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02.期限つきの契約結婚(後編)
しおりを挟む契約結婚の話は寝耳に水ではあったが、正直なところ、セリーヌにとってはメリットしかなかった。ロラン有責の離婚で、離婚後も公爵家への軍事的支援が継続されるのであれば、出戻っても公爵から殺されることはないだろう。
それどころか、莫大な慰謝料をセリーヌ個人に支払うというのだから、それを元手に心機一転、新天地で新しい人生を送ることもできるかもしれない。
セリーヌは将来に対する不安が一気に解消されたことと、寝室を一人で使う許可が出たことで、その晩、生まれて初めて心の底から安心して眠りについた。
翌日。清々しい気持ちで朝を迎えると、セリーヌは部屋にやってきた専属侍女のミシェルに頼んで、遅めの朝食を庭に用意させた。
もちろんそこにロランの姿はない。
その代わり——そこには罵声も暴力もない。ただ静かに、美しい食器に乗せられた見るだけで食欲をそそる朝食と、香り高い紅茶が並んでいる。
セリーヌが紅茶を一口飲んで恍惚のため息を漏らすと、近くに控えていたミシェルがびくりと肩を震わせる。
“我儘公爵令嬢”と名高い彼女が、何を言い出すか不安でたまらないのだ。
「この紅茶、とても美味しいわね」
「ご、ご満足いただけて何よりです、大公妃殿下……!」
「それに、急なお願いだったのに、テーブルセッティングも完璧だわ。ありがとうね」
セリーヌの言葉に、ミシェルは安堵とも困惑ともつかぬ表情を浮かべる。理不尽な叱責を受けるどころか、まさか生粋の公爵令嬢が使用人にお礼を言うだなんて、想像もしていなかったのだ。
そんなミシェルの心情など知る由もないセリーヌは、上機嫌で朝食を楽しんだ。
この屋敷に愛はないが、平穏も未来への希望もある。
それは彼女にとって、この上のない贅沢だった。
その後もセリーヌとロランが顔を合わせることはなく、セリーヌにとっては穏やかな日々が続いていた。
暴力も、命令も、干渉もない。
昼も夜もひたすら本を読み、朝は誰に咎められることもなく遅く起きる。それはまるで、本物のお姫様にでもなったかのような心地だった。
——だが、そんな平穏も長くは続かなかった。
ある朝、ミシェルが慌てた様子で寝室に駆け込んできた瞬間、セリーヌの平穏は終焉を迎えた。
「おはようございます、奥様! 申し訳ございませんが、急いで宮殿へ向かうご準備を!」
「……え?」
例に漏れず、昨夜も夜更かしをして読書に没頭していたセリーヌは、ベッドから半身を起こすと寝ぼけ眼で聞き返した。
「宮殿? どうして?」
「皇帝陛下から、結婚のお祝いのために“夫婦で”宮殿に来るよう、招待状が届いていたんです!」
「……夫婦で?」
もはや半分ロランの存在を忘れていたセリーヌの声が、少しだけうわずる。
しかし、ミシェルはそれに気づくことなく、嬉しそうに頷いた。
「はいっ! 新婚のお二人に会うのを、皇帝陛下ご夫妻も楽しみにされているとか!」
そこで、そういえば……とセリーヌは思い出した。
ロランと第二皇子は幼馴染であり、親友だ。早くに両親を亡くしたロランを、皇帝夫妻が実の息子のように可愛がっているというのは、帝国中の誰もが知るところである。
そのような関係性であれば、皇帝夫妻直々に結婚のお祝いを、と言い出してもなんの不思議もない。
当日の朝になるまで招待状を隠していたのが誰かは、嫌われ者の彼女には心当たりがありすぎて、逆に見当もつかなかったが——
「仕方ないわね……急いで支度をしましょう。手伝ってくれる?」
「もちろんです!」
普段身の回りのことは1人で済ませてしまうセリーヌだったが、流石に皇帝夫妻との謁見となると、侍女なしでの支度は不可能だ。
眉を下げたセリーヌからのお願いに、ミシェルはようやく頼ってもらえたと、キラキラと目を輝かせながら大きく頷いた。
手早く支度を済ませたセリーヌが玄関ホールへ降りると、ちょうどロランが外套を羽織り、馬車へと向かうところだった。
真っ直ぐに伸びた黒衣の背中は、手が届きそうでいて、どこまでも遠い。
「閣下!」
セリーヌが思わず声をかけると、ロランが振り返る。
赤い瞳がセリーヌを見てわずかに揺れたが、すぐに冷たさを取り戻して背を向けてしまった。
「……貴女は来なくて結構」
それだけ言い捨てると、ロランは驚きに目を見開くセリーヌを振り返ることなく、扉の向こうへと消えていった。
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