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10.地獄の淵で見せた微笑み(前編)
しおりを挟むエリックが見舞いに来てから、数日が経った。
それまでロランは、屋敷内でたまたますれ違ったセリーヌが挨拶をしても、一言も発さなかった。
視線を合わせることすらなく、すれ違うたびに、セリーヌはまるで自分が透明人間にでもなったような気分になっていた。
だが、あれ以来——
挨拶をすると、ほんの一瞬だけ、彼の瞳がこちらを向くようになった。
「……ああ」
返される言葉は、それだけ。
たったそれだけの言葉が、セリーヌの胸を温かくした。
セリーヌはロランのそんな変化に戸惑いながらも、同時に救われてもいた。
彼の言葉は少なく、依然として無表情だったが、冷たい拒絶でできた壁が、ほんの少しだけ緩んだ気がしたのだ。
大公邸での生活にも、ようやく慣れてきた。
セリーヌの私室にはミシェルによっていつも美しい花が飾られており、朝は怒声ではなく、柔らかな日差しで目覚める毎日。
ミシェル以外の使用人たちも、些細なことにも喜び、笑顔でお礼を言うセリーヌの令嬢らしからぬ人柄に触れていくうちに、すっかり好意的になっていた。
この屋敷では、息をひそめずに呼吸ができる。
それがどれほど贅沢なことか、セリーヌは身をもって知っていた。
——だが、そんな穏やかな時間の一方で、悪意のこもった噂はますます加熱していく。
ロランは夫婦同伴の舞踏会ですら一人で出席しており、結婚後、セリーヌが社交の場に出る機会はなかった。
一時は社交界の華とまで言われ、持て囃されていたセリーヌだ。それが本人不在とあっては、人々の噂の格好の的になってしまうのも、無理からぬことであった。
皇女ラリサの恋人であったと噂されていたロランに、妻であるセリーヌが同行しない理由を訊ねるものはいない。ただ、貴族たちは陰で、密かに憶測を重ねていった。
——あの結婚は公女が父親に頼み込んで、無理を通したものらしいわ。
——それなのに相手にされない当てつけで、夫の親友と関係を持つなんて……冷遇されて当然ね。
事実無根の噂ほど、さまざまな尾鰭をつけて、驚くほどの速さで広まる。
セリーヌにはそれを否定する機会も与えられないまま、噂だけが勝手に一人歩きしていった。
屋敷にいるセリーヌが噂を知っているのだ。ロランだって知らないはずがない。
それでも彼は何も言ってこなかった。
セリーヌの心中を慮ってなのか、それとも——ただの無関心故か。
部屋に飾られた肖像画をいくら見つめても、絵の中のロランは何も言ってくれない。
不特定多数の悪意が向けられる現状に焦りと不安、そして怒りを感じながらも、セリーヌはゆっくりと息をして呼吸を整えた。
(……今はこんなこと気にしている場合じゃないわ)
離婚後、自由を得るために今すべきことは、山ほどある。
遠くない未来にくるであろう、クロエ・フォークナーの仮面を脱ぎ捨てる時を、セリーヌは心の支えにしていた。
しかし、噂の炎が燃え広がるほどに、トムの怒りは激しくなった。
その日も、公爵邸の“躾部屋”の重たい扉の向こうで、怒声が響いていた。
「お前という奴は……どこまで俺の顔に泥を塗れば気が済むっ!」
セリーヌが言葉を発する間もなく、振り下ろされた火かき棒が背中を打つ。
真鍮製のそれが鈍い音を立て、身体がわずかに揺れた。
セリーヌが社交界デビューを果たしてからというもの、彼が“躾”を行う場所は、いつもドレスの下に隠れる部位だけだった。
見えるところには、決して傷を作らない。その徹底ぶりが、理性のようであり、狂気そのものでもあった。
「殿下とのこと、どう釈明するつもりだ? 我が家の恥を、これ以上晒す気か!」
「……殿下とは、本当に何も——」
「口答えをするな!」
再び打たれ、背中に衝撃が走る。皮膚の下で鈍い痛みが膨らみ、骨が軋んだ。
それでも、声を上げることはしない。声を出せば、余計に酷くなるだけだ。
(……痛みには、もう慣れた。ただ、じっとしていればいい)
そう思うことでしか、自分を保てなかった。
火かき棒が再び勢いよく振り下ろされ、息が止まる。
直接的な痛みは感じない。鈍い衝撃とともに、世界が遠のいていくから。
まるで高い天井から、無関係な他人を見下ろしているような気分になるのだ。
それは、幼い頃に身につけた、彼女なりの“自己防衛”だった。
痛みや恐怖を感じないように、心が勝手に身体と距離をとる。
今この瞬間も、まるで別の誰かが打たれているような気がしていた。
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