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10.地獄の淵で見せた微笑み(後編)
しおりを挟む大公邸へ戻る頃には、背中の奥が焼けるような熱を持っていた。
今までずっと傷跡が残らないよう加減されていたが、今日の傷は皮膚が裂けていて、跡が残るかもしれない。
その顔は、朝と変わらず美しく整ったままだったが、夜の闇に浮かぶ青白さに、疲労が隠しきれていなかった。
それでもセリーヌはミシェルに心配をかけぬよう、背筋を伸ばし、いつも通りに微笑みを浮かべる。
「……クロエ様、最近よく眠れていないのでは?」
「そうね、少し寒くなってきたからかも」
小さな嘘をつく。
ミシェルはそれを信じ、そっとハーブティーを差し出した。
一口飲むと、甘く優しい温もりがじんわりとセリーヌの心を温めてくれた。
だが顔色の悪さは治らず、ある朝、ついに偶然顔を合わせたロランにまで指摘された。
「体調が悪いのか」
「いえ、季節の変わり目だからでしょうか……少し、疲れやすいだけです」
セリーヌの言葉に、ロランは短く息をつき、視線を逸らす。
「……そうか」
その一言に、セリーヌの胸が締め付けられた。
今すぐ彼に縋りつき、この地獄から救い出してほしいと——そう懇願してしまいたくなる弱い自分を、セリーヌは奥歯を噛み締めて押し殺す。
目的を達成していない今、彼にこの惨状を知られるわけにはいかないのだから。
それから程なくして、公爵邸への呼び出しはさらに頻繁になった。
暴力は回数を重ねるごとに激しくなり、容赦を失っていく。
背中や太ももの皮膚は裂け、血が滲み、誤魔化しきれない痛みが、わずかに身じろぐ度に強く主張してくる。
それでもいつものようにうずくまり、じっと耐えているセリーヌに、トムは思いがけないことを口にした。
「レオンから聞いたぞ。大公と床を共にしていないらしいな」
「……」
「大公妃として最低限の務めも果たせぬとは。お前に魅力がないだけか、それとも——大公が不能なのか?」
自分より高い地位にいる年下のロランの澄ました顔を思い浮かべながら、トムは愉悦にひたる。
彼にとってはただの戯れにすぎないその一言。
だが、吐き捨てられたその嘲笑が、それまで無反応だったセリーヌの心に静かに燃え広がっていった。
勝手な憶測からでっちあげられた無責任な噂話が、今また一つ生まれるのを目撃した気がしたのだ。
これまで自分が向けられてきた理不尽な悪意の数々が脳裏に蘇り、胸の奥の熱が、痛みを凌駕していくのを確かに感じた。
ゆっくりと顔を上げたセリーヌは、青白い顔で薄く笑った。
「ふふっ、何を言うかと思ったら……こんな傷だらけの身体を、閣下に晒せと?」
嘲りを隠そうともしない笑みの奥に、確かな怒りがあった。
思わぬ反撃にトムの顔は引きつり、次の瞬間、怒りで目の前が真っ赤に染まった。
「この……生意気な女がっ!」
鈍い音とともに、セリーヌの頬に焼けるような痛みが走る。
握りしめられた拳で、頬を殴られたのだ。
華奢な身体が床に叩きつけられ、視界が揺らぐ。
倒れたセリーヌの口元からは、一筋の血が伝っていた。
——それは、初めて彼女の“顔”に刻まれた傷だった。
倒れたままのセリーヌは、血の味を感じながら、それでも笑った。
涙も声も出ないまま、口の端だけが震えている。
(……今夜、何かが変わる)
それが希望なのか、絶望なのかは、まだわからないけれども。
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