憎し憎しや皇帝陛下

みや いちう

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命をかけられる人

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「皇太子殿下?」
 はっとした。あれから十と四、五年、今は天井の広く取られた、紫慶殿という宮殿の広間に彼は通されている。そこで彼には皇太子殿下、という尊称を授けられ、広間の上座から悠々と宮廷人を見下ろしている。今日は先の皇帝陛下、白郷が世に隠れて五十日になる。いよよ、この香羅国の次の皇帝を決める大切な時期が訪れたのだ。しかし、今はそれを定めることは出来ない。本来皇帝にあがるはずだった皇太子が、なんと古今も聞かず四人もいるのだから。
先帝は戦争好きの、きわめて美麗な容姿の冷酷無比な王であった。自分の寵臣でも、気に食わない言動があれば、平気で眼をくりぬいて殺したし、そのうえに大変な好色で、臣下の妻や娘をよく所望した。飽きるとハレムである後宮に押し込んで、その押し込まれた数は三千ともいわれた。そんな王の周囲には、血なまぐさい噂が多々に流れた。数千は数えうる側室のうちに子が出来るたび、水銀や毒草が秘薬として使われ、無事に出産出来たのは三千のうち四、五人だけだった、というのがもっぱらの噂だ。特に、長子、第三子を産んだ皇后、白蓮は、気に食わない下女や側室は秘密裡に、穴にこめて壺にいれて四肢をもいで殺してしまったという。現に、この龍王の母も、幼き日に亡くなったと語られるだけで、その死がどんなものだったかは、今も謎に包まれている。
 そのような悪人悪妻の二人であったから、不審な死によって宮殿が悲しみに包まれた、ということはない。むしろ、次の跡継ぎを、四人も指定して死んでいった皇帝陛下のもの好きに、振り回されるばかりであった。
(それで、なぜか俺にも皇位がめぐってきたんだよな)
 はあ、と大きく息をつく龍王。この佳人は第八子であったが、聡明の聞こえ高く、母も王に鍾愛されていたので、このような、第四皇太子として王座に手を伸ばせる地位についた。その彼に、古くからの家臣が声を低めて耳打ちした。
「殿下、五百の臣下の前です。もっと凛呼となさいませ」
 それから眩い、銀地に錦糸で縫い取られた衣装の袖をふるって、家臣がくちどに囁いた。
「確かに第八子でありながら、皇太子にあがられたことには驚かれましょう。けれどこれはチャンスなのです。皇帝候補である、皇太子殿下はあと三人。彼らを失脚させるか、あるいは暗殺すれば、殿下にこの数千万の民と、広い領地と王としての栄光が、すべて手に入るのです。どうか、お気張りなさいませ」
「……さあて、それはあっちも考えているんじゃないのか」
 思わず、白い口ひげをはやした家臣が黙りこくる。残忍で知られた先帝の皇子たち、彼らは互いにその存在を疎ましく憎く思っている。あと半年ののちに催される皇帝受継式、それまでに、頂点を極めなくてはならぬ。そう、たとえば他の三人を殺めても。
 しかし、第四皇太子である龍王には何の野心もなかった。まず、皇帝の跡継ぎなど興味もなかったし、趣味は太公望だし、読書だし、まったくもって戦闘向きの候補ではない。
「まったく、そのようでは困りますわい。伯母上である果林様も皇子様のことはご心配なされていらして。今日も式の退席後、早速お呼びでございますよ」
「げっ」
 藍の髪を腰まで垂らした龍王は、その整った顔立ちに一抹の不安を漂わせた。伯母上様からの呼び出しは、過去を遡りてもいずれもろくなものではなかった。今回もそれは同じであろう。

