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平和な日々
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有栖の記事は校内でも人気だった。本来記事は教頭の長いだけの青春メッセージだとか、先生方のプロフィールなぞを載せるのが常だが、有栖はあえて、この街のヒーローを毎号特集して記事にしている。一度、「学校生活に関係のないヒーローを特集して何がいいのか」
と教員に詰め寄られたこともあったが、校長の鶴の一声、「いや、その記事が本当に面白いんだ」
ですべてが決まった。有栖は今日も取材に行く。
彼の存在は謎に包まれている。
Ziマン、彼は半仮面をかぶり、洒落た濃紺のスーツを纏い、町で悲鳴があればすぐに駆けつけてくれる。会いたかったら悲鳴を上げればよい、とまで言われていて、いわばこの街の英雄だった。しかし、その有益やビジュアルだけでは言い足りない、このヒーローの至上の魅力はその強さである。ずば抜けて身体能力が高く、一瞬でビルとビルの間を駆け抜けていく。殴ればコンクリートを六層壊し、その拳は寸止めであろうと敵を失神させるほどのものだった。そして、彼は有栖を救ってくれた。だから、追いかけたい。お礼が言いたい、そして、どんな人だか知りたい。それは恋というものではなかった。会ってもいないしゃべってもいない、自分の存在を知らぬ男に恋を抱くほど、有栖は夢を持っていた訳ではない。ただの興味からである。そして感謝からである。
高層マンションが立ち並ぶ街をめぐると、どこからか悲鳴が聞こえた。有栖はカメラを首にかけ、疾走する。次第に街並みがビル街から住宅街に変じた。
(私の家の方だわ)
有栖が角を折れると、そこには老婆が倒れ伏していた。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
有栖がそう問うと、おばあさんは首を振って答えた。
「私は転んだだけ。ナイフを持った強盗に、鞄を取られてそれを今ヒーローが追いかけてくれているの。早く警察を呼んで頂戴」
有栖が急いて警察に電話したのち、角を曲がる。あたりは薄闇がのべられて、夕焼けが燃えつきて、夜に街が沈み込みかけていた。するとそこに、一人の警官がやってきた。
「君かね? 通報してくれたのは」
「は、はい」
警官はにやにやしたままこちらを見据える。
「そうかあ。ねえ、君、強盗の顔見た?」
一歩、一歩、警官が進み寄ってくるので、有栖はとっさの反応で後ろへ下がっていく。なんだろう、この人。
そういえば、変じゃない? どうして一分前に電話したのに、もうここにいるの?
疑問と不信が有栖の胸に広がっていく。
「へえ、君、聞いた通り可愛いねえ」
警察官の男の笑みが、職務上のものからいやらしいものに変わっていく。聞いた通り? 聞いた通りって何? この男は、もしや警官ではないのかもしれない。有栖が不安に思い、後ろへ下がろうとすると、壁にぶつかって、躓いた。目の前の男が浮かべる三日月に怖気が立つ。
「さあ、おとなしくしているんだよ」
男がそう囁きながら警棒を取り出した時、風のような速さで、警官に男がぶつかっていった。それは、かつて見たままの姿だった。
Ziマン、だった。
Ziマンは朱のマントをたなびかせ、警官を思い切り殴りつけた。警官は歯を飛ばされながらなおもこちらへ向かってくる。有栖をかばうように、Ziマンは有栖の前に立ちふさがって、男へと拳をふるい続けた。
ぼろぼろになった警官は、奇声を上げながら逃げていく。それを追いかけようとして、Ziマンが大きくふらついた。
「大丈夫ですかっ」
有栖が不安げに声をあげそれを抱き留めると、ヒーローは一瞬その胸に身を置き、すぐに立ち上がらんとした。が、また有栖の腕に倒れた。
「す、すまない......」
初めて抱くヒーローの身体は、筋骨たくましいが、こけた頬がどこか危うげに感じられた。
「すまない......もう、大丈夫だ」
「でも、病院に行った方が」
「ヒーローが病院に駆け込む訳にはいかないよ」
