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第五話 本命チョコはフォンダンショコラ
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「ちょ、凛太朗。こういうところではまず注文」
「いいですよ、お子さまのペースに合わせましょう」
お兄さんがやさしく言ってくれて、ちょっとほっとした。
「私はコーヒーでいいんですが、この子が飲めるものありますかね。うちの子、コーヒーはとても無理でしょうし、ジュースとかも好みが激しくて」
「ホットミルクは如何でしょうか。蜂蜜をたっぷり入れれば、お子さまも飲みやすいと思いますよ」
「ありがとうございます、ではそれで」
まもなく、コーヒーとホットミルクが運ばれてきて、黒猫に夢中だった凛太朗もホットミルクを素直に飲んでくれた。私のコーヒーは、コーヒーと思えないほど甘い香りがした。
「エチオピアやイエメン産のモカ豆をベースに、ブラジルやコロンビアとブレンドしたモカブレンドです。酸味がまろやかで、飲みやすいのでふだんコーヒーを飲まない方にも好まれるブレンドです」
「美味しいです。ふだん、なかなかコーヒーを味わう機会なんてないので」
「そしてこちらが、お客様がたの思い出のおやつです」
「え……?」
お兄さんが満面の笑みで、私と凛太朗の前に、お皿をひとつずつ置いた。
チョコレート色の丸い塊、表面をほんのりと化粧した粉砂糖。半分に切ったヘタつきのいちごとホイップクリームが添えられている。
このお皿、うちで使っているものと一緒じゃないか。フォークだって。凛太朗が握る子ども用フォークには、アニメキャラクターの絵が描いてある。同じものを使っているなんて、すごい偶然だ。
それに何より、このフォンダンショコラ……。
「同じだ。一年前、私が作ったのと……」
胸がぐらぐら揺れて、一年前のバレンタインデーの記憶が呼び起こされる。
バレンタインのシステムを知ったばかりの凛太朗は、自分もお母さんからチョコレートが欲しいとおねだりした。
デパートで子ども向けのかわいいチョコでも買ってくればいいか、と思っていたら、幼稚園の図書コーナーでお菓子の本を見つけてきて、どうしてもこれを作ってほしいと、フォンダンショコラをリクエストしたのだ。
私はふだん、お菓子なんて作らない。もちろん凛太朗の健康を考えて、時々は手作りおやつに挑戦することもあるけれど、かんたんなゼリーとかプリンとか、クッキーが関の山。フォンダンショコラなんて、初心者にはあまりにもレベルが高すぎる。
「お母さんのフォンダンショコラが食べたい」
泣き喚くのではなく、いつになく真剣な調子で何度も言われて、つい折れてしまった。
はかりで材料を計測して、粉をふるって、かき混ぜて、慎重に型に入れて。オーブンでフォンダンショコラが焼ける様子を、凛太朗は扉に額をくっつけて見ていた。本にある見本の通りにしてほしいとせがむので、いちごとホイップクリームも添えた。
将司は甘すぎると文句を言ったのに、凛太朗はあっという間にぱくぱく食べてしまって、こう言ってくれた。
「お母さん、ありがとう」
後にも先にも、あの子が親の私にお礼を言ったのは、あの時だけだった。
「嘘でしょ……失敗して焦げたところもそっくり……」
こんな偶然があるのかと、おどろいている私の隣で、凛太朗がフォークを掴み、ひと口崩してぱくっと食べる。お兄さんが聞いた。
「どうでしょうか?」
「美味しい。でも、お母さんが作ったやつのほうが、美味しい」
「あはは。負けてしまいましたね」
「凛太朗……」
胸がぎゅっと詰まって、口の周りを真っ黒に汚しながらフォンダンショコラを食べている凛太朗を見ていたら、涙が出てきてしまった。
手のかかる子、どうしようもない子、この先生きていても幸せになれる可能性がとても低い子。
とはいえ、やっぱりかわいい。
猫を見つけて追いかけたり、気に入ったものを見つけて作ってくれとせがんだり、今だって、フォンダンショコラに夢中になって。