 案の定であった。伯母の屋敷は、禁色城内の北の区画、貴族たちの壮麗な屋敷と甍を競ってあった。伯母上果林公主は、御年四十と二、凛呼として苛烈な人柄で知られていた。ちなみに彼女も先帝の側室であり、龍王の母の姉にあたる。子はなく、いまだその竜顔は美しいが、屋敷に男の気配はなかった。
「ごきげんよう、龍王殿下。早速ですがあなたにお話があります」
 彼女、果林は卓子に積まれた書物を開き、それから(白蓮も黙る)と呼ばれた恐ろしいまなざしで、実子とも思う甥子を見据えた。
「単刀直入に申します。ご結婚なさいませ」
「……は?」
 意味が分からぬといった風の龍王へ、果林がふうと嘆息し、その眩い黒髪を揺らめかして告げる。
「聞こえなかったのですか? ご結婚なさいませ、といったのです。貴方のように、頼りなく覇気もなく男気もない、顔面偏差値だけが飛びぬけて高いだけの男は、早くに結婚してお子をなし、しっかりとされるべきなのです」
「散々に言ってくださいましたね伯母上」
 思わず苦笑を浮かべる甥御、それに淡々と、けれど嘆息をこらして彼女は説き続ける。
「冗談で言っているのではありません。まして、皇太子の座を争うのは貴方を除いて三人もいるのですよ。そのどれもが冷酷にして怜悧なお方がた。皇太子争いは命の取り合いですよ。降参して命が助かるならそれも勧めましょうが、それも出来ぬ血まみれの争いなのです。皇太子の争いをおりたら、ますます暗殺されやすくなるのですからね」
 果林の口調はどんどん熱を含んで。
「しっかりとした人を娶りなさいませ。好みの女は皇帝におなり遊ばしたら、後宮にいくらでもお入れなさいませ」
「それはつまり、利用価値のある女を正妻として娶り、惚れた女は愛人になさりなさい、と、そうおっしゃるのですね? 伯母上」
「ええ、あなたのお父上もそうなさりましたよ」
 凛然とした伯母の口調に、思わず黙りこくる龍王。しかし、白い卓子に並んだ、嫁候補であろう女たちの書類にちらと眼をやり、彼はため息をついて答えた。
「しかし、私は嫌ですよ伯母上。いくら言われても」
「なぜ」
「私は父上と同じになりたくないのです」
 これに後宮一、二位を争った恐ろしい女傑果林が黙った。先帝の不遇の死には常に暗殺疑惑がつきまとっていた。
 ふう、と果林が一息ついた。よっしゃ、難所をくぐり抜けた! と龍王が思ったそばから。
 突然、果林付きの宦官たちが屋根裏から椅子から本棚から飛び出して、龍王の足腰を縄で縛った。
「ぬおっ何をするっ」
「口ごたえは許しませんよ龍王殿下」
 次には果林の命で、彼の眼もとは白い布にて覆われ、結われて、その身数人がかりで運ばれた。
「何をなさいます伯母上!」
「あなたには無理にでも女人をおつけいたします殿下。そうしてとっとと子づくりなさいませ。男は変わりますよ。女次第でね」
 嫌だっ嫌だあああ、と喚き散らしながら、龍王の身体は輿に乗せられ、いずこへか運ばれていった。それを遠目にて眺めながら、果林は白髪のないつややかな髪を、少し揺らめかせた。ため息をついたのだ。
「男は女次第で変わるとは、これ笑止」
 すると部屋の闇より現れた一人のおなごが、ふふっと彼女を笑った。外目は侍女の衣装を纏っているが、目元を西欧の半仮面で隠して、その口元は常人離れして紅い。ただものでは、ない。
「それは反対なのではないですか、果林様」
「お黙りなさい」
 空を飛ぶ雁でさえも、我知らず羽を凍らせ落ちそうになるような、恐ろしい声音であった。しかし女は動じない。
「まあ、これからあなた様の可愛い甥御様がどうなることか、高見の見物とさせて頂きますよ。わたくしの愛するあの御方と、ね」
「……勝手におし」
 ふふんと嘲って、おなごは闇に掻き消えた。果林はただただ窓より輿の運ばれる方角を見つめている。


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