51 / 56
第六話 お土産はいちごショート
4
しおりを挟む
保険外交員の仕事はお父さんの介護に専念するため、辞めてしまったから、今の私は無職である。
この仕事の常で、自分の会社で扱っている医療保険や生命保険をフル活用していたから、がんという大病に見舞われても自分たちの懐はあまり痛まず、お父さんを喪ったところで生活にはあまり困らない。
あと五年すれば年金も受給できるし、贅沢せず、慎ましく生きれば惨めに死ぬようなことにはならないだろう。
とはいえ、孤独はお金で埋めようもなく、こうしてちょっとお出かけしたくらいでは気が晴れないので、鶴岡八幡宮を出た後、鎌倉の街をぶらぶらと散歩することになる。
鎌倉らしいお土産屋、小洒落た飲食店。そこかしこにうっすらピンクに化粧したソメイヨシノの枝が張り出している。道行く人たちは冬の重たい黒やグレーのコートを脱ぎ捨て、あでやかな春の装いをしていた。幸せそうに笑いさざめき合う老夫婦とすれ違って、胸が詰まる。
あの人たちは見たところ、七十は超えていそうだ。いくらお父さんが五歳年上とは言っても、あと十年、いや二十年くらいは、私たちにもあんな幸せな時間があってもよかったのに。
「にゃあ」
猫の声を聞いたのは、そんな時だった。
歩道の片隅、目の前五メートルくらいのところに、つやつやした毛並みの黒猫がちょこんと座って、こっちを見ている。
「クロ! クロじゃないの!」
思わずそう言って、駆け寄っていた。
クロは美保が小学生になったばかりの頃、学校の帰りに見つけて、連れてきた猫だった。まだ生後一か月も経っていなさそうな、ほんの赤ちゃん猫。親やきょうだいとはぐれたのだろう、ぶるぶる震えていて、最初は毛並みも悪くて、とても危険な状態に見えた。
「この子、ほっといたら死んじゃう! お母さんお願い、助けてあげて!!」
幼稚園から帰ってきた美香も加勢して、手のひらの中でぶるぶる震えている子猫を見たらとてもほうっておけず、動物病院に連れて行った。会社から帰ってきたお父さんに、美保と美香はかわるがわる猫を飼いたいと訴えた。
「ペットを飼うっていうのは、命に責任を持つってことだ。美保も美香もまだ小さいけれど、自分はこの子のお母さんだと思って接してほしい。それができるなら、飼ってもいいよ」
美保と美香はありがとうお父さん、と声を揃えて言った。
といっても、どうせ子どものことだし、ふたりともすぐに飽きるだろう……と思っていたのに、ふたりは立派な猫のお母さんになった。
クロと名付けたその猫が、トイレをすれば競うように後始末をするし、お小遣いで首輪を買ってきたり、クロのためにベッドを手作りしてあげたりと、なかなかに甲斐甲斐しい。
最初はどうなることかと思っていた私でさえ、気が付けばすっかりクロに夢中になっていた。
朝、三人を送り出して、ちょっとがらんとして寂しい家の中、繕いものをしているとクロが寄ってきて、ぴたりと身体をくっつけて丸くなる。そんなクロが、どれだけ愛しかったか。
「あんた、どこの子? うちのクロにそっくりなんだけれど」
近づいてもクロに似ているその猫は逃げず、手を差し出すと自分から顔をこすりつけてくる。この人懐っこさはとても野良猫には見えない。黒猫は幸運を呼ぶ猫と言われるらしいから、どこかのお店で商売繁盛を願って、飼われているのだろうか。
黒猫が歩き出し、振り返ってにゃあ、と鳴いた。ついて来て、と言っているように。その鳴き声のトーンや顔つきまで、やっぱりクロに見えてしまう。
猫を飼ったことがない人は、猫なんてどれも一緒でしょ、見分けがつくわけないと思いそうだけど、ぜんぜん違うのだ。一匹一匹、顔つきも体つきも鳴き声も異なる。十五年も一緒にいたクロのことを、他の猫と見間違えるわけない。
