離した手の温もり

橘 凛子

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始動

ep.33

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『戻りました』
「おかえりー。ご飯食べれた?」
『あ、はい。さっきはありがとうございます』

オフィスに戻ると相澤さんがデスクについていた。

手鏡を手に化粧直しに余念がない。

あと五分ほどで休憩時間は終わる。

私も化粧直しをしたいところだが、今のこの時間の女子トイレは激混みだ。

口紅だけ塗り直そう。

相澤さんに倣って私も手鏡を手に口紅だけ塗り直した。

「困ってそうだったから声かけたけど、平気だった?」
『はい。助かりました』
「あの人、白河さんだよね?」
『同期なんです。ご存知なんですか?』
「ちょっと話したことあるかな。馴れ馴れしくて私の苦手なタイプだけど」
『私もです』
「でもあの人、女子には人気らしいよ。噂してるの聞いたことがあるし」
『へぇ…』

その気持ちは私にはわからない。

あの馴れ馴れしさがいいのだろうか。

人によってはそれがフレンドリーでいい、と思う人もいるのかもしれない。

話しているといつの間にか昼の就業時間は始まっていた。

如月さんは会議に出ているのだろう。

離席していた。

私達もパソコンと向き合って仕事を開始する。

時折、蒼ちゃんの言葉が脳裏によぎった。

彼のことだ。

私が来るまで待っていることだろう。

行くべきなのだろうか。

未だ決めかねている。


—————
—————

「あれ、帰らないの?」
『あ…
もうちょっとやってから帰ります。お先どうぞ』

時刻は十八時。

窓の外の空の色が闇に包まれた頃。

私がパソコンのキーボードをカタカタ鳴らしていると、隣のデスクで相澤さんが帰り支度をしていた。

「まだ週始めなんだからそんな根詰めなくても…」
『大丈夫ですよ。キリのいいところで帰ります』
「ならいいけど…
先上がるね。お疲れ様」
『お疲れ様です』

相澤さんはカツカツ、とヒールの音を鳴らして帰っていった。

他の社員達も何人かは帰宅していく姿が見える。

当然、如月さんは残業組。

私も目処がついたら切り上げよう。

止めていた手を再び動かし、また私はキーボードをカタカタ鳴らし始めた。

「——原田」
『……!
あ…如月さん…』

目の前のパソコン業務に熱中しすぎて意識が全てそちらに向いていた。

如月さんの声で私は我にかえる。

時計を見ると十九時を過ぎていた。

「根詰めすぎだ。そろそろ帰れ」
『あ……はい。
如月さんは帰らないんですか?』
「ああ。もうちょっとやってから帰る」
『手伝いましょうか?』
「いいから帰って休め」
『……はい。
お疲れ様です』
「お疲れ」

如月さんは少し強めの声色で私に帰るように言い放った。

言葉だけ聞けば、怒られているように感じるかもしれない。

だが、そうではない。

彼は早く私を帰らせたいだけだ。

残業させないために。

『………』

帰り支度をしながら私は周囲を見渡す。

オフィスに人はあまり残っていない。

千葉さんすら帰宅している。

仕事に集中していて全く気がつかなかった。

私は如月さんと数人の社員を残してオフィスを出る。

そしていつもの見慣れた帰路を辿ろうとした。

丁度、本社ビルを出た頃だろうか。

私は蒼ちゃんの存在を思い出した。

時刻は十九時半。

約束の時間は当に過ぎている。

彼はあのカフェで待っているのだろうか。

無意識に自宅マンションとは真逆の方角に足先が向いている。

見に行くだけ行ってみよう。

いなかったらそれでいい。

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