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悪夢をとりさらって。
しおりを挟む生涯忘れえぬ光景というものがある。たとえば恋人と見る美しい夜景とか、ニューイヤーを祝う花火とか。しかし。
記憶に残る光景には大概、悪いことがつきまとう。まるで美しい絵より、鋭いナイフで切り刻まれたカンバスが、余計に人のこころにつきまとうように。
彼女にとっては、あの夜の光景は恐怖と絶望の象徴だった。ある夜更け、父がローンを重ねて購入した家に移って、半年ほど経った頃だった。九条有栖は喉が渇いたので、水をもらおうと自室から階下へ降りていった。最後の一段目を踏み外しそうになってなんとかこらえた。
「床に......水?」
かと思った。ためしに薄闇に、白い靴下をはいた足を持ち上げてみる。
床を伝う靴下が深い紅に染め上げられている。
――その床は鮮血に満ちみちていた。血は生温かくて、どろりとしていて、厭な匂いがした。
有栖は一瞬で顔も青ざめ、「......パパ?」とか細い声で訊いた。返事はない。薄闇の中をよろめきながら歩いていく。父は闇の中にありったけの血をのべて、ナイフを首に突き立てられて絶命していた。「ひっ!! ママ」とか細い声で有栖が訊いた。すると隣の部屋のドアが開く音が聞こえた。
こちらへ、来る!! おそらく、犯人か?
ママであって、ママであって。ママであって。生きていて!
有栖の顔は恐怖とパニックで、昨日に降った雪よりも真っ白になっていた。事態を飲み込めず、錯乱しそうな自分を抑え、招かれざる客を待つ。こちらへと開かれるドア、そこからママの顔がひょっこり覗いた。有栖が歓喜と安堵にその身震わす。
「ママっ」
しかし残酷にも、そのドアより覗く首は、ドアのあまりに下方に現れていて、胴体と接合されている間は形状的に人は覗き込めない。ごろり、と母の切り首が床に転がって、有栖は悲鳴を上げた。生首を転がしたあと、男はにやにやしながら有栖に近づいた。黒ずくめの、眉のあたりに傷のある、若い男にみえた。
「へえ、可愛い子だねえ」
有栖は父と母が死んだという事実を飲み込めず、ただ恐怖におかされ、氷のような涙をこぼす。喉になどまだ手をかけられていないのに、もう、今から予期して縊られているかのように苦しい。臓物がすべて口から音をたてて溢れていきそうだった。床の冷たさは絶望の象徴だった。
どうか、誰か、誰か助けて。
男が有栖の上にまたがり、包丁をかかげた時、彼女の瞳にはその背後にもう一人の男の姿を認めた。有栖はその男をいつかどこかで見たことがあった。
(ああ、いつかテレビで見た、ヒーローだわ)
そのヒーローは、男に馬乗りになって、力いっぱい殴り上げた。
ヒーローは仮面をつけていて、顔の造作も見えないし見ていられなかったが、救い、であることは確かだった。有栖の首を絞められる感覚だけはおさまった。殺人鬼が腰を上げて逃げようとする。
有栖の心中は助かった、という思いと、もうあの幸福な日常に戻れぬことを悲しむ気持ちが、渦を描いて混ざり合っていた。そして、男が逃げたのをヒーローが追いかけた時、有栖は失神していた。
【この国にはヒーローがいる】
それは本当の話であった。その名も、Ziマン(ジーアイ)という。彼は超人的な身体能力と、優れた頭脳と朱のマントを持ち、さらには長身で、その紳士的な、そして人道的なふるまいにはファンが多くいた。いや、もはやそれは追っかけというレベルではなく親衛隊に近かったろう。彼は洒落た白の半仮面をつけて、顔の美醜はいまだ誰も知らなかったが、おそらく美しい若い男に違いない、と記者はこぞって書き連ねた。しかしZiマンはマスコミに自慢話や手柄話をするつもりはないらしく、いつもマスコミの取材をはねのけていた。
それはまるで、何かを探られたくないようなことがあるように見る人には見られた。
「ねえ、今日デザートブッフェ、行くでしょう、有栖!」
あの家族を皆殺しにされた、恐ろしい負の記憶の日より三年後、有栖は十五歳になっていた。県下でも知られた進学校に通っていた。両親の職業は上場企業の役員だったから、保険金のほかに見舞金なども下りてきて、有栖は一人暮らしでも困ったことにはならなかった。そんな彼女は今、高校の一年生の教室に入って、女友達と二人、わいわい盛り上がりながら廊下を歩んでいる。廊下は校舎裏に茂る新緑の色を映して、爽やかな風がそのうえを吹き通っていった。有栖が言う。
「ごめん、まき、今日はパス」
