赤十字(戦死者達の記録)

具流 覺

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29頁 残された写真

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 早朝、また兵隊(患者)サンが亡くなりました。
この兵隊(患者)サンは昨夜、私が巡回した時、天井の一点を見詰めて涙を流していた方です。
今迄に診た兵隊(患者)サンのほとんどが、亡くなる前に同じ様な症状に成るのです。
毛布の名札には『小松和弘(コマツカズヒロ) 上等兵』と書いて有りました。
この兵隊(患者)サンも病名は「マラリア」と記憶して居ります。
病院の中の実態は戦傷者が三割、熱帯病患者が七割。
戦傷者よりもはるかに「熱帯病患者」の方が多いのです。
マラリア、デング熱、アメーバ赤痢、腸チフス、栄養失調。そして戦傷者。
病院内は想像を絶する『不衛生の極み』でした。
先の伝染病で数多くの兵隊(患者)サンが亡くなり、現在の患者総数は「二百八十三名」にまで減ってしまいました。
ところが伝染病で生き残った兵隊(患者)サン達は、どう云う訳か元気なのですのです。

 松本、伊藤の二人の衛生兵が、小松サンのご遺体を担架に載せ裏庭の火葬場に運んで行きました。
私は、主(アルジ)の居なくなった莚(ムシロ)の上を見ました。
すると、『一枚の写真』が落ちていました。
小松サンを運ぶ時に落ちたのでしょう。
私はその写真を手に取りました。
写真は出征の時に写したのでしょうか、家族三人が写っていました。
小松サンは軍服を着て堂々と。
和服の奥様は赤ちゃんをお包(クル)みに入れて大切に抱いています。
奥様の写真の上には「佳子」、そして抱かれた赤ちゃんの写真の上に「和佳」と達筆な文字で書かれて有りました。
写真の裏には、
 「小松和弘・三二歳(吉日)」
その隣に住所が書いて有ります。
そして、写した「日付と時間」。
 『命の次に大切な写真』
だったのでしょう。
しかし、もはや小松和弘サンはこの世には存在して居ないのです。
もしアナタがこの写真を見たらどう思う事でしょう。
この写真を見て何も感じない人は居ない筈です。
私は亡くなった小松サンを運んで行った衛生兵を呼んで、

 「この写真も小松サンと一緒に焼いて下さい」

と言おうと思いました。
でも、・・・躊躇しました。
この写真を焼いてしまうと云う事は、「小松和弘」と云う兵隊サンが此処で生きて居たと云う『証拠』を完全に消し去ってしまう事に成るのではないでしょうか。
小松と云う兵隊サンは多分、私に「この写真」を託して行ったのでしょう。
私は、この写真を小松サンの残された家族に届ける「責任」が有る様な気がしました。
それとも、この写真は小松と云う兵隊サンの、『戦争の不条理』に対する最後の「抵抗」の証(アカシ)だったのかも知れません。

 この
 『一枚の写真』。
これは小松和弘と云う痩せ細って亡くなった兵隊サンの身体よりも重い様な気がしてならないのです。
私は白衣(ビャクイ)のポケットの中に写真をそっと忍ばせました。
そして、ポケットの上からその写真を優しく叩きました。

 「小松サン、確かにお預かりしました。迷わず平和な世界に逝って下さい」

 小松和弘 陸軍上等兵
 (昭和十九年東部ニューギニアにて戦死)
                つづく
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