悪戻のロゼアラ

yumina

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トワとラゼル

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 俺は反省した。
 今回は穏便に無難に人生を送りたい。せっかくのやり直しなんだから。
 ぼっちで生きる。ウチは幸い公爵家。放っておいても金は舞い込む。食い扶持には困らない。領民のみんな、ありがとう。そっちで何か困った事が出た時は出来るだけ早急に解決に向かうからね。
 俺は一人息子だから、公爵家の跡継ぎの問題もあるけど、そもそも俺はオメガとして産まれて来たから、両親もそこは早々に妥協している。
 俺が入婿を貰って子供を作るか、または何処かの貴族に嫁にやって嫡男以外の子に公爵家を継がせるか。そのどちらも望めない場合は親戚筋から養子でもとれば解決よ、と軽い感じで両親は笑っている。俺はこの二人が大好きだ。

 巻き戻し前の人生は、ラゼルと結婚して大公家に嫁入りした。
 学校を卒業した次の日に入籍して俺が死ぬまでの十五年間の結婚生活で、俺はロゼアラ一人しか産めなかった。
 男オメガは身体の構造上、出産時に負担が大きく、これで身体を壊し次が望めない男オメガは多いらしい。でも俺はそんなんじゃ無くて…。

 まずは過去に起きた出来事を時系列で整理してみる。
 昼間のようなポカをして不必要に目をつけられては俺の生涯ぼっち計画に狂いが生じるかもしれない。回避行動は慎重にだ。

 俺は自室で、机の上に引っ張り出した真っ白な紙に、巻き戻し前のこれから起こる出来事を書き出していった。今日の反省からしっかり頭に入れとかなきゃ。
 これ、記憶が戻ったその日のうちにでもしないといけない大切な事だったような気もするけど、自分の悲惨な死に際にショックを受けてそれどころじゃ無かった、と言い訳。
 巻き戻った過去の記憶があるとはいえ、全部のことを細部までは思い出せないし、俺が死んだ後の事まで何故か知っているおかしな状況だ。
 だから俺の頭は、上手く処理できてない。全体像が大まかにわかるだけだ。
 その過去の流れを順を追って俯瞰的に見ることができれば、少しは整理もできる筈じゃないだろうか。

 まずは、今時点で俺は王立学院二回生、先月十七歳になった。
 この学校は三年制の貴族子息専用の教育機関で、ここで俺達は様々な専門的な学問を学ぶ。将来国に士官するための学校だ。因みに一般教養レベルの事はこの学校に入る前にそれぞれの家で家庭教師から学ぶのが常。俺もみっちり叩き込まれた。家を継ぐ嫡男にはあまり意味のない場所だが、人脈作りに適しているということから、この国の貴族の息子は軒並みこの学院の門を叩くのが通過儀礼みたいになっている。
 季節は五月。二回生に進級して初めての試験が一昨日と昨日の二日間。
 フリュウが転入して来たのは試験初日の二日前。ここまでがおさらい。

 これからの事は、巻き戻る前の俺が経験した未来。今の俺には過去の出来事になる。ややこしいな。
 俺とラゼルが結婚したのは学院卒業の翌日。十八歳。
 その二年後ロゼアラ誕生。二十歳の時。
 俺が二十一歳の年、フリュウが立太子される。この時に初めて彼の生い立ちが世間に明かされる。
 フリュウの腹違いの二歳上の兄、第一王子ハール殿下は十代の頃から滅多に公の場に姿を見せなくなった。
 フリュウの立太子と時期を同じくして表舞台から消えた。その後、消息不明となる。
 現王が崩御し、フリュウが新たな君主として即位したのは、俺が三十歳の時。評判は悪くない。若い頃の破天荒な振る舞いを人々は覚えていたが、庶民に寄り添う施策と気さくな人柄、彼の治世は国民に支持され概ね順調だった。
 三十四歳。俺の享年。当時十四歳のロゼアラ…。