とはいえ、今目の前でとことこと私を導き、歩いているのがクロなわけないのだ。
黒猫は自分の身体と同じ、真っ黒な一軒家の前で足を止めた。遠くから見た時はちょっとモダンな外観のおうちだな、としか思わなかったけれど、近くで見ると『クロスオーバ―』と看板がかかっていて、飲食店なのだとわかる。
手書きのボードに『本日のコーヒー モーニングブレンド』と書いてある。黒猫がもう一度にゃあ、と言って歩き出した。
「たまにはいいわよね、ちょっとぐらい贅沢しても」
ふたりの娘が嫁に行って、夫婦ふたりの時間が増えた頃。お父さんがコーヒーメーカーを買ってきて、休日はふたりで一緒にコーヒーやお菓子を頼むのが習慣になった。でも最近飲み物といえば緑茶ばかりで、コーヒーなんて久しく飲んでいない。
しめ縄が張られた引き戸を開けると、モダンな造りの店内が現れる。壁に設えられた大時計、明治時代からありそうなアンティークの電話。照明の形もおしゃれで、カウンターの上には桃の花が飾られていた。甘い香りがふわりと店内に漂っている。
「いらっしゃいませ、そちらにお掛けください」
カウンターの向こうから顔を出した店主を見て、あれっと思った。
見たところ、ごくふつうの青年だ。顔は端正だし背が高くてスタイルが良いし、美保や美香が見たらきゃーっと歓声を上げるところだろう。でもこの人には、はっきりとした違和感が付き纏っている。
「あら、イケメンね。あなたがマスターなの?」
違和感を悟られないよう、口角を上げて言った。
「はい。ここの店主で、船瀬守生と言います」
「船瀬さんね。この猫、こちらで飼われているのかしら? とっても人懐っこくてかわいいわ」
店内に入るといよいよ足に纏わりついてきて離れない黒猫を抱きかかえて言うと、船瀬さんがにっこりと目を細めた。
「はい。彼はうちの看板猫で、ハデスと言います。今は」
「今は?」
「このお店にメニューはございません。本日のコーヒーと、お客様の思い出のおやつを堪能していただいております」
質問に答えないところがますます怪しいなと思いつつ、席につく。思い出のおやつ、というのがすごく引っかかった。
船瀬さんにはどうやら、私の思い出のおやつがわかるらしい。
運ばれてきたコーヒーを見て、息を呑んだ。家で使っているものと、ティーカップとソーサー、マドラーまで同じなのだ。角砂糖をふたつ入れてスプーンでかき混ぜ、ひと口含むと、心地よい苦みと酸味が広がる。
「モーニングブレンドはその名のとおり、朝に相応しいブレンドという意味で、カフェインが多めなのが特徴です。浅煎りで軽い酸味と香りを好まれる方が多いです。当店のモーニングブレンドはブラジルとコロンビア、グアテマラ産の豆を使用しております」
「まだ午前中だから、カフェインが多めでも安心ね。お父さんはこういう、コクが控えめで爽やかなコーヒーが好きだったわ」
「そう言っていただけるとうれしいです。そしてこちらが、西迫美寿さんの思い出のおやつになります」
カウンターの奥から差し出されたのは、白いお皿に載ったショートケーキだった。
「まあ、これ……」
思わず両手で頬を覆ってしまう。
美保を身ごもり、夫婦で鎌倉に引っ越したばかりの頃は、お父さんの仕事が大変な時期だった。これから三人になるからがんばらなきゃね、と毎日元気で送り出していたけれど、内心でははじめての妊娠で不安なことも多く、日々大きくなっていくお腹を抱え、家に閉じこもりがちの生活はその不安をより大きくした。
当時はパワハラも長時間労働も、まったく問題にされなかった時代だ。お父さんは毎日、日付が変わる頃に疲れ切った顔で帰宅した。時には、会社に泊っていって、帰りが翌朝になることもあった。
「美寿が大変な時なのに、仕事ばかりでごめんね。こんなもの、埋め合わせになるかわからないけれど」
