憎し憎しや皇帝陛下

みや いちう

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妖しい侍従

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【二章】

  角の生えた雄鹿の夢を見ると、その者は皇帝にあがる、そう聞いていたゆえだろうか。龍王は最近、連日鹿の夢を見ていた。ま白く、円らな黒き瞳でこちらを見据えてくる牡鹿。背景は闇の染まった深い森。その上に中天の月がまどかにかかっている。
その鹿のあまりの高貴さに、龍王は思わず近寄ろうとする。
「お前……」
 そこで彼は、はたと目覚め、かたわらの妻の姿に驚くのである。



 龍王殿下夫妻の朝は、いつもかまびすしい喧嘩で始まる。
「あんたいい加減にしなさいよ! 私を自分の褥に運んだんでしょ!? この変態っ」
「違うって! お前が寝ぼけて毎回俺の隣に寝ているんだ!」
 ――ここは主人公たる龍王に話を聞いてみよう。龍王が言うにはこうだ。
「夜寝ているとねぼけたお前が俺の褥に入って、世にも可愛らしい寝顔で安らかに寝息をたてるんだ! 俺は一体どうしたらいいんだ! 起こすのもかわいそうだし、起こして事に及ぼうにもお前には殴られるし」
「当たり前でしょう! 私は妻にはなったけど、正式なお披露目もしていないし、何よりそんな、褥で接吻なんて出来ない!」
この女……褥で接吻すると子供が出来ると思っているのだな。龍王は呆れかえりそうだったが、逆に面白味も感じた。
「では碧玉、腰かけのところなら、どうだ」
「へ?」
「そこで接吻ならいいいんだろう?」
「それは、そうですけど、でも……」
突然の提案にしどろもどろになる碧玉。彼女を抱きかかえ、朱の紗がかかった腰かけに押し倒す。
「え、ちょっと、待っていやっ」
「おや? 褥以外ならいいんじゃかったのか?」
「でも、こんな、恥ずかしい……」
 見れば碧玉の寝巻きは乱れ、その豊かな胸が竜王の色情を誘った。
「すまん、碧玉。恨むならお前の愛らしさを恨むのだ」
「いやっ何するのよー!! 誰か、筝をもってきてっ筝をー!!」
「抵抗はよせ。碧玉、さあ」
「……はい、仰せのままに。姫様」
 次には、鈍い音が響き、龍王の頭がいたく打たれていた。筝はきつい。かなり痛い。
つううと、痛みをこらえる龍王を後目に、
「大丈夫ですか。姫様」
 と冷えた声音で問うのは、黒髪を揺らめかす、碧玉づきの侍女の一人であった。
彼女は役目を終えた筝を回収し、足早に部屋を去っていった。
「さすがに痛いぞ碧玉! というか今の侍女誰だ。あとでこってり絞ってやる」
「今のは凛鳴よ。五年くらい前から、ずっと、私の侍女として、専属薬師として、私を支えていてくれるの。何かしたら筝で殴るわよ」
「くっ」
 隙を見、自分の腕のうちから逃げ出した碧玉を、忌々しそうに龍王が見据える。
「では、朝食の席でまた、お会いしましょう。愛しき我が殿下?」
「待てっ碧玉待てったら」
 そう叫んだのも、ドアの閉じる音にかき消された。碧玉の奴。そんなに俺が嫌か?
愛憎入り混じる感情で彼女を思う龍王である。
それにしても。
(あの猫目の凛鳴とかいう女、厭な目をしていたな)
「凛鳴、あいつ、何者だ……」
「何の者でもございませんよ殿下」
 うわあああと思わず絶叫しそうになるのを、必死に龍王はこらえた。いつの間にこの娘、凛鳴は己が横に佇んでいたのだろう。
「何か、私にお感じになりましたか」
 凛鳴が真昼の猫のような瞳で睨んでくるのに、龍王はやや気おされつつも。
「……お前、何か隠しているな」
と問うた。
「それは、なにゆえ」
「その瞳と、筝を振ったときの強さゆえ、か」
 ふふ、と凛鳴が笑った。まるで見た目は色気も何もない小娘のくせに、熟練の艶ある風情で。
「それはいずれお分かりになりましょう。それより、奥方様がお待ちです。早く行ってさしあげて」
「龍王―!! 早くしないとごはん先に食べちゃうわよー!!」
 碧玉の喚きに、ふうと嘆息し、龍王は彼女から顔を背けた。
「凛鳴」
 一言、猫のような彼女に言い置いて。
「お前のことは信用しておきたいが、碧玉に何かしたら――わかっているな?」
 触れれば凍てつくような、全てを打倒す剣――。龍王の瞳は、まさにかの帝王を思わせた。凛鳴がほくそ笑む。
「あなたは父君を忌んでいると聞いていましたが、その目つきはそっくりですね」
「! なぜ、父を知っている」
 それには答えず、凛鳴が部屋を先に辞した。
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