こういう歳相応のかわいい凛太朗を見ていたら、わからなくなる。
子育てがつらいのは本当だし逃げたいのも本当。でも、私はこの子を殺せるんだろうか。
こんなにかわいい、凛太朗を。
「杉平里英さん、涙を拭いてください」
「すみません……」
お兄さんにティッシュを渡されて、私は涙と鼻水で大変なことになっているであろう顔を拭う。凛太朗は私がなんで泣いているのか、ちっともわかっていないだろう。今はフォンダンショコラを食べ終わって、熱心に黒猫と遊んでいる。
というか私、いつこの人に名乗っただろう。
「つらいことが、あったのですよね」
お兄さんのやさしい声が、擦り切れた心に染み込んでいく。
「僕でよかったら、話していただけませんか。子どもを育てたことはないし、何の力にもなれないことはわかっています。それでも、これだけ泣いている女性を、理由も聞かずに帰すわけにはいきません」
「そう、ですよね……」
私はちょっとの勇気を出して、すべてをお兄さんの前でつまびらかにした。
凛太朗が発達障害だと診断されて、毎日苦労していること。将司とも義母ともうまくいかず、義母なんて、ついに私を息子から引き離そうと強硬手段に出てしまったこと。そして凛太朗がついに、仲のいい友だちに怪我をさせてしまったこと。
言いながら、ずっと誰かに聞いてほしかったのだと思う。
今はインターネットにも子育ての悩みや愚痴が溢れているし、発達障害の子どもを持つお母さんの苦労話も多い。でも自分もアカウントを作って、そこに投稿することはなんとなく避けていた。
顔も名前も出さないとはいえ、凛太朗のことを書くのに抵抗があった。もし凛太朗がそれを見つけてしまったら、きっとショックを受けるだろう。どうしても、そんなふうに思ってしまう。もちろんそんなことを言い出してしまったら、ネットには何も書けなくなるけれど。
だから、時々真衣子さんに会って不安を共有する他は、ずっと自分のなかで、ひとりでぐずぐずとつらさを燻ぶらせていた。
こんなに大変なのに苦しいのに、私はひとりぼっち。
誰か助けて、私と凛太朗を見捨てないで、どうして私がこんな目にーーそんな不満以外は、何も見えなくなってしまっていた。
「いいですよ、お子さまのペースに合わせましょう」
お兄さんがやさしく言ってくれて、ちょっとほっとした。
「私はコーヒーでいいんですが、この子が飲めるものありますかね。うちの子、コーヒーはとても無理でしょうし、ジュースとかも好みが激しくて」
「ホットミルクは如何でしょうか。蜂蜜をたっぷり入れれば、お子さまも飲みやすいと思いますよ」
「ありがとうございます、ではそれで」
まもなく、コーヒーとホットミルクが運ばれてきて、黒猫に夢中だった凛太朗もホットミルクを素直に飲んでくれた。私のコーヒーは、コーヒーと思えないほど甘い香りがした。
「エチオピアやイエメン産のモカ豆をベースに、ブラジルやコロンビアとブレンドしたモカブレンドです。酸味がまろやかで、飲みやすいのでふだんコーヒーを飲まない方にも好まれるブレンドです」
「美味しいです。ふだん、なかなかコーヒーを味わう機会なんてないので」
「そしてこちらが、お客様がたの思い出のおやつです」
「え……?」
お兄さんが満面の笑みで、私と凛太朗の前に、お皿をひとつずつ置いた。
チョコレート色の丸い塊、表面をほんのりと化粧した粉砂糖。半分に切ったヘタつきのいちごとホイップクリームが添えられている。
このお皿、うちで使っているものと一緒じゃないか。フォークだって。凛太朗が握る子ども用フォークには、アニメキャラクターの絵が描いてある。同じものを使っているなんて、すごい偶然だ。
それに何より、このフォンダンショコラ……。
「同じだ。一年前、私が作ったのと……」
胸がぐらぐら揺れて、一年前のバレンタインデーの記憶が呼び起こされる。
バレンタインのシステムを知ったばかりの凛太朗は、自分もお母さんからチョコレートが欲しいとおねだりした。