そう言って、開店直後のベーカリー兼パティスリーで買ってきてくれたのが、このいちごショートだった。
ものすごく美味しいとか、有名とか、味に特徴があるわけではない。昭和からずっと姿を変えていないような、三角形の当たり前のいちごショート。どちらかというと地味なケーキだ。
でもホットミルクを淹れてくれて、いちごショートを味わう私を見て、お父さんはにっこりと顔をほころばせるのだ。
「今はふんばらなきゃいけない時だけれど、子どもが生まれたら仕事だけじゃなく、家庭もちゃんと大事にする。約束するよ。だから今は、見守っていてくれないかな」
「ええ、もちろん」
そう言いながら、泣きそうになっていた。
この人は本当に私を愛して、大事にしてくれているのだと、何より感じさせてくれたいちごショート。
時を経て、私は再びそれを味わう。
小ぶりのいちごの、鼻から抜けていくような酸味。甘さ控えめの生クリーム。ふわふわとしたきめ細やかな生地は、赤ちゃんのほっぺたを食べているよう。おいしいのに、いやおいしいからこそ、涙が出てきてしまう。
「お父さん……どうして死んじゃうのよ……」
私のせいだ。
私がしっかりしていれば。
お父さんにがんが見つかったのは、定年間近に受けた健康診断のこと。要再検査の文字に背筋が凍り付いたけれど、お父さんは「心配ないって」と意に介していなかった。
しかし再検査の後、ご家族も一緒に来てくださいと言われ、そこで胃がんだと告げられた。スキルス胃がん、ステージⅣという言葉が脳を貫通して、心臓に突き刺さる。
お父さんよりも、私のほうが落ち込んでしまった。涙が止まらず、お医者さんにみっともなく泣いて縋ってしまった。どうか主人を助けてください、なんでもしますから、お願い、と。
「静かに進行するがんだから、こうなってもどうかご自分を責めないでくださいって何度も言われたわ。でも予兆はあったの、食欲がないとか、好きだったコロッケを食べられなくなったとか……気づかなかったのは、妻である私の責任よ……」
泣きながら、船瀬さんにすべてをぶちまけていた。
お父さんはこんな時でも、まもなく命が尽きてしまう自分のことより、遺される私のほうを心配していた。本当にごめん、迷惑かけて。そんな言葉をかけられる度、逆に自分の不甲斐なさを思い知らされる。
最初の病院はあてにならないと、より高度な治療をしてくれる病院を探し回ったけれど、どこでも同じことを言われただけだった。
美保も美香も心配して、休みの度にこちらに来てくれて、あれこれ世話を焼いてくれたものの、ふたりが悲しそうな顔をするのを見るにつけ、私はこの子たちから父親を奪ってしまうのだ、という罪悪感に囚われてしまった。
「そんなこと思わなくていいっていうのはわかってる、でもどうしても、自分を責めてしまうの……私は、妻なのに何もできなかった。大好きな人なのに、病気に気づいてあげることも、寿命を延ばしてあげることも……一緒に逝ってあげることも、できなかった」
お父さんは最後まで気丈で、死に対する不安をほとんど口にしなかったけれど、内心では怖くて仕方なかっただろう。私に隠れて、死後の世界について書かれた本を読んでいたことも知っている。せめて、一緒に死んであげたかった。これだけ愛し愛された人なのだもの、それくらいしたかった。
だけど残酷なことに、運命はそれを許してくれない。お父さんに君も気をつけなきゃいけないよと尻を叩かれるようにして健康診断を受けたけれど、すべて正常範囲。はっきり言ってそんなの何の意味もない。
健康で長生きしたって、隣にお父さんがいてくれなきゃ、そこは地獄だ。
この仕事の常で、自分の会社で扱っている医療保険や生命保険をフル活用していたから、がんという大病に見舞われても自分たちの懐はあまり痛まず、お父さんを喪ったところで生活にはあまり困らない。
