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12.奴隷の分際(後編)
しおりを挟む同じ頃。
公爵邸の前に、一台の馬車が止まった。
ひと目見たら忘れられないほど美しい漆黒のその馬車は、大公家が所有しているものだ。
夜の冷気の中、ロランは無言で馬車から降りると、足元の砂利を踏みしめた。
闇の中に浮かぶ邸宅は豪奢でありながら、どこかよそよそしく、そして不穏だった。
ここにくるまで、彼は最近のセリーヌの様子を何度も反芻していた。
彼女は、頻繁に実家に帰っていた。
父親に溺愛されているのは知っていたし、嫁ぎ先で夫に冷遇されている分、父親に甘やかされることで心の均衡を保っているのだと、最初はそう思っていた。
大公邸に戻ると、決まって体調を崩すのも、「ホームシックのようなもの」だと、深く考えないようにしていた。
——だが、それはおそらく間違っていた。
確信を持ったのは、公爵邸からの「しばらく公爵邸で療養する」という連絡だ。
あの律儀な彼女が、「長居はしないように」という当初の言いつけを破った謝罪もなしに、外泊するなどあり得ない。
「大公閣下……! こ、今宵は——」
突如あらわれた来訪者を、公爵邸の執事が慌てて出迎える。
ロランはそんな執事を見下ろしながら、冷静に告げた。
「私の妻が体調不良のため、しばらく帰らないと聞いたが、外泊の許可は出していない」
静かな声だったが、言葉の一つ一つに凍てつくような鋭さがあった。
執事が今にも倒れそうなほど真っ青になっていると、大きな螺旋階段から、騒を聞きつけたトムがゆっくりと降りてきた。
寝衣に上着を羽織り、貴族らしい笑みを浮かべている。
想定外の来客にも余裕を崩さないその姿が、かえってその不穏さを際立たせた。
「これはこれは、大公殿下。……こんな夜更けにどうなさいましたか?」
「妻の体調が思わしくないと聞いたので、会いに来た」
「わざわざ来てもらって申し訳ないが、娘はもう休んでいるのでね。見舞いなら後日にしていただけますか?」
淡々としたやりとり。
だが、互いに一歩も引かない。
冷えた空気の中で、見えない火花が散っていた。
「姿を確認したら、すぐに帰ろう」
「お気持ちは分かりますが、今宵はもう遅いですし——」
「今すぐ、だ」
静かな声。
その一言で、部屋の温度がさらに下がった。
トムの笑みがわずかに引き攣る。
返す言葉を探したそのとき——
「……なんの音だ?」
屋敷の奥から、何かが砕ける音が響いた。
続いて、激しい衝突音。
二人の視線が交錯する。
先に動いたのは、ロランだった。
赤い絨毯がひかれた階段を、迷いなく駆け上がる。
「お、お待ちください、大公閣下!」
トムが遅れてその後を追う。
廊下を走り抜け、奥の扉を開け放った二人の目に飛び込んだのは——
散乱する花瓶のカケラと、床に転がった血のついた燭台。
その中心には床に倒れたレオンと、その上に馬乗りになり、血にまみれた拳をレオンの顔に振り下ろすセリーヌの姿があった。
よく見ると、彼女の寝間着は裂け、左肩から背中へと破れた布の隙間から、無数の傷が覗いていた。
白い肌に刻まれた青黒い痣と鮮血がにじむ裂傷が、月光に浮かび上がる。
その背中を見た途端、ロランは頭を強く殴られたような衝撃を受けた。
セリーヌの血にまみれた拳は震えており、その瞳には、涙とも怒りともつかぬ光が宿っていた。
静まり返った部屋の中、セリーヌの荒い息づかいとレオンのうめき声、そして鈍い殴打音がやけに大きく聞こえる。
——その異様な光景に、駆けつけた二人は言葉を失ってしまった。
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