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17.崩れゆく均衡(前編)
しおりを挟むロランにお礼を伝えるという目標を達成したセリーヌは、翌朝、朝の光が差し込む私室の窓際で、一人静かに佇んでいた。
カーテン越しの淡い光は柔らかく、いつもなら穏やかな気持ちで一日の始まりを迎えていたはずなのに、セリーヌの心は落ち着かなかった。
(……やっぱり、ダメ)
小さく息を吐き、視線をそらす。
セリーヌが視線を向けられずにいる場所には、ロランの肖像画が飾られていた。
当初はロランの威圧感に慣れるために飾らせたものだったが、いつしかその肖像画に挨拶をするのが習慣となっていた。
「おはよう」や「おやすみ」といった挨拶に、何気ない言葉を添えて話しかける。それだけで、不思議と気持ちが落ち着いたのだ。
だが、今は違う。
視線を向けようとするたび、ロランへの想いから胸の奥がぎゅっと締め付けられる。
物語の中では甘く幸せなものとして描かれることの多いそれは、セリーヌに幸福をもたらすどころか、ただ苦しめるだけだった。
(見られない……)
理由は分かっている。
昨日、はっきりと自覚してしまったからだ。
——ロランに恋をしている、と。
その事実が、セリーヌの胸に重くのしかかった。
なぜなら、ロランが特別扱いするのは、ラリサだけ。
それは誰の目にも明らかで、社交界では周知の事実だった。
そんな相手に恋心を抱くなど、不毛でしかない。
芽生えてしまった行き場のない感情を疎ましく思い、セリーヌはじくじくと痛む胸元をぎゅっと握りしめた。
(私なんかが……こんな感情を向けていい方じゃない)
そう理解しているからこそ、余計に苦しい。
この気持ちを抱えたまま彼の肖像画に視線を向けることは、まるで許されないことのように思える。
肖像画への挨拶どころか、目を合わせる勇気すら今のセリーヌにはなく、そっと逃げるように距離をとることしかできなかった。
そんなセリーヌの些細な変化に気付いたのは、ミシェルだけだった。
「……このまま部屋にこもって勉強ばかりしていたら、また体調を崩しますよ!」
ミシェルは有無を言わさぬ口調でそう言うと、半ば強引にセリーヌの腕をとった。
「ちょ、ちょっとミシェル……」
「庭に行きましょう。最近ずっとサボっていたでしょう?」
反論を許さない笑顔の圧。
それは、過去を告白して二人の距離が縮まった故の振る舞いなのは明らかで。
セリーヌは遠慮のないミシェルの態度に小さく笑みを浮かべると、観念して庭園へと足を向けた。
庭園に出て深呼吸をすると、冬の訪れを感じさせる澄んだ空気が肺に満ちる。
その清々しさとは裏腹に、セリーヌの視線はどうしても俯きがちになってしまう。
「旦那様にお礼を言いに行ったときに、何かあったんですね」
ミシェルの確信を持った言葉に、セリーヌは大袈裟なほど肩を揺らす。
「そう、ね……」
セリーヌはしばらく口ごもると、意を決して自分を悩ませる感情を吐露した。
「ミシェルが言った“恋する少女のよう”って言葉……当たっていたみたい」
悲しげに微笑むセリーヌを、ミシェルは無性に抱きしめたくなった。
もちろん、誰に見られているとも分からぬこの場所で、大公妃にそんな振る舞いをすることは許されない。
ミシェルは唇を噛み締めると、「大丈夫ですよ」と口を開いた。
「お二人は夫婦なんですから。自分の夫に恋をすることは、何も悪いことじゃありませんよ」
(お優しい方だから……身分を偽らされていることに罪悪感があるのね)
ミシェルから見たロランは、無慈悲な程に理性的で、優しさを向けるのは第一皇女のラリサに対してだけ——そんな噂を持つ、近寄りがたい男だった。
そんな男が、結婚当初こそ冷遇していたセリーヌの些細な変化に気付き、不器用ながらも気にかけ始めている。
言葉は少なく、態度も決して甘くはない。
しかしそれは、彼女を傷つけぬよう慎重に距離を測り、踏み込みすぎぬよう自制しているからこそであることを、ミシェルは知っていた。
セリーヌのこれまでの境遇を思えば、あの彫刻のような美しさを持つ男に、そんな不器用で誤魔化しのない眼差しを向けられてしまっては——心が揺れてしまうのも、無理からぬことだった。
ミシェルは内心で、だからこそ、セリーヌをこれ以上傷つけないでほしいと、密かに願う。
(さっさと旦那様が愛の言葉を囁けばいいのに。——そうやって遠くから、穴が開くほどセリーヌ様を見つめるくらいなら)
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