あと五年すれば年金も受給できるし、贅沢せず、慎ましく生きれば惨めに死ぬようなことにはならないだろう。
とはいえ、孤独はお金で埋めようもなく、こうしてちょっとお出かけしたくらいでは気が晴れないので、鶴岡八幡宮を出た後、鎌倉の街をぶらぶらと散歩することになる。
鎌倉らしいお土産屋、小洒落た飲食店。そこかしこにうっすらピンクに化粧したソメイヨシノの枝が張り出している。道行く人たちは冬の重たい黒やグレーのコートを脱ぎ捨て、あでやかな春の装いをしていた。幸せそうに笑いさざめき合う老夫婦とすれ違って、胸が詰まる。
あの人たちは見たところ、七十は超えていそうだ。いくらお父さんが五歳年上とは言っても、あと十年、いや二十年くらいは、私たちにもあんな幸せな時間があってもよかったのに。
「にゃあ」
猫の声を聞いたのは、そんな時だった。
歩道の片隅、目の前五メートルくらいのところに、つやつやした毛並みの黒猫がちょこんと座って、こっちを見ている。
「クロ! クロじゃないの!」
思わずそう言って、駆け寄っていた。
クロは美保が小学生になったばかりの頃、学校の帰りに見つけて、連れてきた猫だった。まだ生後一か月も経っていなさそうな、ほんの赤ちゃん猫。親やきょうだいとはぐれたのだろう、ぶるぶる震えていて、最初は毛並みも悪くて、とても危険な状態に見えた。
「この子、ほっといたら死んじゃう! お母さんお願い、助けてあげて!!」
幼稚園から帰ってきた美香も加勢して、手のひらの中でぶるぶる震えている子猫を見たらとてもほうっておけず、動物病院に連れて行った。会社から帰ってきたお父さんに、美保と美香はかわるがわる猫を飼いたいと訴えた。
「ペットを飼うっていうのは、命に責任を持つってことだ。美保も美香もまだ小さいけれど、自分はこの子のお母さんだと思って接してほしい。それができるなら、飼ってもいいよ」
美保と美香はありがとうお父さん、と声を揃えて言った。
といっても、どうせ子どものことだし、ふたりともすぐに飽きるだろう……と思っていたのに、ふたりは立派な猫のお母さんになった。
クロと名付けたその猫が、トイレをすれば競うように後始末をするし、お小遣いで首輪を買ってきたり、クロのためにベッドを手作りしてあげたりと、なかなかに甲斐甲斐しい。
最初はどうなることかと思っていた私でさえ、気が付けばすっかりクロに夢中になっていた。
朝、三人を送り出して、ちょっとがらんとして寂しい家の中、繕いものをしているとクロが寄ってきて、ぴたりと身体をくっつけて丸くなる。そんなクロが、どれだけ愛しかったか。
「あんた、どこの子? うちのクロにそっくりなんだけれど」
近づいてもクロに似ているその猫は逃げず、手を差し出すと自分から顔をこすりつけてくる。この人懐っこさはとても野良猫には見えない。黒猫は幸運を呼ぶ猫と言われるらしいから、どこかのお店で商売繁盛を願って、飼われているのだろうか。
黒猫が歩き出し、振り返ってにゃあ、と鳴いた。ついて来て、と言っているように。その鳴き声のトーンや顔つきまで、やっぱりクロに見えてしまう。
猫を飼ったことがない人は、猫なんてどれも一緒でしょ、見分けがつくわけないと思いそうだけど、ぜんぜん違うのだ。一匹一匹、顔つきも体つきも鳴き声も異なる。十五年も一緒にいたクロのことを、他の猫と見間違えるわけない。
とはいえ、今目の前でとことこと私を導き、歩いているのがクロなわけないのだ。
黒猫は自分の身体と同じ、真っ黒な一軒家の前で足を止めた。遠くから見た時はちょっとモダンな外観のおうちだな、としか思わなかったけれど、近くで見ると『クロスオーバ―』と看板がかかっていて、飲食店なのだとわかる。