そう言って弱弱しく微笑むヒーロー。有栖は彼を抱く己が手を見つめた。濡れている......。この鉄の匂いは、血だろう。いつかのおぞましい記憶――。
「少し、歩けます?」
次には有栖が平静な顔で問うた。ヒーローは眼をしばたく。
「この先に私の家があります。一人暮らしですし、気兼ねはいりません。そこで少し休みませんか」
「しかし......女性一人の家に行く訳には......くっ」
ヒーローが波のように来る激痛に顔をしかめる。有栖はその腕を肩にかけて、よろめく彼を支えて家に運んだ。
◆
(本当に、男の人を招き入れちゃったわ)
有栖は彼の血まみれの包帯を代えてやり、鮮血に染まった洗面器の水を捨てようと、バスルームへと立ち上がったところでふとその事実に気付いた。いやいや、何を言うの、と有栖は自分を心中で一喝した。彼は自分を二度も救ってくれた。どちらも命がけで、だ。その彼を見捨てるような真似は、しては人道にもとると、自分でもわかっていた。ヒーローは自分のベッドでぐっすり眠っている。しばらく寝ていなかったのかしら......。彼の目元にはくまがあったが、この分では消えてなくなるだろう。そう直感出来るほどのよい眠りを彼はとっていた。赤い温かいシーツの中で、すやすや眠るヒーロー。
(何か、おなかにいいもの、彼に作れないかしら。ああ、余った野菜でショウガの野菜スープなんてどうだろう)
キッチンに立って、もう手慣れた風に野菜を切り分け、ショウガをすりおろし、コンソメを煮立たせスープを作る。ああ、いい香りだ。
(これを食べたら彼も、元気になるかもしれないわ)
くつくつ煮られるスープの飴色の水面を見つめながら、ふと、有栖は自分がヒーローに、かまいすぎているような気がした。ヒーローをあまつさえここに運んだうえ、スープを作るなんて。だけれど彼の身体を見てはそうもいっていられまいと思った。彼の身体はボロボロだった。あちこち傷が膿んで、腫れて、黒く濁っている傷痕もある。消毒と簡単な手当てはしておいたが、それでなんとかなるはずもなかった。あんなボロボロになりながら、街のため人のため、闘ってくれている――。政治家や、マスコミの一部や警察などに、彼を悪く言う人がいることは知っていた。どこか他人事だと思っていた。しかし、彼の傷だらけの身体を見ると、それが間違いなのだと、有栖は悟った。
「ん......」
その時、ヒーローの形のよい唇が少し、ひらいた。本当に、半仮面を外したヒーローはかなりの美男子とみえた。目も深く、鼻梁は高く、唇は花のように艶やかだった。黒髪が耳にかかって、身体は傷だらけだがたくましい。二十五くらいかと有栖は見当をつけた。
「ん......サトコ......」
サトコ?
女の人の名前?
有栖がベッドサイドに寄って、ヒーローの声に耳を澄ます。ヒーローはうなされているかのように何度もその名を呟いた。
(彼女か、奥さんかしら)
有栖がそう思った、次の瞬間にはヒーローが目を覚ましていた。
「ん......ここは」
「私の家です。私を救ってくださってありがとう。あなたがその時に倒れたから、ここに運んだんですよ」
「そう、だった......すまなかったね」
ヒーローが起き上がろうとして、またベッドに倒れた。有栖が慌てて寄って、シーツをかけ直してやる。
「もう少し安静にしていて下さい。ひどい傷を負っているんですもの」
「しかし......うぐ......ああ、君」
呻き出す彼のそばに有栖が寄って、手を握る。ヒーローは細く呻き声をあげながら、こう言った。
「俺の、スーツの内ポケットから、薬を出してくれないか」
◆
ヒーローの痛みは、薬を飲むとおさまったようだった。ヒーローに、程よくさました野菜スープを食べさせてやる。スプーンでアスパラの小さく切ったのを、口元に運んでやると、ヒーローの顔色も少しずつ戻ってきたかのように思われた。
「すまない......こんなに、世話になってしまって」
「いいんです。あなたは私を救ってくれましたから」
それより。静かにスープを味わうヒーローへ、有栖が口を開いた。
「あなた、お薬を飲んでいるの?」
「......ああ」
「それは、強いお薬なのね?」
「......君は、勘がいいね」