 ここから先は、俺の死後のこの国の出来事。

 俺の死後、程なくして大公家・俺の実家の公爵家が共に取り潰し。国の歴史から初めから存在しないものとして取り除かれた。
 国内に不穏な空気が流れ出した。
 内政が荒れだし、税金が跳ね上がり国民は過酷な税の取り立てに喘ぐ。
 ある勢力がのさばり出し、王宮を席巻し始める。
 国王フリュウの乱心により国は終末の一途を辿って行った。
 
 俺が死んだ後のこの国の事はもしかしたら俺の頭が勝手に捏造した話かも知れない。俺が直接知ることのできない出来事を知っているという時点で矛盾なんだからそれは充分あり得る。
 現国王は穏やかで周辺国と良い関係を維持している。治世は安定して平和そのもの。そんなこの国があんな惨劇に見舞われるとは俄かに信じられない。
 けれど、思い込みというには、細部にわたる出来事や繋がりに破綻がない。この国の滅亡はまるで一本の綺麗な流れの破滅譚。俺がこんな話をでっち上げれるのか?
 無理だ。即座に否定できる。
 だからこれは何かの意思が働いて俺にこの国の危機を知らせているんじゃないかと、そんな仮説を立てていた。そしてそれは正しい気がしている。この国が辿った行く末は信じたくはないけれど……

 この国の晩年、王宮を侵した勢力ってのは、とある存在を神と崇めるなんらかの集団。俺の頭の中にある情報ではそれが何か、彼らが何処から現れたのか詳細は謎のままだ。でも彼らが崇める神っていうのはロゼアラ──、正しくはロゼアラを偶像として祀りあげる一団だ。
 ロゼアラはフリュウに取り入り、フリュウを意のままに動かす傀儡にした。
 常にフリュウの側にロゼアラが寄り添い、そして訪れる国の終わりの時。

 俺の記憶はここまで。
 この先この国がどうなったのかは不明だ。でもあの荒廃ぶりだと王朝の復興は無理だろう。

 あの勢力の目的が何だったのか結局分からず終いだし、中途半端な感じは否めない。けど、ロゼアラがこの国を混乱に陥したのは間違いない事実。国力を削ぐために各地で理不尽な殺戮を指示したのはこの勢力。その号令はロゼアラを介して扇動され、フリュウにより実行された。
 
 犠牲になった無辜の民は、国の半数以上に及ぶ。ロゼアラは人類史上類を見ない大虐殺を行った人間となった。

 俺を手に掛けた後の、これがロゼアラの行き着く先…。

       ※ ※ ※ ※
 
 重すぎる…。
 こんな未来に、絶対にしちゃいけない。
 俺が誰とも結ばれず独りでいる事でこの破滅の未来が変わるのならいくらでも協力する。自分の為でもあるけれど、この国の行く末を憂う気持ちも俺にもある。
 けどやはり俺が知っている未来を今の時点でフリュウには伝える事はできないという結論に至った。あいつに余計な関心を持たれたくないんだ。
 俺はロゼアラを産む事なく今回の人生をやり過ごす。ラゼルは無論のこと、他の伴侶を作る事も禁止だ。俺が産んだ子供というだけで、ロゼアラでなくともロゼアラに近い存在となる気がして、それが俺は怖い。
 出来るだけ他人に関わらない。ラゼルは言わずもがなだけどフリュウには特に。
 あいつは結婚後の俺を口説いた事がある。当時の俺とラゼルの冷えた夫婦仲は公然の秘密だったしあわよくばというやつだったのだろう。俺は靡かなかったけど、巻き戻し前の学院時代はラゼル絡みでよく顔を合わせていたし、そこそこ親しくはなっていた。それがあいつに興味を持たれるきっかけだとするとやはりあいつとは接点を持たない方が安全。

