赤十字(戦死者達の記録)

具流 覺

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51頁 十字架に赤十字の旗

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 マダンの十人の残留兵の中に一人、頑強そうな兵隊サンが居(オ)りました。

名前を『稲葉馬吉(イナバウマキチ)軍曹』と云う方でした。
私はこの兵隊サンが何故残留兵になってしまったのか分かりませんでした。
マダンの兵隊サンに聞くと、稲葉サンは散開した部隊長『角田裕信(カドタユウシン) 大佐』を「部隊の相撲大会」で投げ飛ばしてしまったそうです。それ以来、角田部隊長にひどく嫌われていたそうです。
この稲葉サンは実は柔道三段の腕前だそうです。
また、それで終わりではなく、稲葉サンはある日、徳丸准尉が部隊長にイジメられていた時、仲裁に入って、その時も角田部隊長を投げ飛ばしてしまったと言うのです。
それ以来、角田部隊長の威厳は完全に失墜し他の兵隊サン達も、部隊長から離れていったそうです。
角田部隊長は、これでは部落の指揮にも影響すると感じ、他の兵隊サン達にやたら権力を誇示、当たり散らしていたそうです。
そんなある日、土民(原住民)から「マダンに敵が攻めて来る」と言う噂を聞き、角田部隊長の気に入らない兵隊サン達を残し、自分達は真っ先に山の中へ、トンズラ(退散・逃げる)したそうです。
それ以来、稲葉軍曹は徳丸部隊長代理の片腕として張り切って居ると言うのです。
稲葉サンはとても優しい方で、土民にも受けが良く、片言の日本語を教えたり大人や子供に柔道の組手を教えたりしていたそうです。

 マダンの町には小さなカトリックの教会が在りました。
その教会の神父サンは三カ国語が話せるらしく、日本の兵隊サンにも連合軍の兵隊サンにも分け隔(ヘダ)てなくお付き合いし、教会の門は広く開けていたそうです。

稲葉サンはその教会で集まった土民に日本語を教えているそうです。土民のご婦人達は稲葉サンの人柄にとても好意を持ち、マダンの部隊に「産物」の差し入れや、掃除・洗濯の手伝いに来てくれる様になったそうです。
残留兵達も、大きな身体のご婦人達と洗濯を干したり、花壇や小さな野菜畑を作ったりと何となく合点が行かない奇妙な兵隊生活をしていました。

 残留兵の中には元大工や左官、自動車の修理工、履き物屋、紳士服の仕立て屋、電気屋等と色々「手に職を持つ」者も居て、時々教会に赴き神父の指示で壊れた窓を修繕したり、椅子を作ったり教会の机や棚を作ったりと結構、忙しい毎日でした。

 金田サンは神父と仲良しに成り、「連合軍の動向」を探っていました。するとその話の中で連合軍の上級将校が「マダンには攻めて来ない」と言ったそうです。
私達医療関係者、ラエの兵隊(患者)サン達は非常に安堵していました。

 その日も、金田サンの情報分析を部隊長室で幹部?(徳丸部隊長代理・金田サン・緒方軍医長)が揃って朝の作戦会議を開いていました。
すると土民のご婦人達が頭の上や身体の前後に荷物を携(タズサ)えて、部隊長室にドカドカと入ってきたそうです。徳丸部隊長代理は突然の婦人達の訪問に何事かと思い戸惑ったそうです。
すると、荷物の紐を解きバナナやココナッツ、イモ、豚肉、奇妙な野菜、等を机の上に並べ始め、周りのご婦人方は奇妙な「踊り」を始めたそうです。徳丸部隊長代理は驚いて、「お祭り」かと思ったそうです。
すると、ご婦人達の代表がドクターに子供の傷を治してもらった『お礼の踊りだ』だと言ったそうです。
そう言えば先日、稲葉サンを通じて、

 「部落の子供が母親に背負われて教会に来ている。何とかして欲しい」

との依頼が有り崔軍医と河村看護兵が急いで教会に出向いて行ったそうです。
子供は木から落ちて、腕を骨折していたそうです。
崔軍医は腕にアテ木をして包帯を巻き、絶対に動かさず五日毎に此処に(教会)に来て私に診せなさいと母親に固く約束させたそうです。
子供の骨折は治り、コレはそのお礼だと云う事でした。
それが講じて、
 『マダンの教会にはドクターが居る』
と村中で評判になり、ドクターにお礼を言いに来たそうです。

 翌日、教会の神父が部隊を訪れ、教会の屋根に赤十字の旗を掲げさせてくれないかと相談を持ちかけて来ました。
緒方軍医長は大賛成して、早速全員で旗を掲げに行きました。
 私は教会の屋根の十字架に、赤十字の旗が棚(タナ)びく景色は、素晴らしい眺めだと感動しました。
                つづく
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