それ以上ヒーローは何も言わなかったけれど、有栖には分かった。その薬はきっと肉体を強くするための薬で、スポーツでいうところのド―ピングのようなものだと。人を助けるために強くなって、そのかわり命をすり減らすのだと。
「ありがとう。世話になったね」
それから二時間ほど眠ったあと、彼はおもむろに立ち上がって、窓を探した。飛び立っていくつもりなのだ。その傷だらけの身体で。
「......あなたはそれでいいの?」
窓の珊に手をかけて、夜風にマントをはためかすヒーローへ、有栖がこう声をかけた。ヒーローが寂しそうに、笑った。
「いいんだ。みんなに笑ってもらうためには、俺はどうなっても構わないんだ」
◆
その日から、ヒーローは有栖の周りをパトロールしてくれるようになった。あの警官を逃がしてしまったから、お詫びのつもりだよ。とヒーローは優しい笑顔で言った。いつも傷だらけになって戦っているのに、自分の面倒まで......有栖は最初は心苦しかったが、そのうちに、彼の姿を見ない日が落ち着かなくなっている自分に、気が付いていた。いつの間にかヒーローも、時折部屋に招かれ一緒にお茶をするようになっていた。
その日も、二人で紅いソファの置かれたリビングで、温かい紅茶を飲んでいた。ヒーローは本当に上品に紅茶を飲んだ。目が合ったら微笑んでくれる。有栖もなんとはなしに嬉しくなる。
「ねえ、ヒーロー」
「ヒロでいいよ」
「いいの?」
有栖が尋ねると、ヒロはくすぐったそうに微笑む。
「それが本当の名前なんだ。名付けてくれた人も、呼んでくれた人ももういないけどね」
そうして一瞬暗い表情に変じた彼の様子を案じて、有栖が続けて問うてしまう。
「あの、サトコさんという方?」
「......君はつくづく勘がいいね」
ヒロが紅茶の小さなカップを白い長テーブルに置いた。
「サトコは妹なんだ。俺はこの国ではない、貧しい国の出身でね、そこでは厳しい王政が進んでいた。暴君であった王に逆らい、父も母も殺された。妹も国外に売り飛ばされて、どこにいるか分からない」
痛ましい、そう思った有栖の顔を一瞥して、ヒロは再び話し出した。
「この名はこの国が好きだった父がつけてくれたんだ。その父も無残に殺されたよ。それをどの国も、どの指導者も見てみぬふりをした。だから俺は、どうしても悪を見過ごすということが出来ないんだよ」
「......でも」
有栖はヒロの優しい、傷だらけの大きな手をとって、こう訊いた。
「ヒロは、心の癒しとか、愛とか、そういったものを欲しくはない? いつもヒーローとして血まみれで闘って、そんな傷だらけになって、いつかは......」
有栖はそう言いながら、いつかのまきと同じようなことを口走る自分を認めた。そうだ。あの時私は一言で言い捨てた。
「無理よ」
と。彼もまた、同じ気持ちなのだ。過去が私たちを地獄へとつないでいる。それから逃れるすべは、ない。過去を断ち切れたら、そうできたらいい。だけれど過去は絶対的に、現在と続いている。そして、このままいけば未来にも。
「無理だ。俺はこの手を血に染めすぎた。俺はこういう人生だったのだろう。だがね」
ヒロが少し、微笑を浮かべた。そうして、有栖を見つめた。
「有栖の淹れてくれる紅茶には、少し心揺らぐよ。これが俺がずっと探してきた、安らぎなのかもしれない」
この一言に有栖が胸をときめかせた。いけない。いけない。この人を、好きになってはいけない。悲しい終わりが待っているに決まっている。だけれど、それでも、私は――。
「しかし、やはり無理だ」
顔を赤らめる有栖に、ヒロが切ない表情を見せる。
「これが俺の運命だったんだ」
映画のストーリーなら、こんな悲しい展開などなかったろう。漫画のスーパーマンは、いつも意気揚々と敵を殺し、滅ぼし、にこやかに聴衆の手をとって、仰がれる。憧れ、ですべてが集約される。そのはためく朱のマントが、血色に深く染まっているのを誰も気づきもしないで。
「ヒロ、だけど、私、そばにいたい」
有栖はしばしの沈黙を持った後、はきとした声音で言い放った。揺らぐけれど、これが本心だった。傷を負いながら人のために戦い続ける、この人のそばにいたい。
「ダメだ」
強い調子で言い切って、ヒロが首を振る。