 子供を持たないという、俺一人の力で解決できる事があるのだから、俺はそれに賭けたいんだ…。
 
 
       ※ ※ ※ ※


 部屋のドアをノックする音がして俺は現実に戻った。
 手元の凄惨な未来の箇条書きに心がどこかに行ったままだった。もう夕方なのに明かりもつけない薄暗い自室で机の前で無為な時間を過ごしていた。
「誰?」
 普段ならノックの後に名前を名乗り入室の可否を聞いてくるのだが、一向にそれが無い。不審に思い、俺は誰何してみる。
 執事もメイドも従者のアスターも、不調法な使用人はここには居ない。唯一両親は名乗る事はしないが、その代わり気を使うこともないのでノックの後に問答無用で部屋へ乗り込んでくる。思春期の息子の部屋を訪ねるには間違った作法だとは思うけど。
 その、どちらにも当てはまらない状況に俺は首を捻る。
 まだ夕方でもあるので物取りの賊という物騒な線は無いよね。
「誰なの?」
 再度の俺の問いかけにドアの向こうから思いもよらない声が響いた。
「俺だ」
 俺は立ち上がって急いで扉を開いた。
「ラゼル⁈ どうしてここに?」
 目の前にはいつもよりは少し表情の見える顔をしたラゼルの姿。
 一人で案内係も付けていない。
「気を使いたく無いからここへ一人で来ることの許可を夫人に貰った」
 きょろきょろ周りを見る俺にラゼルが説明してくれる。なるほど、気を使いたくなかったからか。
 一体何の用事だろう…。
「…えと、俺の部屋で良ければ入って。お茶を用意させるよ」
 戸惑いながらも部屋へと招待する。
「懐かしいな。家具の配置、全然変わってない」
 今度はラゼルが辺りを見回す。ラゼルがこの部屋へ来たのは学院に入る前、二年も前だ。
 学院に入る前は都合が合えばお互いの家を通い合ってた。あの頃は本当に仲が良かったよな…。
 それにしてもどういった風の吹き回しだろう。
「あ、そう言えば、昼間はありがとう。ラゼルが俺を救護室まで運んでくれたんだってね。先生から聞いたよ」
「そうか。身体の調子はもういいのか?」
「家に帰ってからゆっくり身体を休めたからもう平気。ここまで来てくれて嬉しい」
 そう言うとラゼルは本当に何年かぶりに俺に微笑んでくれた。あんなに会いたいと願っていた相手のこれまた珍しい仕草。俺がしばらく見惚れちゃったのは当たり前の事だよね。