手書きのボードに『本日のコーヒー モーニングブレンド』と書いてある。黒猫がもう一度にゃあ、と言って歩き出した。
「たまにはいいわよね、ちょっとぐらい贅沢しても」
ふたりの娘が嫁に行って、夫婦ふたりの時間が増えた頃。お父さんがコーヒーメーカーを買ってきて、休日はふたりで一緒にコーヒーやお菓子を頼むのが習慣になった。でも最近飲み物といえば緑茶ばかりで、コーヒーなんて久しく飲んでいない。
しめ縄が張られた引き戸を開けると、モダンな造りの店内が現れる。壁に設えられた大時計、明治時代からありそうなアンティークの電話。照明の形もおしゃれで、カウンターの上には桃の花が飾られていた。甘い香りがふわりと店内に漂っている。
「いらっしゃいませ、そちらにお掛けください」
カウンターの向こうから顔を出した店主を見て、あれっと思った。
見たところ、ごくふつうの青年だ。顔は端正だし背が高くてスタイルが良いし、美保や美香が見たらきゃーっと歓声を上げるところだろう。でもこの人には、はっきりとした違和感が付き纏っている。
「あら、イケメンね。あなたがマスターなの?」
違和感を悟られないよう、口角を上げて言った。
「はい。ここの店主で、船瀬守生と言います」
「船瀬さんね。この猫、こちらで飼われているのかしら? とっても人懐っこくてかわいいわ」
店内に入るといよいよ足に纏わりついてきて離れない黒猫を抱きかかえて言うと、船瀬さんがにっこりと目を細めた。
「はい。彼はうちの看板猫で、ハデスと言います。今は」
「今は?」
「このお店にメニューはございません。本日のコーヒーと、お客様の思い出のおやつを堪能していただいております」
質問に答えないところがますます怪しいなと思いつつ、席につく。思い出のおやつ、というのがすごく引っかかった。
船瀬さんにはどうやら、私の思い出のおやつがわかるらしい。
運ばれてきたコーヒーを見て、息を呑んだ。家で使っているものと、ティーカップとソーサー、マドラーまで同じなのだ。角砂糖をふたつ入れてスプーンでかき混ぜ、ひと口含むと、心地よい苦みと酸味が広がる。
「モーニングブレンドはその名のとおり、朝に相応しいブレンドという意味で、カフェインが多めなのが特徴です。浅煎りで軽い酸味と香りを好まれる方が多いです。当店のモーニングブレンドはブラジルとコロンビア、グアテマラ産の豆を使用しております」
「まだ午前中だから、カフェインが多めでも安心ね。お父さんはこういう、コクが控えめで爽やかなコーヒーが好きだったわ」
「そう言っていただけるとうれしいです。そしてこちらが、西迫美寿さんの思い出のおやつになります」
カウンターの奥から差し出されたのは、白いお皿に載ったショートケーキだった。
「まあ、これ……」
思わず両手で頬を覆ってしまう。
美保を身ごもり、夫婦で鎌倉に引っ越したばかりの頃は、お父さんの仕事が大変な時期だった。これから三人になるからがんばらなきゃね、と毎日元気で送り出していたけれど、内心でははじめての妊娠で不安なことも多く、日々大きくなっていくお腹を抱え、家に閉じこもりがちの生活はその不安をより大きくした。
当時はパワハラも長時間労働も、まったく問題にされなかった時代だ。お父さんは毎日、日付が変わる頃に疲れ切った顔で帰宅した。時には、会社に泊っていって、帰りが翌朝になることもあった。
「美寿が大変な時なのに、仕事ばかりでごめんね。こんなもの、埋め合わせになるかわからないけれど」
そう言って、開店直後のベーカリー兼パティスリーで買ってきてくれたのが、このいちごショートだった。
ものすごく美味しいとか、有名とか、味に特徴があるわけではない。昭和からずっと姿を変えていないような、三角形の当たり前のいちごショート。どちらかというと地味なケーキだ。