「えええ、まさか、デート?」
女友達、まきが口を尖らせる。有栖は微笑している。
「そんな相手がいないの、ご存知でしょ」
「あーもう、それが世界最高レベルの謎なのよっ」
まきがそう言って頭を悩ますのも、有栖の容姿を一目見ればわかるだろう。有栖は非常に美しい容姿をしていた。黒髪が柔らかなウェーブを保ちながら、腰までゆるゆると落ちていく。白い肌は陶器のよう、瞳は紫紺で宝玉のよう、赤い唇は薔薇のようだった。まきもまきで、色白の細身で顔もなかなかのレベルなのだが、それでも有栖にはかなわない。紺のブレザー姿で有栖が廊下を歩くと、みんながみな振り返って、神の美への優遇に驚くようなレベルなのだ。
そんな彼女には複雑な感情が兆していた。
父と母を殺した男は、いまだ捕まっていない。よほど阿呆な殺人犯だったらしく、証拠をいくらでも残していたのだが、なぜだか犯人は見つからず、テレビでよく、占い師が出てきて解決する、未解決事件となりつつある。つまり犯人は今だに逃げながら、ニュースの鮮度が落ちてきたことをこの世界のどこかで喜んでいるのだ。あるいは――。
「いやーでもこの事件はちょっと、穏便にねえ」
いつか警察に有栖が聴取された際、刑事が廊下で煙草を吸いながら同僚に言っているのが聞こえてしまった。それを聞いた有栖は、直感した。
(これには何か大きな力のものがかかわっている)
そしてこの事件への追及の手を、その大きな力でゆるめさせたのだと。
だからせめて、私だけは憎み続ける。そして生涯許さない。もし彼を絞首刑に処せないのなら。いっそ、私が――。
「あーまた有栖ったら怖いこと考えているでしょう」
まきがそのグロスでぬらぬらしている唇で言い放った。有栖が慌てる様子もなく、意味深長に微笑む。
「さあて、何を考えていたでしょう」
「また、お父さんとお母さんのことでしょう」
まきがそういうなり、にわかにその丸顔を曇らせた。まきとは小学校からの仲で、有栖の家で何が起こっているかもよくわかっている。それゆえこんな踏み込んだ問いかけが出来るのだった。
「うん......でもちょっと違うの」
有栖が困ったようにはにかみ、そして告げた。
「犯人を早く殺せたらなあ、って思っていたの」
◆
しばらく、放課後の緑の涼風吹く廊下に、沈黙が落ちた。
「......そんなに、殺したい?」
「うん」
まきが恐る恐るといった風に問いかける。有栖は微笑を絶やさない。
「私の家ね、あの日本当はパーティーがあるはずだったの。零時を回ったあの日は私の誕生日だったから。私が学校から帰ってきたら、みんなでテーブルを囲んで、ご馳走が並んで、みんなでお祝いしよう、って、約束した。でも、ハッピーバースディのあの日、階下へ降りたら二人とも、殺されていて。お母さんが夜なべして一生懸命作ってくれたご馳走に、血が染み入っていたの。お母さんの兎柄のエプロン、私がプレゼントにあげたやつで......それで......」
「有栖......」
まきがそうっと、両腕をさしのべて有栖の身を包んだ。優しく、優しく、壊れやすいものを扱う時のように。
「だから、私恨むの。生涯恨むの。これが私の人生なの。憎んで、憎んで、それで終わりの人生なのよ」
「ねえ、でも、有栖?」
まきが有栖の背を撫でながら、外を見やる。もう外は茜色に空が焼けていて、遠く蝉の声が聞こえた。
「女の子として、幸福になりたくないの?」
「どういう意味?」
有栖も外の、燃えるような夕焼けのうちの蝉の音を遠くに聞いて、なんだかこころがかき乱された。
「恋とか夢とか、したくない? 欲しくない? 年頃の女の子らしく、さ。私には彼がいるけど、それも素敵よ。彼のためなら何だって出来るわ。有栖にも、そういう人が必要よ」
「ううん、いらない。だって無理よ」
有栖が夕映えのなかで微笑む。
「私にはもう、何も、ないから」
◆
新聞部の部室は、新聞があちこちに散乱し、長机やコピー機が詰め込まれた、雑多な部屋だった。ドアを開けるとすぐに部長の飴色の机。そこで部長がせっせと校正を行っているので、有栖はカメラをひっさげて、部長に頭を下げ無言で部屋を辞した。
「気をつけろよ、九条」
部長のぶっきらぼうな調子の声が背中に飛んでくる。
「最近綺麗な女が狙われている。大きな声ではいえないが、巨大な権力絡みの人身売買だそうだ。お前も、気をつけろ」
「......はい、部長」
有栖はまた、こうべを垂れた。
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