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17.崩れゆく均衡(後編)
しおりを挟む久しぶりに現れたセリーヌの姿を執務室の窓から見下ろしていたロランは、ミシェルの視線に気づくと、視線を再び机の上の書類に戻し、深く息を吐いた。
——彼女が宝石商を呼んだ。
その報告を執事から聞いた時、内心安堵したことを覚えている。
(ようやく……自分のものを買う気になったのか)
これまで、彼女は自分のために何かを欲しがることをしなかった。
それが気掛かりだったからこそ、安心したのだ。
だが。
セリーヌが部屋を出ていった後、差し出された小さな包みを開けて中身を見た瞬間、ロランの胸は強く締め付けられた。
——カフリンクス。
グレームーンストーンをあしらった、控えめながらも品の良い品物だ。
(……なぜだ)
彼女は、自分のためには何も欲しがらない。
それなのに、これを手に入れるためには、宝石商を呼んだ。
手に取ると、小さなはずのそれが、やけに重く感じられた。
彼女を苦しめた自分にはあまりにも不相応で、これを身につける資格があるとは、どうしても思えなかった。
昨日から机の上に置かれたままのカフリンクスに視線を落としていると、執務室のドアがノックされた。
「入れ」
「相変わらずの仏頂面だな、ロラン」
姿を現したのは、帽子を目深に被って変装をしたエリックだった。
扉が閉まるや否や、エリックは帽子を脱ぎ捨て、挑発的な笑みを浮かべた。
社交界で知られる“人格者の第二皇子”の姿は、そこにはない。
「なんの用だ」
眉を寄せて顔をしかめるロランをさらに揶揄おうとしたエリックだったが、机の上に置かれたままのカフリンクスに目を止めると、不思議そうに首をかしげた。
「それ、つけないのか?」
「……後でつける」
陽の光を優しく反射するグレームーンストーンは、ロランの色味を抑えた装いによく馴染むだろう。
エリックは、きっちりとした着こなしを好むロランが、なぜわざわざシャツの袖口を留めずにいるのか疑問を抱いた。
しかし、淡い灰色の石が光るのを見ているうちに、昔馴染みがこれを眺めて誰のことを考えていたのか、察しがついてしまった。
この男は、昔から大事なものほど隠そうとする男だったと、エリックの口の端に笑みが浮かぶ。
「クロエ嬢が以前、俺に言ってるのを聞いてただろう。“自分は決して夫を裏切らない”って」
「……」
「あの時は彼女の片思いだと思っていたが、あながち一方通行でもなさそうだ」
エリックの言葉に、ロランは何も言い返すことができなかった。
彼女の名誉のために否定すべきだと分かっているのに、口が動かない。
昨日、この場所で初めて見た彼女の涙。
自分がどれほど冷遇しようとも、家族に暴力を振るわれ体調を崩そうとも、決して泣くことのなかった彼女が、静かに涙を流す姿が脳裏をよぎり、胸の奥に鋭い痛みが走った。
「……そんなことより要件はなんだ。俺はお前と違って暇じゃないんだぞ」
「冷たいな。——忠告だよ」
表情を引き締め、声を落としたエリックが重々しく告げた。
「あいつが、大公家の使用人を買収したらしい。油断するなよ」
エリックの言葉に、ロランは一瞬だけ、瞬きを忘れた。
しかし、すぐに平静を装い、短く返事をする。
「……分かった」
(今のやり方では、彼女を守れない。別の方法を考えなければ……)
——最悪の事態が現実になりつつある予感に、ロランは机の上のカフリンクスに視線を落とした。
もう、躊躇している場合ではない。
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