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第六話 お土産はいちごショート
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歳を取ると早く目が覚めるようになるというのは本当で、その日も意識が覚醒した瞬間、まだ部屋のなかはしっとりと青い闇が満ちていた。
壁にぼんやりとくっついている、時計のシルエット。ここからじゃ時間が見えないけれど、たぶん六時にもなっていないだろう。家のなかは家具も家電も、気味が悪くなるほど息を潜めている。
「お父さん、老眼鏡取ってくれる?」
そう言って隣の布団に目をやって、そこに何もないことに今さら気づき、はっと息が詰まる。
四十九日はもう過ぎたのに、生きていた頃の習慣で、今も寝ている間、隣に夫がいるような気がしてしまう。
結婚してから三十五年、晴れの日も雨の日も、ずっと布団を並べて寝てきた。二年前、お父さんに胃がんが見つかってからも、その習慣はやめなかった。
お父さんがぎりぎりまで家にいたいと言うので、訪問看護をお願いして、最後まで家で看取ろうとしたけれど、昼食の後に血を吐いて、即入院。それから二日後――。
「やめよう、考えるのは」
つらいことを思い出しても、胸の傷が思い出したようにじくじく疼くだけで、何もならない。
布団をもう一度被って、せめて外が明るくなるまで寝ていようと思ったけれど、まんじりともできなかった。私は決して、ひとりぼっちになったわけじゃない。気にかけてくれる妹も、やさしいふたりの娘もいる。
でもどうしても、お父さんを喪ってから、自分がたったひとりでこの世に遺されてしまったという寂しさに、慣れることができないのだ。
私は去年の五月に還暦を迎えたばかり。平均寿命を考えると、あと二十年以上も生きることになる。お父さんのいなくなった世界で、ひとりぼっちで。
そう思ってしまうと、頭をわあっと掻きむしりたくなるほどの不安と悲しみで、身体の内側からびりびりと引き裂かれるように苦しい。
お父さん、どうして一緒に私を連れていってくれなかったの……?
二度寝をすることもできないまま、お腹が空いていることに気づき、ようやく身体を起こした。
ようやく朝日が障子をやわらかな金色に染め始めている。
いけないいけない、こんな最低の気分のまま、一日を始めちゃ駄目だ。ひとりになってしまったからこそ、ちゃんとしないといけない。
顔を洗い、染みと皺だらけの顔にきちんと化粧水を染み込ませた後、エプロンをきっちりと締めて台所に立つ。
お鍋で昆布とかつおの出しを取りつつ、グリルに鮭の切り身を放り込む。お味噌汁の具は、昨日調達したはまぐり。お父さんははまぐりが好きだったな、と思い出して、また胸がじんと痛む。
夕べから漬けておいた浅漬けを冷蔵庫から取り出し、ささっと卵焼きを作って完成。茶碗にこんもりとご飯をよそって、ランチョンマットまで敷いて、ひとり分の食卓をじっくりと見据える。
うん、えらい。私、お父さんがいなくたってちゃんとやれてるじゃない。
食べる前に、仏壇で微笑んでいるお父さんの写真の前にも、小さなご飯をよそって線香を立てる。この写真は結婚二十周年の時、夫婦ふたりで出かけた熱海で撮ったものだ。
旅で浮かれていたのか、三月なのに海で泳ぐと言って聞かなくて、波打ち際に近づいて行って、冷たい冷たいと騒ぎながら戻ってきたっけ……ふだんは真面目な人なのに、たまにああやって、子どもみたいにハメを外すところがあった。
「もう、いないのよね……」
線香の煙が目に染みて、また涙がこみ上げてしまう。
おいしくできたと自信のある朝ご飯だって、ひとりで食べるとやっぱり味気ない。
たしかにはまぐりはふっくら肉厚で、鮭も卵焼きも味付けが完璧。浅漬けも大根とか白菜とか、しゃきしゃきしていて浸かり具合がちょうどいい。
でも、味の問題ではない。ご飯って、一緒に食べてくれて、美味しいと言ってくれる誰かがいてこそ、完成するものじゃないのか。少なくとも私はお父さんと結婚してからずっと、そうやってきたのに。
そろそろ、宅配食に切り替えるとか、楽をしてもいいんだろうか。でもそれをしてしまえば、いよいよすることがなくなってしまうし……そう思って片付けに取り掛かろうとすると、スマートフォンが鳴った。
