鎌倉黒猫カフェ クロスオーバー

櫻井千姫

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第五話 本命チョコはフォンダンショコラ

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「私は、もうこの子を育てていく自信がありません」

 凛太朗のほうを気にしながらも、きっぱりと言った。お兄さんはじっと私に真剣な目を注いでいる。


「こういう時って、ふつうは然るべき機関に頼るものですよね。必要と判断すれば、預かってくれる施設も見つかるのかもしれない。

でもそんなことをしたら、義母はいよいよ私を許さないでしょうし、実の両親からも子どもを捨てた鬼母だと軽蔑される。きっと夫からも。

結局私は、あの子から逃げられません。子どもを産むって、産んだ子がどんな子か関わらず、その子から最低十八年間逃れられないって重い責任とセットなんです。誰も途中リタイアすることを認めてくれない、どれだけ苦しくても……

最低ですよね。こんなことを考えてしまう時点で、私はもう親としてやっていけない。今日はあの子と鶴岡八幡宮に行って、大吉のおみくじを引けて、フォンダンショコラも食べられて、とてもいい日になりました。だから、この最高な気持ちのままで……」


 その先はさすがに言えなかったけれど、お兄さんはきっと私の言いたいことをわかっていただろう。カーペンターズの声が遠くなり、私とお兄さんの間の空気が、ふっと固まった。


「――まず言っておきますが、自殺は罪になります」

 お兄さんの言葉に、顔を上げる。白目と黒目の境目がはっきりした、切れ長の目がこちらを見つめている。


「とはいえ、人それぞれ事情というものがあります。お金の問題で苦しんでいる人、健康トラブルを抱えている人、子育てに悩む人――解決しようのない問題も、この世にはたくさんあります。そういった人たちが、罪を受け入れる覚悟を持って、この人生から離脱しようと言うなら、僕は止める言葉を持ちません、でも」


 一拍置いて、いつになく強い調子で言った。


「お子さまを道連れにするのは、違うでしょう」

「――そうですよね」


 コーヒーより苦い、罪悪感という名の毒がじわじわと胸を浸していく。

 将来、この世に居場所が見つかりそうもないのだから、今のうちに……なんていうのは、傍から見れば私の勝手な理屈で、凛太朗が望んでそうするのとはまったく違う。

あの子はほとんどしゃべらないし笑わないし、意思表示をしないけれど、今凛太朗に一緒に死のうと言ったら、躊躇ためらいなく嫌だと答えるはずだ。

 でも、その先は?


 今死ぬのをあきらめて、日常に戻っていったところで、私に、凛太朗に、道はあるんだろうか。


「私は不安で仕方ないんです。凛太朗はわがままで癇癪持ちで、こだわりの強さなんて病気。無表情で無口で、親の私とすらコミュニケーションがとりづらい。

どれだけ算数や体育が得意でも、こんな子がこれから社会で通用するのか。結局、この先生きていっても、この子がちゃんとした大人になれるのか、幸せを掴めるのか。それが不安で、どうしようもなく怖くて、それ以上何も考えられなくなってしまうんです」


「それは、今の時点では誰にもわからないことかと。凛太朗くんだけじゃない、どんな子にだって同じことが言えます。特に今のような、先行き不透明の時代には。

ただひとつ言えるのは、親は子どもの幸せを決められないということです。何を幸せと感じ、何を選び取るか、それは子どもが決めることなんですよ。

あと、もう一度よく考えてみてください。凛太朗くんは本当に、そんなに悪い子ですか?」


はっきりと問いかけられ、私の視線は黒猫と遊んでいる凛太朗に移る。

レモン色の瞳を気持ちよさげに細めている猫の顎下を、凛太朗の小さな手のひらが行き来していた。わかりづらいけれど、なんとなく笑っているように見える。

その顔を見ていたら、去年の冬にあったことを思い出した。


その日私はインフルエンザでダウンしてしまい、こんな時だというのに将司は会社に出かけていってしまい、幼稚園から凛太朗が帰ってくると、寝ているからぜったいにお母さんに近寄らないでと固く言い渡した。

とにかく、凛太朗に移すことだけは、何がなんでも避けなきゃいけなかった。


熱にうんうん唸って、意識もおぼろげになっていると、おでこに固いひんやりしたものがいきなり置かれて、びっくりした。腕を伸ばしてよく見ると、硬度最強と言われるあずきバーだった。ベッドの横に凛太朗が立っている。


「何してるの、近づいちゃ駄目って言ったじゃない」
「お熱、こうすると下がる」


凛太朗が真顔で言った。この子が風邪を引いた時、私が看病してやった時のことを、ちゃんと覚えているのだ。

泣きそうなほど胸が温かくなって、ついでに笑っていた。

凛太朗を見て、思う。この子はほとんどしゃべらないから、わかりづらいけれど。この子の中にはちゃんと、親を、他者を、思いやる心が育っている。


「……なんでアイスノンじゃなくて、あずきバーなの」
「溶けたら食べられる」
「何それ……」


すっかり脱力して、私は笑いながら泣いた。次の日の朝、熱は三七度台前半まで下がっていた。


凛太朗はちょっと、他の子と思考回路が違う。もしかして、ザリガニを園庭に放したのは、閉じ込められているザリガニがかわいそうだと思ったのかもしれない。聞いてみないとわからないけれど。

私はいつのまにか、凛太朗が扱いにくい、難しい子だと決めつけて、ろくに話し合うことすらしなくなっていた。凛太朗は言語化が苦手だけれど、本当は頭の中にいろんな考えがあって、私に伝えたいことだってあるはずだ。


「……凛太朗は、悪い子なんかじゃありません。わがままだけど、癇癪持ちだけど、こだわりが強すぎて大変だけど。でも本当は、すごくやさしい子なんです。そんな子を、私は……」

「お母さん」


 いつのまにか黒猫から離れた凛太朗が、私のスカートの裾を引いて言った。


「おうちに帰りたい」
「うん、そうだね、帰ろうね……」


 私は凛太朗の手を取り、頭をくしゃくしゃと撫でて、抱きしめた。

何度もごめんね、ごめんなさいと零しながら。

熱い涙が後から後から溢れて止まらなくて、凛太朗の絹豆腐みたいにつるんとした頬を濡らした。

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