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08.優しさの片鱗(後編)
しおりを挟む気づけば、セリーヌは随分懐かしい場所にいた。
薄暗く掃除の行き届いていない部屋に、雨漏りのする天井。
ここは、セリーヌが育った孤児院だ。
幼いセリーヌが、部屋の隅で薄汚れた毛布を握りしめて震えている。
常に空腹で、寒くて、職員の怒鳴り声と子どもの泣き声で満ちた世界。
だが、その中に一つだけ、温かい記憶があった。
——大丈夫よ、泣かないで。
大好きなステラ。
ステラは年上の少女で、いつも職員から他の子ども達を庇ってくれる、とても優しい人だった。
誰かの代わりに職員に叩かれても、笑って「平気よ」と言っていた。
その笑顔は、セリーヌの薄暗い世界に光をもたらしてくれた。
幼いセリーヌは、彼女の手を握りしめて尋ねたことがある。
「ステラは、女神様の使いなの?」
あの時、ステラは少し困ったように笑って、優しくセリーヌの髪を撫でてくれた。
「そんなことないよ。でも……そう見えたなら、うれしいな」
その微笑みが眩しくて、胸の奥がじんわりと温かくなった。
あのぬくもりを、今でもはっきりと覚えている。
けれど、その記憶はいつも同じところで途切れる。
ステラが孤児院を出ていった日。「必ず迎えにいくから」と言い残し、去っていったその背中を、セリーヌは泣きながら見送った。
——だが、珍しい髪色が災いし、人買いに売られたセリーヌが、ステラと再会することはなかった。
「……ステラ……」
懐かしい名を呼びながら、セリーヌはゆっくりと目を開けた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいる。
喉が渇き、頭と打たれた背中がズキズキと痛んだ。
けれど、昨夜のような倦怠感はもうない。
枕元には、ミシェルがいた。
そばに置かれた椅子に座ったまま、ベッドに身を預け、うたた寝をしている。
徹夜で看病してくれたのだろう。
「……ありがとうね、ミシェル」
頬にかかった髪をそっと避けてやると、ミシェルは眠ったまま、子どものような笑みを浮かべた。
その無防備な表情に、どこか満たされた気持ちになる。
静かに立ち上がり、カーテンを開けると淡い朝日が差し込み、昨夜の出来事が少しずつ蘇ってきた。
ロランが訪れたこと。
ドレスが変わっていることを指摘されたこと。
そして、医者を呼ぶように命じたこと。
「……どうして」
誰にも聞こえないように、小さく呟く。
ロランの心のうちが、まるで掴めない。
あの冷徹な仮面の奥に——ほんの一瞬だけ、別の何かが見えた気がしたのに。
ぼんやりと窓の外を眺めながら、ふと思う。
夢の中で見たステラの笑顔。優しく、温かく、包み込むような微笑み。
懐かしい記憶が蘇ったのは、きっとラリサの笑みと重なるからだと。
ラリサが微笑む時のあの穏やかな光。
人を疑わず、すべてを受け入れ、赦してくれるような優しさ。
彼女を見るたび、憧憬を抱きつつも、心のどこかがほんの少しだけ痛くなるのは、きっとそのせいだ。
ステラとは似ても似つかない顔立ちなのに。
それでも、あの慈悲深い笑みに、人生で最も幸せだったあの頃のぬくもりを思い出してしまう。
セリーヌは小さく息を吐き、瞼を閉じた。
窓の外では、朝の訪れを告げるように小鳥がさえずっている。
今日もまた、一日が始まる。
それが希望なのか、絶望なのかはまだ分からない。
ただ、無性に——ステラに会いたいと思った。
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