でもホットミルクを淹れてくれて、いちごショートを味わう私を見て、お父さんはにっこりと顔をほころばせるのだ。
「今はふんばらなきゃいけない時だけれど、子どもが生まれたら仕事だけじゃなく、家庭もちゃんと大事にする。約束するよ。だから今は、見守っていてくれないかな」
「ええ、もちろん」
そう言いながら、泣きそうになっていた。
この人は本当に私を愛して、大事にしてくれているのだと、何より感じさせてくれたいちごショート。
時を経て、私は再びそれを味わう。
小ぶりのいちごの、鼻から抜けていくような酸味。甘さ控えめの生クリーム。ふわふわとしたきめ細やかな生地は、赤ちゃんのほっぺたを食べているよう。おいしいのに、いやおいしいからこそ、涙が出てきてしまう。
「お父さん……どうして死んじゃうのよ……」
私のせいだ。
私がしっかりしていれば。
お父さんにがんが見つかったのは、定年間近に受けた健康診断のこと。要再検査の文字に背筋が凍り付いたけれど、お父さんは「心配ないって」と意に介していなかった。
しかし再検査の後、ご家族も一緒に来てくださいと言われ、そこで胃がんだと告げられた。スキルス胃がん、ステージⅣという言葉が脳を貫通して、心臓に突き刺さる。
お父さんよりも、私のほうが落ち込んでしまった。涙が止まらず、お医者さんにみっともなく泣いて縋ってしまった。どうか主人を助けてください、なんでもしますから、お願い、と。
「静かに進行するがんだから、こうなってもどうかご自分を責めないでくださいって何度も言われたわ。でも予兆はあったの、食欲がないとか、好きだったコロッケを食べられなくなったとか……気づかなかったのは、妻である私の責任よ……」
泣きながら、船瀬さんにすべてをぶちまけていた。
お父さんはこんな時でも、まもなく命が尽きてしまう自分のことより、遺される私のほうを心配していた。本当にごめん、迷惑かけて。そんな言葉をかけられる度、逆に自分の不甲斐なさを思い知らされる。
最初の病院はあてにならないと、より高度な治療をしてくれる病院を探し回ったけれど、どこでも同じことを言われただけだった。
美保も美香も心配して、休みの度にこちらに来てくれて、あれこれ世話を焼いてくれたものの、ふたりが悲しそうな顔をするのを見るにつけ、私はこの子たちから父親を奪ってしまうのだ、という罪悪感に囚われてしまった。
「そんなこと思わなくていいっていうのはわかってる、でもどうしても、自分を責めてしまうの……私は、妻なのに何もできなかった。大好きな人なのに、病気に気づいてあげることも、寿命を延ばしてあげることも……一緒に逝ってあげることも、できなかった」
お父さんは最後まで気丈で、死に対する不安をほとんど口にしなかったけれど、内心では怖くて仕方なかっただろう。私に隠れて、死後の世界について書かれた本を読んでいたことも知っている。せめて、一緒に死んであげたかった。これだけ愛し愛された人なのだもの、それくらいしたかった。
だけど残酷なことに、運命はそれを許してくれない。お父さんに君も気をつけなきゃいけないよと尻を叩かれるようにして健康診断を受けたけれど、すべて正常範囲。はっきり言ってそんなの何の意味もない。
健康で長生きしたって、隣にお父さんがいてくれなきゃ、そこは地獄だ。
20
あなたにおすすめの小説
(学園 + アイドル ÷ 未成年)× オッサン ≠ いちゃらぶ生活
まみ夜
キャラ文芸
年の差ラブコメ X 学園モノ X オッサン頭脳
様々な分野の専門家、様々な年齢を集め、それぞれ一芸をもっている学生が講師も務めて教え合う教育特区の学園へ出向した五十歳オッサンが、十七歳現役アイドルと同級生に。
子役出身の女優、芸能事務所社長、元セクシー女優なども登場し、学園の日常はハーレム展開?