「君まで危険な目に遭わせる。敵が俺の恋人を見つけたら、何をしてくるかはわかっているだろう」
「じゃあ、せめて」
有栖はそれでもヒロの袖をとって離さなかった。
「私の前ではその仮面を脱いで。ただの人間であるあなたに、私は恋をしたのよ」
そのままヒロの唇にキスを落とす。ヒロは顔をほんのり赤らめて、首を振った。
「有栖には、かなわないな」
有栖は少し嬉しそうに頷く。
「ええ、そうあってね」
◆
それからヒロは、帰る家を有栖の家と決めたようだった。パトロールを終えて、あるいは戦闘を終えて、傷を負って帰る家は有栖の家だった。
「疲れたと思ったら、君のもとに帰りたくなってしまう自分が嫌だ」
二人で朝の光を浴びながら、スープを味わい、語り合う。
「本当はダメだとわかっているのにな。俺は人間ではないのに、こんな弱い自分が憎らしいよ」
「私はそういうあなたが好きよ」
有栖が焼けたデニッシュをキッチンから運びつつ、笑顔を見せる。有栖は正直だな、とヒロが苦笑する。
「こういう天国のような時間を持つと、あの地獄の日々を遠く感じてしまう」
「地獄の日々?」
有栖が小首をかしげて尋ねる。隣に座らんとする有栖の席をつくるように、長椅子よりヒロが身をずらす。
「俺は家族を殺され、拉致され、その後で孤児院に預けられた。だが俺の父は思想犯で王に逆らったいわば逆臣。その息子なら、どういう目に遭うかわかるだろう」
「......」
「ひどいもんだった。毎日続く陰惨な暴行、虐待――。誰に言えるわけもなく、ただ我慢をし続けて、みんな耐えた......だがそんな日にも終わりがやってきた」
ヒロが一度、言葉を切る。
「施設のみんなとは、仲良くなれた。みんな、いいやつだった。仲がよかった俺たちはある日、孤児院の奥の部屋に招かれた。そうして、注射針を持った男たちに取り囲まれて、それで、薬を投与された」
顔をゆがめるヒロが痛ましく、有栖はもう、いいわと言いたくなる。だが、こらえた。
「ひどい有様だった。みんなが痛い痛いと腹をおさえ、のたうちまわって血のあぶくを吐いているんだ。俺も血を吐いた。......生き残ったのは俺だけだった。俺は軍の新兵器の実験に使われ、生き残ってしまったんだ。院長は涙を流して喜んでいたよ。やった。モルモットが一匹、成功したって。後になって知ったが、その院長を俺は殺していたんだ」
「......それ、どういう意味?」
「......」
有栖が問うても、ヒロは返事をしなかった。
◆
「えー今、遊園地の観覧車前に来ています」
翌日、有栖は放課後、Ziマンの現れる遊園地に来ていた。まきと遊びに来ていて、偶然観覧車の壊れる事故が発生し、そこに居合わせた形になったのだ。円を描いた観覧車が強風にあおられ、止まっている。テレビのアナウンサーによれば操作盤の故障で、爆発の危険もあるという。観覧車のなかで震えるカップル、家族連れ。その一人ひとりに声をかけ、ドアを開け空を飛ぶZiマンが救出する。ミーハーなまきが声高に叫ぶ。
「Ziマン、すごい! きゃーこっち見たっ」
まきがZiマンに近づこうとして、観覧車のふもと、人込みの方へ走っていってしまう。それを有栖が追いかけようとして。
「君、九条有栖ちゃんだね?」
黒づくめの男たちに突然、声をかけられた。そこまでは覚えている。有栖はハンカチを口に押しあてられ、失神してしまった。
◆
と教員に詰め寄られたこともあったが、校長の鶴の一声、「いや、その記事が本当に面白いんだ」
ですべてが決まった。有栖は今日も取材に行く。
彼の存在は謎に包まれている。
Ziマン、彼は半仮面をかぶり、洒落た濃紺のスーツを纏い、町で悲鳴があればすぐに駆けつけてくれる。会いたかったら悲鳴を上げればよい、とまで言われていて、いわばこの街の英雄だった。しかし、その有益やビジュアルだけでは言い足りない、このヒーローの至上の魅力はその強さである。ずば抜けて身体能力が高く、一瞬でビルとビルの間を駆け抜けていく。殴ればコンクリートを六層壊し、その拳は寸止めであろうと敵を失神させるほどのものだった。そして、彼は有栖を救ってくれた。だから、追いかけたい。お礼が言いたい、そして、どんな人だか知りたい。それは恋というものではなかった。会ってもいないしゃべってもいない、自分の存在を知らぬ男に恋を抱くほど、有栖は夢を持っていた訳ではない。ただの興味からである。そして感謝からである。