「どうして今日は食堂に来なかった」
 お茶が届いてから一人掛け用のソファにそれぞれ座って、お互い無言で紅茶を飲んでいた時。ラゼルが口火を切った。
 しかも疑問では無くちょっと責める口調。
「えっと、それは…」
「試験前のあの時から様子が変わったな」
 カップを口に運びながらチラリとこちらを伺うラゼル。
「あ、ごめん。あの時はろくに説明もしないまま走って帰っちゃって」
 実はあの時の事を何の弁明もしていない。その後もラゼルと会うのを避けまくってたのでそんな機会もなかった。でもラゼルが気にかけてくれているとは思わなかったからなんだか新鮮。
「あの後、用事を済ませてこの屋敷を訪ねたんだ。門前払いされたが」
「え? そうなの?」
 聞いてない。父上の仕業だろう。父上はラゼルを大公家の小倅と呼ぶくらい嫌ってる。以前の俺がラゼルへの不満を溢していたからかな。親バカはありがたいけど、大公子息相手にほんと度胸があるっていうか。
「お前はもう休んでるって説明されたから諦めて帰るしかなかった。その後はお前は下校時間になってもいつものように顔を見せないし、今日は食堂に来なかった」
 それは、約束しているわけじゃないから、それと意図して避けてるから。
 あの時、過去を思い出して、混乱してたのもあるけど、俺はラゼルの存在に怯えた。握られた手首から伝わるラゼルの体温にすら恐怖した。
 ロゼアラの父親。
 俺とこの国の破滅に大きく関わっている。
「気になって探しに行ったらお前はあいつに押し倒されて気を失っているし」
 え? 俺のことわざわざ探しに来たの? あんな人気のない敷地の外れまで?
「…無理強いされようとしてたのか」
「違う!」
 即座に否定。そんな誤解をラゼルにされたくない。
「じゃあどうしてあんな事になっていた。フリュウを問い詰めても口を割らなかった」
「それは、行き違いがあって、あいつを怒らせたから」
 語弊があるけど今はラゼルの追求を躱わす方が先。また口を滑らせてややこしくしたくない。
「怒らせた?」
「うん。…ほらあいつって生意気じゃない? だからちょっとここでのルールを教えてやろうと思ったんだ。でも逆上しちゃって。アルファはすぐに力に訴えるから狡いよね。あ、ラゼルは別だよ」
 ソファの上でふんぞり返って脚を組み直す。これ、今までの俺。公爵家の権威を傘に着て邪魔者を消すばか息子。ラゼルに媚びる事も忘れない。いつもこうやって思い通りに生きて来た。
 内容を吟味しなかったから返り討ちにあった情けない嘘になったけど、取り敢えずラゼルが納得してくれたら贅沢は言わない!
「お前は向こう見ずだ。あいつには関わるな。あいつだけじゃない。いい加減相手を考えず喧嘩を売るな。今まではどうにかなっていたかも知れないが、いつまでも無傷では済まないぞ」
 フリュウ相手なら確かに痛い目を見るのはこっちだろう。なんせあっちは王族。公爵家の権威も及ばない。それを踏まえて忠告してくれているのだろう。
 ラゼルはフリュウの従兄弟で、学院内ではお目付け役兼躾係をフリュウの父親である国王陛下から直々に命じられていることを今の俺は知っている。俺と揉めて騒動になる事を懸念して釘を刺してきたんだな。
「うん。気をつける。俺も大人にならないとね」
 ペロッと舌を出す。
 よし、どうにか誤魔化せた。
 それにしても変な空気だな。
 なんか怒ってない? 不機嫌というか。俺に釘を刺しに公爵家までわざわざ足を運ばせて手間かけさせたからか?
 それだな。他にも今まで散々迷惑かけてきたし積もり積もったなんとやら、だ。
「あの。今までごめん。俺、見境なくて。これからは弁える。ラゼルの周りをうろちょろしない。たくさん迷惑かけて今更だけど反省した。だから、ラゼルはもう俺の事に頭を悩まさなくていいからな…? ほら、今大人になるって言っただろ? すぐ実行!」
 ちょっと不自然になったけど、言いたいことは伝えられた。
 これで終わり。幕切れは呆気ない。
 未来を変える事は本当に簡単だ。
 俺が諦めるだけでいいのだから。
 ラゼルは俺にもともと比重を置いてない。
 俺はラゼルの事を好きなままだけど、未来を知った俺はもう以前のようにラゼルを追いかけてはいけない。これでラゼルも俺から解放されて肩の荷が降りたことだろう。お互い歓迎すべき状況なんだ。
「何だそれ」
 けど返事は予想と違った。
 言い回しが何となく乱暴。らしくない…。
「飽きたらさっさと鞍替えか?」
 不愉快そうに眉を顰めた。
 ん? ん?
「ごめん。何言われてるかわからない」
 俺の執着が無くなってむしろ万々歳の筈じゃ無いの?
「よほどあいつが気に入ったみたいだな。お前があんな真似をされて大人しく引き下がる奴じゃない事は俺は知っている。それが今回に限ってそんな殊勝な事を言うんだ。昼間助けたのは余計な世話だったか?」
 はい?
「ラゼル?」
「だがな、トワ。お前は俺のものだ。それを忘れるな。今日のようにこの先俺以外の男の匂いを移されるな。次同じ事を繰り返した場合、それなりの覚悟をしておけ」
 それなりって何? 俺はどんな覚悟をしたらいいの⁈
「今日はそれを伝えにきた。明日から昼はきちんと食堂へ来い。一緒に昼を食べるぞ。これまで通り」
 そう言うとラゼルはソファから立ち上がってさっさと部屋から出ていった。
「ラゼル? ちょっと、待てよ…」

 何なの?
 ラゼルがおかしい。
 あんな事を言うタイプじゃ無かった。
 他の男の匂いをつけるな、なんて。
 俺の中の乙女心を弄びにきてるのか?