長女である美保(みほ)の名前が表示されている。
『もしもし、お母さんー? どう、調子は』
「ええ、まあまあよ。美保こそ、こんな朝から電話してきていいの」
『今ちょうど、子どもふたり保育園に送ってきたところ。あたし今在宅勤務だから、これから家で仕事するんだ』
三十三歳の美保は五年前に結婚し、今は四歳児と一歳児のママ。三歳年上の婿は穏やかでやさしい人で、結婚と同時に都内にマイホームを購入、美保のことも孫たちのことも、大切にしてくれている。
『夕べね、美香とラインでやり取りしてたの。美香もお母さんのこと、すごく心配してたのよ。お父さんとお母さんラブラブだったし、すごく寂しい思いをしてるんじゃないかって』
「ああ……そうなの」
次女の美香は二年前に結婚して、昨年子どもが生まれたばかり。今は〇歳児の育児に奮闘中だ。
幸い義実家が近くにあるので、こちらがお父さんの介護、そして死後のごたごたで、初めての育児のフォローどころじゃないなか、思いきり頼れていると言ってるけれど。
『今度の土曜日、美香と一緒に鎌倉行くから』
「大丈夫なの。あなたたちふたりとも、小さい子がいるじゃない」
『日帰りだし、一日くらい旦那に看てもらえるよ。それより三人で、ゆっくりこれからのこと話し合おう。じゃあね』
一方的に用件だけ言って、切れてしまう電話。ふーっとため息を吐く。
お父さんが死んでからというもの、ふたりは顔を合わせれば「この後いったいどうするのか」「この家はお母さんひとりで住むには広すぎる」「固定資産税だって馬鹿にならない」と、そういう話ばっかり。心配してくれているのはわかるけれど、結局、どちらかの家で同居しなさいということだ。
それはつまり、私にとってはお父さんとの思い出が染み付いた、この家を手放すということなのに。
「いけないわねえ、心配してくれているだけなのに、こんな考え方……」
ため息をついてスマートフォンを置くと、また鳴った。今度は京都に住んでいる妹の美(み)鳥(どり)からだ。
『もしもし? 姉ちゃん? 朝ご飯食べた?』
「ええ、今食べたわ。これから片付けるとこ。で、なんなん?」
京都を離れたのはもう四十年近く前なのに、美鳥と話していると即座にそちらの言葉に戻ってしまう。
二歳年下の美鳥は、昔一瞬だけ結婚していたけれど、旦那さんの不倫が発覚して離婚。その時はぷりぷりしていたけれど、結果的に慰謝料はたんまりもらえたし、以来両親から受け継いだ家で悠々とひとり暮らしをエンジョイしつつ、区役所に勤めて独身生活を謳歌している。
『なんなん、やないわよ。姉ちゃんのことが心配だからかけたに決まっとるやん。明生(あきお)さんがいなくなって、どれだけ落ち込んどるかと思ったら、仕事も手につかんわ』
「あなた公務員やないの。ちゃんと仕事せえへんと」
『わかっとるわよ。なあ姉ちゃん、そっちの家売って、こっちに帰ってくるのはどうなん? 京都も最近すっかり様変わりしたけれど、うちのほうはあまり変わっとらへんよ。そこまで住みづらいとかないと思うで』
「そう……そうやなあ」
美鳥まで、わざわざ電話をかけてきてはこんな心配だ。私たち姉妹は、五十を超えてから相次いで両親を亡くした。美鳥は長い介護生活の後、今はひとりで住んでいる。本音では寂しいのだろう。
実の娘とはいえ、互いにパートナーがいる娘と同居するより、血を分けた姉妹のほうが気楽かもしれない。とはいえ、単純かつきわめて解決困難な問題がある。
「そうは言うても、かんたんにはいかへんよ。うち、三十年以上も鎌倉に住んどるんやで。今はもう京都に、あんた以外の知り合いはおらへんし」
『そう言うと思うとったわ。まあ、姉ちゃんだってもう若くないし、いつ身体が悪くなるかわからへんよ。その時に美保ちゃんや美香ちゃんに迷惑かけんように、今のうちから考えとかないとあかんで。あ、もう切るわ。またな』
つーつーつー、とまた一方的に電話は切れてしまう。
さすが我が妹、痛いところを突いてくる。
実の娘たちとはいえ、今は家庭があるのだし、親よりも子どもを優先させたいのが本音だろう。あの子たちの負担になるのは、私の本意ではない。
だったら今のうちに、物理的に離れてしまったほうが親切なのではという考え方もできる。
とはいえ、そうかんたんに思い切れないほどの年月と思い出が、この家には染み付いている。
「どうしましょうね、お父さん」
反射的に、仏壇に向かって呟いていた。天に召されたあの人は、もう返事もしてくれない。
死んだあの日からずっと、私はお父さんの声を聞いていない。
壁にぼんやりとくっついている、時計のシルエット。ここからじゃ時間が見えないけれど、たぶん六時にもなっていないだろう。家のなかは家具も家電も、気味が悪くなるほど息を潜めている。
「お父さん、老眼鏡取ってくれる?」
そう言って隣の布団に目をやって、そこに何もないことに今さら気づき、はっと息が詰まる。
四十九日はもう過ぎたのに、生きていた頃の習慣で、今も寝ている間、隣に夫がいるような気がしてしまう。
結婚してから三十五年、晴れの日も雨の日も、ずっと布団を並べて寝てきた。二年前、お父さんに胃がんが見つかってからも、その習慣はやめなかった。
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「やめよう、考えるのは」
つらいことを思い出しても、胸の傷が思い出したようにじくじく疼くだけで、何もならない。
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でもどうしても、お父さんを喪ってから、自分がたったひとりでこの世に遺されてしまったという寂しさに、慣れることができないのだ。
私は去年の五月に還暦を迎えたばかり。平均寿命を考えると、あと二十年以上も生きることになる。お父さんのいなくなった世界で、ひとりぼっちで。
そう思ってしまうと、頭をわあっと掻きむしりたくなるほどの不安と悲しみで、身体の内側からびりびりと引き裂かれるように苦しい。
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二度寝をすることもできないまま、お腹が空いていることに気づき、ようやく身体を起こした。
ようやく朝日が障子をやわらかな金色に染め始めている。
いけないいけない、こんな最低の気分のまま、一日を始めちゃ駄目だ。ひとりになってしまったからこそ、ちゃんとしないといけない。
顔を洗い、染みと皺だらけの顔にきちんと化粧水を染み込ませた後、エプロンをきっちりと締めて台所に立つ。
お鍋で昆布とかつおの出しを取りつつ、グリルに鮭の切り身を放り込む。お味噌汁の具は、昨日調達したはまぐり。お父さんははまぐりが好きだったな、と思い出して、また胸がじんと痛む。
夕べから漬けておいた浅漬けを冷蔵庫から取り出し、ささっと卵焼きを作って完成。茶碗にこんもりとご飯をよそって、ランチョンマットまで敷いて、ひとり分の食卓をじっくりと見据える。
うん、えらい。私、お父さんがいなくたってちゃんとやれてるじゃない。
食べる前に、仏壇で微笑んでいるお父さんの写真の前にも、小さなご飯をよそって線香を立てる。この写真は結婚二十周年の時、夫婦ふたりで出かけた熱海で撮ったものだ。
旅で浮かれていたのか、三月なのに海で泳ぐと言って聞かなくて、波打ち際に近づいて行って、冷たい冷たいと騒ぎながら戻ってきたっけ……ふだんは真面目な人なのに、たまにああやって、子どもみたいにハメを外すところがあった。
「もう、いないのよね……」
線香の煙が目に染みて、また涙がこみ上げてしまう。
おいしくできたと自信のある朝ご飯だって、ひとりで食べるとやっぱり味気ない。
たしかにはまぐりはふっくら肉厚で、鮭も卵焼きも味付けが完璧。浅漬けも大根とか白菜とか、しゃきしゃきしていて浸かり具合がちょうどいい。
でも、味の問題ではない。ご飯って、一緒に食べてくれて、美味しいと言ってくれる誰かがいてこそ、完成するものじゃないのか。少なくとも私はお父さんと結婚してからずっと、そうやってきたのに。
そろそろ、宅配食に切り替えるとか、楽をしてもいいんだろうか。でもそれをしてしまえば、いよいよすることがなくなってしまうし……そう思って片付けに取り掛かろうとすると、スマートフォンが鳴った。
長女である美保(みほ)の名前が表示されている。
『もしもし、お母さんー? どう、調子は』