高層マンションが立ち並ぶ街をめぐると、どこからか悲鳴が聞こえた。有栖はカメラを首にかけ、疾走する。次第に街並みがビル街から住宅街に変じた。
(私の家の方だわ)
有栖が角を折れると、そこには老婆が倒れ伏していた。
「おばあさん、大丈夫ですか?」
有栖がそう問うと、おばあさんは首を振って答えた。
「私は転んだだけ。ナイフを持った強盗に、鞄を取られてそれを今ヒーローが追いかけてくれているの。早く警察を呼んで頂戴」
有栖が急いて警察に電話したのち、角を曲がる。あたりは薄闇がのべられて、夕焼けが燃えつきて、夜に街が沈み込みかけていた。するとそこに、一人の警官がやってきた。
「君かね? 通報してくれたのは」
「は、はい」
警官はにやにやしたままこちらを見据える。
「そうかあ。ねえ、君、強盗の顔見た?」
一歩、一歩、警官が進み寄ってくるので、有栖はとっさの反応で後ろへ下がっていく。なんだろう、この人。
そういえば、変じゃない? どうして一分前に電話したのに、もうここにいるの?
疑問と不信が有栖の胸に広がっていく。
「へえ、君、聞いた通り可愛いねえ」
警察官の男の笑みが、職務上のものからいやらしいものに変わっていく。聞いた通り? 聞いた通りって何? この男は、もしや警官ではないのかもしれない。有栖が不安に思い、後ろへ下がろうとすると、壁にぶつかって、躓いた。目の前の男が浮かべる三日月に怖気が立つ。
「さあ、おとなしくしているんだよ」
男がそう囁きながら警棒を取り出した時、風のような速さで、警官に男がぶつかっていった。それは、かつて見たままの姿だった。
Ziマン、だった。
Ziマンは朱のマントをたなびかせ、警官を思い切り殴りつけた。警官は歯を飛ばされながらなおもこちらへ向かってくる。有栖をかばうように、Ziマンは有栖の前に立ちふさがって、男へと拳をふるい続けた。
ぼろぼろになった警官は、奇声を上げながら逃げていく。それを追いかけようとして、Ziマンが大きくふらついた。
「大丈夫ですかっ」
有栖が不安げに声をあげそれを抱き留めると、ヒーローは一瞬その胸に身を置き、すぐに立ち上がらんとした。が、また有栖の腕に倒れた。
「す、すまない......」
初めて抱くヒーローの身体は、筋骨たくましいが、こけた頬がどこか危うげに感じられた。
「すまない......もう、大丈夫だ」
「でも、病院に行った方が」
「ヒーローが病院に駆け込む訳にはいかないよ」
そう言って弱弱しく微笑むヒーロー。有栖は彼を抱く己が手を見つめた。濡れている......。この鉄の匂いは、血だろう。いつかのおぞましい記憶――。
「少し、歩けます?」
次には有栖が平静な顔で問うた。ヒーローは眼をしばたく。
「この先に私の家があります。一人暮らしですし、気兼ねはいりません。そこで少し休みませんか」
「しかし......女性一人の家に行く訳には......くっ」
ヒーローが波のように来る激痛に顔をしかめる。有栖はその腕を肩にかけて、よろめく彼を支えて家に運んだ。
◆
(本当に、男の人を招き入れちゃったわ)
有栖は彼の血まみれの包帯を代えてやり、鮮血に染まった洗面器の水を捨てようと、バスルームへと立ち上がったところでふとその事実に気付いた。いやいや、何を言うの、と有栖は自分を心中で一喝した。彼は自分を二度も救ってくれた。どちらも命がけで、だ。その彼を見捨てるような真似は、しては人道にもとると、自分でもわかっていた。ヒーローは自分のベッドでぐっすり眠っている。しばらく寝ていなかったのかしら......。彼の目元にはくまがあったが、この分では消えてなくなるだろう。そう直感出来るほどのよい眠りを彼はとっていた。赤い温かいシーツの中で、すやすや眠るヒーロー。
(何か、おなかにいいもの、彼に作れないかしら。ああ、余った野菜でショウガの野菜スープなんてどうだろう)
キッチンに立って、もう手慣れた風に野菜を切り分け、ショウガをすりおろし、コンソメを煮立たせスープを作る。ああ、いい香りだ。