 俺とラゼルの結婚は政略だった。
 俺の方はラゼルに夢中だったけど、ラゼルはそうでない。それでも俺たちが結婚したのはいろんな要因が絡んでの事だ。
 だから結婚後もラゼルの俺に対する扱いは変わらなかったし、ロゼアラが産まれてからむしろ悪化したようにも思う。徹底して俺に冷淡な男だったのだ。

 それなのに何故、今、ラゼルは俺に期待を持たせるような事を言うのだろうか。気まぐれにしても酷い。
 俺はもう二度とあんな思いはしたくない。我が子の手に掛かることも、あの辛かった結婚生活も。
 俺はそっとロゼアラに切り裂かれた鎖骨辺りに手を伸ばした。


       ※ ※ ※ ※


 翌日、登校したらその噂は早々に俺の耳に入ってきた。
 送迎の馬車から降りて、門をくぐり、エントランスホールに付く前までにだ。
 …皆んな俺に聞こえるように言ってるんだよね。俺の日頃の行いだなぁ。
 噂の中身を要約すると、ラゼルが俺をお姫様抱っこで救護室に運んだ、美人だけど中身が残念なオメガを巡って転入生アルファと何か一悶着あったらしい、だ。
 悪かったな、残念で。
 今、俺はその汚名を返上しようと奮闘しようとしてるんだ。なるべく静かに見守っていてほしい。
 でも。
 やっぱり悔しい。お姫様抱っこ! 何という勿体無い事を。そこは意地で意識を戻すとこだろう、俺!
「お前、何やってんだ。相変わらず挙動不審な奴だな」
「フリュウ!」
 往来のど真ん中で拳を握って立ち尽くす俺の前に立ち塞がる金髪アルファ。
 俺は身構える。
 昨日といい、俺が挙動不審ならお前は神出鬼没だよ。
「あー、昨日は悪かった。加減がわかんなくて……。少し頭に血が昇った。最近神経質になりすぎてるから」
 バツが悪そうに謝ってくる。
 珍しい。アルファが先に折れてくるなんて。ラゼルといい、晴天の霹靂の連続だ。俺は空を見上げた。
 雲ひとつない快晴。清々しいなぁ…。
「いや、誰にでもそんな時はあるよ。俺は気にして無いから」
「だけどあの事は別の話だ。お前まさかなあなあでやり過ごす気でいるんじゃ無ぇだろうな」
 ジロリと睨みつけてきた。
 …ですよね。
「お、俺は誰にも喋らないから。って言うか話す相手なんて居ないから! 俺はこの通り友達居ないし、そもそも誰とも関わり合いたくないし」
「奴以外にだろ」
 何故か面白くなさそうな顔をしている。
 昨日からの流れでフリュウの言う奴がラゼルを指しているとわかった。
「ラゼルにも。もう誰とも関わらないって決めたから。だから安心して」
 ただの口約束を信じてもらうには知り合ったばかりでお互い信頼もないけど今の俺にはそう言うことしかできなかった。
「信じられねぇ」
 まあ、そうだよね。これまでの自分の悪評を考えれば弱みを握られたとか、その場しのぎの嘘であしらってるとしか見てもらえないか。
 この状況を解決するのはやはり難しい。本来なら知り得ない事を知っている理由はあり得ないし。
「あいつはお前に執着してんじゃねぇか」
 ん?
 何か聞き慣れない言葉が出てきた。
 幻聴かな。
「なんだ? その、今初めて知りましたって顔は」
「いや、他人様ひとさまから初めて言われました…」
 今まで、無理目のアルファに執着する痛オメガと陰口を叩かれることはあったけど、その反対は無かった。
 新鮮だな。照れる…。
「なにニヤニヤしてんだ。俺はそのせいで昨日酷い目にあったんだ。話が違うじゃねぇか」
「酷い目?」
 そういえば一悶着あったと言ってたな。
