょ、これ。うちの地元の名物。明治時代に政府の要人である、黒田清隆に薦められ、創業者の富岡周蔵が開発したんだって。

さすがに明治の頃とは味が変わってるだろうけど、でもちゃんと生き残ってるのがすごいよね」

「地元。璃音ちゃん、出身は浦安だって言ってなかった?」

「客に個人情報明かすわけないでしょ、馬鹿じゃないの。浦安って言ったのは、ディズニー好きだから。元彼ともその前の彼とも行ったの」
「……へえ」


 小さなサンドイッチは瞬く間に減っていく。これでは会話がつながらないし、肝心なことは何も聞けていない。何を言うべきなのかもわからない。でもとりあえず、これくらいなら聞いても怒られないだろう。


「今日、仕事は?」
「あの店辞めた。今は実家に戻ってるの」
「そう、なんだ……ええと、付き合ってた彼は?」

「――あいつさ、他の女妊娠させたんだよね。責任取るから別れてくれ、あいつには俺しかいないから、なんて言われたらもう……あたしといた時はろくに働かなかったくせに、今はがんばって仕事探してるみたい。

結局、あたしは金だけ調達してくれればいいって女だったってこと。あたしのためにがんばろうとかしっかりしようとか、一度も思ってくれたことなかったんだろうね、あいつ」


 あまりにもひどい話を、璃音は淡々と話す。

 どこからどう突っ込んでいいかわからないし、コメントのしようもない。

 店に通っていた頃は、璃音がヒモ彼氏と別れて、俺を選んでくれればとずっと思っていた。

でもそれは璃音が自分の意思でそうしなければ意味のないことだと思っていたし、こんな傷つくような別れ方をしてほしいなんて、望んでなかった。


 何もかも受け入れてくれるような観音様を見つめながら、璃音はなおも言葉を紡ぐ。
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