(これを食べたら彼も、元気になるかもしれないわ)
くつくつ煮られるスープの飴色の水面を見つめながら、ふと、有栖は自分がヒーローに、かまいすぎているような気がした。ヒーローをあまつさえここに運んだうえ、スープを作るなんて。だけれど彼の身体を見てはそうもいっていられまいと思った。彼の身体はボロボロだった。あちこち傷が膿んで、腫れて、黒く濁っている傷痕もある。消毒と簡単な手当てはしておいたが、それでなんとかなるはずもなかった。あんなボロボロになりながら、街のため人のため、闘ってくれている――。政治家や、マスコミの一部や警察などに、彼を悪く言う人がいることは知っていた。どこか他人事だと思っていた。しかし、彼の傷だらけの身体を見ると、それが間違いなのだと、有栖は悟った。
「ん......」
その時、ヒーローの形のよい唇が少し、ひらいた。本当に、半仮面を外したヒーローはかなりの美男子とみえた。目も深く、鼻梁は高く、唇は花のように艶やかだった。黒髪が耳にかかって、身体は傷だらけだがたくましい。二十五くらいかと有栖は見当をつけた。
「ん......サトコ......」
サトコ?
女の人の名前?
有栖がベッドサイドに寄って、ヒーローの声に耳を澄ます。ヒーローはうなされているかのように何度もその名を呟いた。
(彼女か、奥さんかしら)
有栖がそう思った、次の瞬間にはヒーローが目を覚ましていた。
「ん......ここは」
「私の家です。私を救ってくださってありがとう。あなたがその時に倒れたから、ここに運んだんですよ」
「そう、だった......すまなかったね」
ヒーローが起き上がろうとして、またベッドに倒れた。有栖が慌てて寄って、シーツをかけ直してやる。
「もう少し安静にしていて下さい。ひどい傷を負っているんですもの」
「しかし......うぐ......ああ、君」
呻き出す彼のそばに有栖が寄って、手を握る。ヒーローは細く呻き声をあげながら、こう言った。
「俺の、スーツの内ポケットから、薬を出してくれないか」
◆
ヒーローの痛みは、薬を飲むとおさまったようだった。ヒーローに、程よくさました野菜スープを食べさせてやる。スプーンでアスパラの小さく切ったのを、口元に運んでやると、ヒーローの顔色も少しずつ戻ってきたかのように思われた。
「すまない......こんなに、世話になってしまって」
「いいんです。あなたは私を救ってくれましたから」
それより。静かにスープを味わうヒーローへ、有栖が口を開いた。
「あなた、お薬を飲んでいるの?」
「......ああ」
「それは、強いお薬なのね?」
「......君は、勘がいいね」
それ以上ヒーローは何も言わなかったけれど、有栖には分かった。その薬はきっと肉体を強くするための薬で、スポーツでいうところのド―ピングのようなものだと。人を助けるために強くなって、そのかわり命をすり減らすのだと。
「ありがとう。世話になったね」
それから二時間ほど眠ったあと、彼はおもむろに立ち上がって、窓を探した。飛び立っていくつもりなのだ。その傷だらけの身体で。
「......あなたはそれでいいの?」
窓の珊に手をかけて、夜風にマントをはためかすヒーローへ、有栖がこう声をかけた。ヒーローが寂しそうに、笑った。
「いいんだ。みんなに笑ってもらうためには、俺はどうなっても構わないんだ」
◆
その日から、ヒーローは有栖の周りをパトロールしてくれるようになった。あの警官を逃がしてしまったから、お詫びのつもりだよ。とヒーローは優しい笑顔で言った。いつも傷だらけになって戦っているのに、自分の面倒まで......有栖は最初は心苦しかったが、そのうちに、彼の姿を見ない日が落ち着かなくなっている自分に、気が付いていた。いつの間にかヒーローも、時折部屋に招かれ一緒にお茶をするようになっていた。
その日も、二人で紅いソファの置かれたリビングで、温かい紅茶を飲んでいた。ヒーローは本当に上品に紅茶を飲んだ。目が合ったら微笑んでくれる。有栖もなんとはなしに嬉しくなる。
「ねえ、ヒーロー」
「ヒロでいいよ」
「いいの?」