デパートで子ども向けのかわいいチョコでも買ってくればいいか、と思っていたら、幼稚園の図書コーナーでお菓子の本を見つけてきて、どうしてもこれを作ってほしいと、フォンダンショコラをリクエストしたのだ。
私はふだん、お菓子なんて作らない。もちろん凛太朗の健康を考えて、時々は手作りおやつに挑戦することもあるけれど、かんたんなゼリーとかプリンとか、クッキーが関の山。フォンダンショコラなんて、初心者にはあまりにもレベルが高すぎる。
「お母さんのフォンダンショコラが食べたい」
泣き喚くのではなく、いつになく真剣な調子で何度も言われて、つい折れてしまった。
はかりで材料を計測して、粉をふるって、かき混ぜて、慎重に型に入れて。オーブンでフォンダンショコラが焼ける様子を、凛太朗は扉に額をくっつけて見ていた。本にある見本の通りにしてほしいとせがむので、いちごとホイップクリームも添えた。
将司は甘すぎると文句を言ったのに、凛太朗はあっという間にぱくぱく食べてしまって、こう言ってくれた。
「お母さん、ありがとう」
後にも先にも、あの子が親の私にお礼を言ったのは、あの時だけだった。
「嘘でしょ……失敗して焦げたところもそっくり……」
こんな偶然があるのかと、おどろいている私の隣で、凛太朗がフォークを掴み、ひと口崩してぱくっと食べる。お兄さんが聞いた。
「どうでしょうか?」
「美味しい。でも、お母さんが作ったやつのほうが、美味しい」
「あはは。負けてしまいましたね」
「凛太朗……」
胸がぎゅっと詰まって、口の周りを真っ黒に汚しながらフォンダンショコラを食べている凛太朗を見ていたら、涙が出てきてしまった。
手のかかる子、どうしようもない子、この先生きていても幸せになれる可能性がとても低い子。
とはいえ、やっぱりかわいい。
猫を見つけて追いかけたり、気に入ったものを見つけて作ってくれとせがんだり、今だって、フォンダンショコラに夢中になって。
こういう歳相応のかわいい凛太朗を見ていたら、わからなくなる。
子育てがつらいのは本当だし逃げたいのも本当。でも、私はこの子を殺せるんだろうか。
こんなにかわいい、凛太朗を。
「杉平里英さん、涙を拭いてください」
「すみません……」
お兄さんにティッシュを渡されて、私は涙と鼻水で大変なことになっているであろう顔を拭う。凛太朗は私がなんで泣いているのか、ちっともわかっていないだろう。今はフォンダンショコラを食べ終わって、熱心に黒猫と遊んでいる。
というか私、いつこの人に名乗っただろう。
「つらいことが、あったのですよね」
お兄さんのやさしい声が、擦り切れた心に染み込んでいく。
「僕でよかったら、話していただけませんか。子どもを育てたことはないし、何の力にもなれないことはわかっています。それでも、これだけ泣いている女性を、理由も聞かずに帰すわけにはいきません」
「そう、ですよね……」
私はちょっとの勇気を出して、すべてをお兄さんの前でつまびらかにした。
凛太朗が発達障害だと診断されて、毎日苦労していること。将司とも義母ともうまくいかず、義母なんて、ついに私を息子から引き離そうと強硬手段に出てしまったこと。そして凛太朗がついに、仲のいい友だちに怪我をさせてしまったこと。
言いながら、ずっと誰かに聞いてほしかったのだと思う。
今はインターネットにも子育ての悩みや愚痴が溢れているし、発達障害の子どもを持つお母さんの苦労話も多い。でも自分もアカウントを作って、そこに投稿することはなんとなく避けていた。
顔も名前も出さないとはいえ、凛太朗のことを書くのに抵抗があった。もし凛太朗がそれを見つけてしまったら、きっとショックを受けるだろう。どうしても、そんなふうに思ってしまう。もちろんそんなことを言い出してしまったら、ネットには何も書けなくなるけれど。
だから、時々真衣子さんに会って不安を共有する他は、ずっと自分のなかで、ひとりでぐずぐずとつらさを燻ぶらせていた。
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