「くそ、アイツ、如何にも興味なさそうだったのに、あんなに豹変するとか詐欺だろ」
 遅れをとったのか悔しそうだ。
 俺は気を失っててその時の事を何も知らないが、フリュウ相手にラゼルは何をしたんだ。ちょっと興味あるな。
 その時、フリュウの俺を見る視線が鋭くなった。
「でもそうだな。お前を俺のものにしたら一泡吹かせられるかもな」
 悪企み顔でフリュウの手が俺の頭に伸びてくる。
 突然の行動にぼんやりその動きを眺めていたら、指先が髪に触れる寸前、急に後ろから誰かに片手で抱き込まれた。
 フリュウの手の範囲から強引に遠ざけられる。
 背中がぶつかった。倒れそうになって蹈鞴を踏んだら、前に回された腕がしっかり俺を支えた。
 この匂いは…
「昨日、言ったよな。他の男を近寄らせるなと。もう忘れたのか?」
 耳元に聞き馴染んだ低くて甘い響き。
 ラゼル…。
 フリュウは舌打ちして両手をズボンのポケットに突っ込んで悪態をついている。
「お前、タイミング良すぎ。コイツのこと見張ってんのか?」
 挑発するような目を向けるフリュウ。
「お前にも昨日警告した筈だ。コレに手を出すならそれ相応の覚悟でいろと」
 それを真正面から受け止めるラゼル。
 お互い睨み合って一触即発の緊迫状態。ラゼルが珍しく好戦的だ。アルファ同士の威圧って迫力が違う。
 な、なんか、俺の事を争って威嚇しあってるぽい、みたい、じゃん?
 定番のあのセリフが似合うようなこの場の雰囲気にすっかり俺は混乱。
 成り行きをハラハラして見守っていたら、ふわりといつもより濃いラゼルの匂いが鼻をくすぐった。抱き込まれているせいだ。
 俺はクラリとなった。
 ラゼルの匂い……凄く気持ちいい! 
 ラゼルの体臭に俺は弱い。俺にとって媚薬みたいに思考を酩酊させる。ラゼルの近くにいるだけで多幸感に包まれ、俺はまともに頭が働かなくなるのだ、昔から。
 もっと嗅ぎたい。
 身体全部に取り込みたい。
 深呼吸だ、この状況を無駄にするな、俺!
「へぇ、お前本当にそいつにマジなんだ。今までつれなくしてた癖に、そいつから三下り半突きつけられたら必死に追いかけて不様なもんだな。おい、トワ。はっきり言ってやれ。もうこいつになんの感情も持ってないって。お前さっきそんな事言ってたよな……っ⁈ なんだ、この甘ったるい匂い⁉︎ コレってオメガの…」
 目の前でフリュウが腕で顔を庇って一歩後ろに下がった。
「トワ?」
 俺の背後からラゼルの呼ぶ声。
「ら、ぜるぅ…」
 何だか身体が熱い。
 目にも力が入らなくて瞼を開いておくことが一苦労。鼻の奥もツンッとして息苦しい…。なんだか全身火照ってる…。
「おいっコイツ発情してんじゃねーか⁈」
 フリュウがなにか喚いてるけど、頭に入らない。俺は後ろを振り返ってラゼルの身体に抱きつく。
「ラゼルの匂い、好きぃ。もっとぉ…!」
 ラゼルの厚い胸に鼻を寄せてラゼルの体香を深く嗅ぎまくる。
 甘い香りが俺の身体を満たして、幸せな気持ちが止まらない。
「……っ」
 ラゼルの身体が一瞬硬直した気がするけど俺は構わず何度もラゼルの懐に顔を擦り寄せて擦り付けた。あまりの心地良さに目頭まで熱くなって目が潤んできたのがわかる。
 俺はラゼルを見上げ強請った。
「ん、気持ちい…。もっと匂わせて? ラゼル、大好き……」
 
 俺は登校時の人混みの中、外聞もなく発情ヒートを起こすという大失態を犯してしまっていた──。
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