有栖が尋ねると、ヒロはくすぐったそうに微笑む。
「それが本当の名前なんだ。名付けてくれた人も、呼んでくれた人ももういないけどね」
そうして一瞬暗い表情に変じた彼の様子を案じて、有栖が続けて問うてしまう。
「あの、サトコさんという方?」
「......君はつくづく勘がいいね」
ヒロが紅茶の小さなカップを白い長テーブルに置いた。
「サトコは妹なんだ。俺はこの国ではない、貧しい国の出身でね、そこでは厳しい王政が進んでいた。暴君であった王に逆らい、父も母も殺された。妹も国外に売り飛ばされて、どこにいるか分からない」
痛ましい、そう思った有栖の顔を一瞥して、ヒロは再び話し出した。
「この名はこの国が好きだった父がつけてくれたんだ。その父も無残に殺されたよ。それをどの国も、どの指導者も見てみぬふりをした。だから俺は、どうしても悪を見過ごすということが出来ないんだよ」
「......でも」
有栖はヒロの優しい、傷だらけの大きな手をとって、こう訊いた。
「ヒロは、心の癒しとか、愛とか、そういったものを欲しくはない? いつもヒーローとして血まみれで闘って、そんな傷だらけになって、いつかは......」
有栖はそう言いながら、いつかのまきと同じようなことを口走る自分を認めた。そうだ。あの時私は一言で言い捨てた。
「無理よ」
と。彼もまた、同じ気持ちなのだ。過去が私たちを地獄へとつないでいる。それから逃れるすべは、ない。過去を断ち切れたら、そうできたらいい。だけれど過去は絶対的に、現在と続いている。そして、このままいけば未来にも。
「無理だ。俺はこの手を血に染めすぎた。俺はこういう人生だったのだろう。だがね」
ヒロが少し、微笑を浮かべた。そうして、有栖を見つめた。
「有栖の淹れてくれる紅茶には、少し心揺らぐよ。これが俺がずっと探してきた、安らぎなのかもしれない」
この一言に有栖が胸をときめかせた。いけない。いけない。この人を、好きになってはいけない。悲しい終わりが待っているに決まっている。だけれど、それでも、私は――。
「しかし、やはり無理だ」
顔を赤らめる有栖に、ヒロが切ない表情を見せる。
「これが俺の運命だったんだ」
映画のストーリーなら、こんな悲しい展開などなかったろう。漫画のスーパーマンは、いつも意気揚々と敵を殺し、滅ぼし、にこやかに聴衆の手をとって、仰がれる。憧れ、ですべてが集約される。そのはためく朱のマントが、血色に深く染まっているのを誰も気づきもしないで。
「ヒロ、だけど、私、そばにいたい」
有栖はしばしの沈黙を持った後、はきとした声音で言い放った。揺らぐけれど、これが本心だった。傷を負いながら人のために戦い続ける、この人のそばにいたい。
「ダメだ」
強い調子で言い切って、ヒロが首を振る。
「君まで危険な目に遭わせる。敵が俺の恋人を見つけたら、何をしてくるかはわかっているだろう」
「じゃあ、せめて」
有栖はそれでもヒロの袖をとって離さなかった。
「私の前ではその仮面を脱いで。ただの人間であるあなたに、私は恋をしたのよ」
そのままヒロの唇にキスを落とす。ヒロは顔をほんのり赤らめて、首を振った。
「有栖には、かなわないな」
有栖は少し嬉しそうに頷く。
「ええ、そうあってね」
◆
それからヒロは、帰る家を有栖の家と決めたようだった。パトロールを終えて、あるいは戦闘を終えて、傷を負って帰る家は有栖の家だった。
「疲れたと思ったら、君のもとに帰りたくなってしまう自分が嫌だ」
二人で朝の光を浴びながら、スープを味わい、語り合う。
「本当はダメだとわかっているのにな。俺は人間ではないのに、こんな弱い自分が憎らしいよ」
「私はそういうあなたが好きよ」
有栖が焼けたデニッシュをキッチンから運びつつ、笑顔を見せる。有栖は正直だな、とヒロが苦笑する。
「こういう天国のような時間を持つと、あの地獄の日々を遠く感じてしまう」
「地獄の日々?」
有栖が小首をかしげて尋ねる。隣に座らんとする有栖の席をつくるように、長椅子よりヒロが身をずらす。
「俺は家族を殺され、拉致され、その後で孤児院に預けられた。だが俺の父は思想犯で王に逆らったいわば逆臣。その息子なら、どういう目に遭うかわかるだろう」