第二巻は、ホラー風味です。
【ご注意ください】
※物語のキーワードとして、摂食障害が出てきます
※ヒロインの少女には、ストーカー気質があります
※主人公はいい年してるくせに、ぐちぐち悩みます
第二巻「夏は、夜」の改定版が完結いたしました。
この後、第三巻へ続くかはわかりませんが、万が一開始したときのために、「お気に入り」登録すると忘れたころに始まって、通知が意外とウザいと思われます。
表紙イラストはAI作成です。
(セミロング女性アイドルが彼氏の腕を抱く 茶色ブレザー制服 アニメ)
題名が「(同級生+アイドル÷未成年)×オッサン≠いちゃらぶ」から変更されております
極甘独占欲持ち王子様は、優しくて甘すぎて。
猫菜こん
児童書・童話
私は人より目立たずに、ひっそりと生きていたい。
だから大きな伊達眼鏡で、毎日を静かに過ごしていたのに――……。
「それじゃあこの子は、俺がもらうよ。」
優しく引き寄せられ、“王子様”の腕の中に閉じ込められ。
……これは一体どういう状況なんですか!?
静かな場所が好きで大人しめな地味子ちゃん
できるだけ目立たないように過ごしたい
湖宮結衣(こみやゆい)
×
文武両道な学園の王子様
実は、好きな子を誰よりも独り占めしたがり……?
氷堂秦斗(ひょうどうかなと)
最初は【仮】のはずだった。
「結衣さん……って呼んでもいい?
だから、俺のことも名前で呼んでほしいな。」
「さっきので嫉妬したから、ちょっとだけ抱きしめられてて。」
「俺は前から結衣さんのことが好きだったし、
今もどうしようもないくらい好きなんだ。」
……でもいつの間にか、どうしようもないくらい溺れていた。
診察室の午後<菜の花の丘編>その1
スピカナ
恋愛
神的イケメン医師・北原春樹と、病弱で天才的なアーティストである妻・莉子。
そして二人を愛してしまったイケメン御曹司・浅田夏輝。
「菜の花クリニック」と「サテライトセンター」を舞台に、三人の愛と日常が描かれます。
時に泣けて、時に笑える――溺愛とBL要素を含む、ほのぼの愛の物語。
多くのスタッフの人生がここで楽しく花開いていきます。
この小説は「医師の兄が溺愛する病弱な義妹を毎日診察する甘~い愛の物語」の1000話以降の続編です。
※医学描写と他もすべて架空です。
物置部屋に追いやられた伯爵令嬢ですが、公爵様に見初められて人生逆転しました〜妹の引き立て役だったのに、今では社交界の花と呼ばれています〜
丸顔ちゃん。
恋愛
伯爵家の令嬢セレナは、実母の死後、継母と義妹に虐げられて育った。
与えられた部屋は使用人以下の物置、食事は残飯、服はボロ。
専属侍女も与えられず、家の運営や帳簿管理まで押し付けられ、
失敗すれば鞭打ち――それが彼女の日常だった。
そんなある日、世間体のためだけに同行させられた夜会で、
セレナは公爵家の跡取りレオンと出会う。
「あなたの瞳は、こんな場所に閉じ込めていいものではない」
彼はセレナの知性と静かな強さに一瞬で心を奪われ、
彼女の境遇を知ると激怒し、家族の前で堂々と求婚する。
嫁ぎ先の公爵家で、セレナは初めて“人として扱われ”、
広い部屋、美味しい食事、優しい侍女たちに囲まれ、
独学で身につけた知識を活かして家の運営でも大活躍。
栄養と愛情を取り戻したセレナは、
誰もが振り返るほどの美しさを開花させ、
社交界で注目される存在となる。
一方、セレナを失った伯爵家は、
彼女の能力なしでは立ち行かず、
ゆっくりと没落していくのだった――。