「ええ、まあまあよ。美保こそ、こんな朝から電話してきていいの」
『今ちょうど、子どもふたり保育園に送ってきたところ。あたし今在宅勤務だから、これから家で仕事するんだ』
三十三歳の美保は五年前に結婚し、今は四歳児と一歳児のママ。三歳年上の婿は穏やかでやさしい人で、結婚と同時に都内にマイホームを購入、美保のことも孫たちのことも、大切にしてくれている。
『夕べね、美香とラインでやり取りしてたの。美香もお母さんのこと、すごく心配してたのよ。お父さんとお母さんラブラブだったし、すごく寂しい思いをしてるんじゃないかって』
「ああ……そうなの」
次女の美香は二年前に結婚して、昨年子どもが生まれたばかり。今は〇歳児の育児に奮闘中だ。
幸い義実家が近くにあるので、こちらがお父さんの介護、そして死後のごたごたで、初めての育児のフォローどころじゃないなか、思いきり頼れていると言ってるけれど。
『今度の土曜日、美香と一緒に鎌倉行くから』
「大丈夫なの。あなたたちふたりとも、小さい子がいるじゃない」
『日帰りだし、一日くらい旦那に看てもらえるよ。それより三人で、ゆっくりこれからのこと話し合おう。じゃあね』
一方的に用件だけ言って、切れてしまう電話。ふーっとため息を吐く。
お父さんが死んでからというもの、ふたりは顔を合わせれば「この後いったいどうするのか」「この家はお母さんひとりで住むには広すぎる」「固定資産税だって馬鹿にならない」と、そういう話ばっかり。心配してくれているのはわかるけれど、結局、どちらかの家で同居しなさいということだ。
それはつまり、私にとってはお父さんとの思い出が染み付いた、この家を手放すということなのに。
「いけないわねえ、心配してくれているだけなのに、こんな考え方……」
ため息をついてスマートフォンを置くと、また鳴った。今度は京都に住んでいる妹の美(み)鳥(どり)からだ。
『もしもし? 姉ちゃん? 朝ご飯食べた?』
「ええ、今食べたわ。これから片付けるとこ。で、なんなん?」
京都を離れたのはもう四十年近く前なのに、美鳥と話していると即座にそちらの言葉に戻ってしまう。
二歳年下の美鳥は、昔一瞬だけ結婚していたけれど、旦那さんの不倫が発覚して離婚。その時はぷりぷりしていたけれど、結果的に慰謝料はたんまりもらえたし、以来両親から受け継いだ家で悠々とひとり暮らしをエンジョイしつつ、区役所に勤めて独身生活を謳歌している。
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「あなた公務員やないの。ちゃんと仕事せえへんと」
『わかっとるわよ。なあ姉ちゃん、そっちの家売って、こっちに帰ってくるのはどうなん? 京都も最近すっかり様変わりしたけれど、うちのほうはあまり変わっとらへんよ。そこまで住みづらいとかないと思うで』
「そう……そうやなあ」
美鳥まで、わざわざ電話をかけてきてはこんな心配だ。私たち姉妹は、五十を超えてから相次いで両親を亡くした。美鳥は長い介護生活の後、今はひとりで住んでいる。本音では寂しいのだろう。
実の娘とはいえ、互いにパートナーがいる娘と同居するより、血を分けた姉妹のほうが気楽かもしれない。とはいえ、単純かつきわめて解決困難な問題がある。
「そうは言うても、かんたんにはいかへんよ。うち、三十年以上も鎌倉に住んどるんやで。今はもう京都に、あんた以外の知り合いはおらへんし」
『そう言うと思うとったわ。まあ、姉ちゃんだってもう若くないし、いつ身体が悪くなるかわからへんよ。その時に美保ちゃんや美香ちゃんに迷惑かけんように、今のうちから考えとかないとあかんで。あ、もう切るわ。またな』
つーつーつー、とまた一方的に電話は切れてしまう。
さすが我が妹、痛いところを突いてくる。
実の娘たちとはいえ、今は家庭があるのだし、親よりも子どもを優先させたいのが本音だろう。あの子たちの負担になるのは、私の本意ではない。
だったら今のうちに、物理的に離れてしまったほうが親切なのではという考え方もできる。
とはいえ、そうかんたんに思い切れないほどの年月と思い出が、この家には染み付いている。
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