「......」
「ひどいもんだった。毎日続く陰惨な暴行、虐待――。誰に言えるわけもなく、ただ我慢をし続けて、みんな耐えた......だがそんな日にも終わりがやってきた」
ヒロが一度、言葉を切る。
「施設のみんなとは、仲良くなれた。みんな、いいやつだった。仲がよかった俺たちはある日、孤児院の奥の部屋に招かれた。そうして、注射針を持った男たちに取り囲まれて、それで、薬を投与された」
顔をゆがめるヒロが痛ましく、有栖はもう、いいわと言いたくなる。だが、こらえた。
「ひどい有様だった。みんなが痛い痛いと腹をおさえ、のたうちまわって血のあぶくを吐いているんだ。俺も血を吐いた。......生き残ったのは俺だけだった。俺は軍の新兵器の実験に使われ、生き残ってしまったんだ。院長は涙を流して喜んでいたよ。やった。モルモットが一匹、成功したって。後になって知ったが、その院長を俺は殺していたんだ」
「......それ、どういう意味?」
「......」
有栖が問うても、ヒロは返事をしなかった。
◆
「えー今、遊園地の観覧車前に来ています」
翌日、有栖は放課後、Ziマンの現れる遊園地に来ていた。まきと遊びに来ていて、偶然観覧車の壊れる事故が発生し、そこに居合わせた形になったのだ。円を描いた観覧車が強風にあおられ、止まっている。テレビのアナウンサーによれば操作盤の故障で、爆発の危険もあるという。観覧車のなかで震えるカップル、家族連れ。その一人ひとりに声をかけ、ドアを開け空を飛ぶZiマンが救出する。ミーハーなまきが声高に叫ぶ。
「Ziマン、すごい! きゃーこっち見たっ」
まきがZiマンに近づこうとして、観覧車のふもと、人込みの方へ走っていってしまう。それを有栖が追いかけようとして。
「君、九条有栖ちゃんだね?」
黒づくめの男たちに突然、声をかけられた。そこまでは覚えている。有栖はハンカチを口に押しあてられ、失神してしまった。
◆
0
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しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
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妻から手紙が来た。
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「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
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冷遇妃マリアベルの監視報告書
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シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
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王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
追放された偽物聖女は、辺境の村でひっそり暮らしている
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【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
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裏切られ続けた負け犬。25年前に戻ったので人生をやり直す。当然、裏切られた礼はするけどね
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その後は負け犬人生で冒険者ギルドの雑用として細々と暮らしていたのだが。
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