離した手の温もり

橘 凛子

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始動

ep.35

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『可愛い子だね』
「ん?」
『さっきのちっちゃい子』
「ああ…古川か。ちっこいよな」
『なんか小動物みたいで可愛い』
「美愛の方が可愛いよ」
『……!』

蒼ちゃんは目尻を下げてサラリ、と言う。

まるでなんでもない事のように。

言われ慣れないその単語に私は自分の頬に熱が集まるのを感じた。

『そ…蒼ちゃん…!』
「照れてる」

蒼ちゃんは腰を折り曲げて私の顔を覗き込んだ。

ニヤニヤとした表情を浮かべて。

完全に揶揄っている。

この感じ懐かしいな。

今、この瞬間だけ三年前にタイムスリップしたみたいに錯覚する。

「行こうか」
『うん』

お店の小さな駐車場に一台停まっている白のレクサス。

蒼ちゃんの車だろう。

以前は車など所持してなかった。

生活に潤いが出てきたのだろうか。

でなければ二店舗目を営業し、都内では不用な車など所持するはずもない。

「戻ってきてから髪、切った?」
『え…
切ってないけど…?』
「今度、切らせてよ。仕事帰りでもいいからさ」

助手席に乗り込み、シートベルトを締める私の髪をひと束手で掬って蒼ちゃんは言った。

職業病なのだろう。

女性の髪に抵抗なく触れるのは。

辞めてほしい。

嫌でも意識してしまうではないか。

『仕事帰りって営業時間外じゃん』
「いいよ、美愛なら。俺が切るんだし」
『お店の人に迷惑でしょ』
「帰らせるよ」
『………』

逃げ道がない。

蒼ちゃんは今日っきりにしないための約束を取りつけようとしている。

見事に私の思惑を読まれていた。

そんなにわかりやすいだろうか。

単に理解力があるだけかもしれないが。

私が少し不貞腐れたようにしていると彼は車を発信させて、公道を出た。

帰宅ラッシュを過ぎて、道はさほど混雑していない。

「インナー消したんだね」
『え?
ああ…』

インナーとはインナーカラーのことだ。

店舗勤務の時は特に髪色の制限はなかったので内側の髪をブリーチして色を入れていた。

気分によって色んな色を入れられるので結構お気に入りだったりする。

本社勤務に決まったタイミングで私は髪色を一色に統一した。

派手髪が駄目という規定は無かったが、初っ端からそれは印象が良くない。

しばらくはこのままでいるつもりだ。

真っ黒な黒髪に。

「好きだったな、俺。
美愛のインナーカラー。綺麗で」
『そうなんだ』
「もうやんないの?」
『どうだろ。気分次第かな』
「その気になったら俺に言ってよ。やったげる」

しつこい。

ここまで来ると呆れる。

どうしても私の髪を弄りたいらしい。

普段仕事で弄りまくっているというのに。

『……その気になったらね』
「やった!」

蒼ちゃんはハンドルを握って運転をしながらも笑みを浮かべている。

女の子みたいな喜び方。

基本物腰が柔らかい彼はいつもこう。

ついつい気が抜けてしまう。

行きつけの店まで車で数十分、私達はお互いの近況報告など語り合った。

この居心地の良さ。

やっぱり駄目だ。

こうやって一緒にいる時間が長ければ長いほどもっと欲してしまう。

欲が溢れ出る。
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