虐げられた令嬢が、公爵の愛と自分の才能で幸せを掴む逆転物語。
竜華族の愛に囚われて
澤谷弥(さわたに わたる)
キャラ文芸
近代化が進む中、竜華族が竜結界を築き魑魅魍魎から守る世界。
五芒星の中心に朝廷を据え、木竜、火竜、土竜、金竜、水竜という五柱が結界を維持し続けている。
これらの竜を世話する役割を担う一族が竜華族である。
赤沼泉美は、異能を持たない竜華族であるため、赤沼伯爵家で虐げられ、女中以下の生活を送っていた。
新月の夜、異能の暴走で苦しむ姉、百合を助けるため、母、雅代の命令で月光草を求めて竜尾山に入ったが、魔魅に襲われ絶体絶命。しかし、火宮公爵子息の臣哉に救われた。
そんな泉美が気になる臣哉は、彼女の出自について調べ始めるのだが――。
※某サイトの短編コン用に書いたやつ。
書籍化の打診が来ています -出版までの遠い道のり-
ダイスケ
エッセイ・ノンフィクション
ある日、私は「書籍化の打診」というメールを運営から受け取りました。
しかしそれは、書籍化へと続く遠い道のりの一歩目に過ぎなかったのです・・・。
※注:だいたいフィクションです、お察しください。
このエッセイは、拙作「異世界コンサル株式会社(7月12日に電子書籍も同時発売)」の書籍化の際に私が聞いた、経験した、知ったことの諸々を整理するために書き始めたものです。
最初は活動報告に書いていたのですが「エッセイに投稿したほうが良い」とのご意見をいただいて投稿することにしました。
上記のような経緯ですので文章は短いかもしれませんが、頻度高く更新していきますのでよろしくおねがいします。
後宮の偽花妃 国を追われた巫女見習いは宦官になる
gari@七柚カリン
キャラ文芸
旧題:国を追われた巫女見習いは、隣国の後宮で二重に花開く
☆4月上旬に書籍発売です。たくさんの応援をありがとうございました!☆ 植物を慈しむ巫女見習いの凛月には、二つの秘密がある。それは、『植物の心がわかること』『見目が変化すること』。
そんな凛月は、次期巫女を侮辱した罪を着せられ国外追放されてしまう。
心機一転、紹介状を手に向かったのは隣国の都。そこで偶然知り合ったのは、高官の峰風だった。
峰風の取次ぎで紹介先の人物との対面を果たすが、提案されたのは後宮内での二つの仕事。ある時は引きこもり後宮妃(欣怡)として巫女の務めを果たし、またある時は、少年宦官(子墨)として庭園管理の仕事をする、忙しくも楽しい二重生活が始まった。
仕事中に秘密の能力を活かし活躍したことで、子墨は女嫌いの峰風の助手に抜擢される。女であること・巫女であることを隠しつつ助手の仕事に邁進するが、これがきっかけとなり、宮廷内の様々な騒動に巻き込まれていく。
あやかし警察おとり捜査課
紫音みけ🐾書籍2冊発売中!
キャラ文芸
※第7回キャラ文芸大賞にて奨励賞を受賞しました。応援してくださった皆様、ありがとうございました。
【あらすじ】
二十三歳にして童顔・低身長で小中学生に見間違われる青年・栗丘みつきは、出世の見込みのない落ちこぼれ警察官。
しかしその小さな身に秘められた身体能力と、この世ならざるもの(=あやかし)を認知する霊視能力を買われた彼は、あやかし退治を主とする部署・特例災害対策室に任命され、あやかしを誘き寄せるための囮捜査に挑む。
反りが合わない年下エリートの相棒と、狐面を被った怪しい上司と共に繰り広げる退魔ファンタジー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる