マトリョシカ

アジャバ

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悪魔の囁き(二)

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 正午に飲み始めて、日の暮れてしまう前に、私たちは祭りの会場から引き揚げた。

 その大きな理由は、伊藤が酔いつぶれた事にあった。伊藤は自らの上機嫌から、私達の止めるのも構わずに日本酒を飲み続けた。次第に、言葉がうつらうつらしてきたかと思うと、押さえようとしても再び胃に収まる事を良しとしない吐瀉物が、膨らんだ口から噴水の様にして秋の空を舞ったのである。
 彼の周囲数メートルから人々の雑踏は遠ざかった。彼を忌む視線が私達にも向けられるようになると、私達はどうにもその場に居られなくなった。彼はと云うと、少し気分も回復したように見え、赤色を通り越してやや青色に変わってしまった顔をして静かに眠りに着いた。彼に友人のいない意味をしみじみと感じながら、静や高橋と顔を合わせて大声に笑った。

 幸福の中においては、不意のハプニングさえ良き思い出となり得るのだ。私は、伊藤の失態を見ても笑っていられる静の寛大さに益々好感を強めた。

 そんな理由に拠って私達は場所を高橋の家に移した。

 私と高橋で伊藤を懸命に担ぎ上げて(彼は大柄な男であったから、その苦労の程は並大抵ではなかった)、マンション六階にある高橋の部屋へ上がった。高橋は大層几帳面な性格であるから、一人暮らしの部屋も綺麗に整頓されていた。
 汚れた伊藤を風呂場に押し込むと、残る三人はコンビニでビールを買い込んで改めて乾杯をした。このような場合、人数が減るに連れて話は親密な方向へ向かうものである。私は、愛すべき彼女の話を、高橋もまた、同様に愛すべき彼女の話を、そして、静も恋人の居る事を話した。実の所、特定のパートナーが不在であるのはかの伊藤だけであった。私は彼に同情し少しだけ信頼と好意とを回復させておいた。

 少し時を経て、やがて高橋もベッドに横になるとその重たい目蓋を閉じた。伊藤に付き合って、彼も相当な量のアルコールを摂取したはずである。高橋には眠るだけの権利があったと思われた。

 取り残された私と静とはぎこちなく会話をした。私とて、このように二人きりになるとは予想もしていなかったのである。彼女に対しての多大なる好意が円滑なる会話を阻害した。それでも、私は幸福に火照っていた。就職先の話やら、卒業論文の話など、他愛無い事を話す内に日が落ちて部屋の中は薄暗くなっていった。

 窓外には薄っすらと満月が掛かっていた。

 私は、暫し彼女の方を見る事をせずにその満月を見つめていた。暗き部屋に男と女、充満する酒の匂い、時折聞こえる烏の鳴き声…私はそれらに真っ向から対面する勇気がなかったのである。静は…と、私が満月から部屋に視線を移すや否や、すぐ近くに、互いの肌の匂いを嗅ぎ取れる程近くに、彼女の輪郭が浮かび上がったのである。
 胡坐に座る私の足の上に、四つん這いに乗りかかるようにして、静は上目遣いに私を見つめて微笑んでいた。窓外から斜陽に差し込む月明かりに照らされて、静の笑顔は艶やかに美しかった。私は不意に、イチョウの下の彼女の笑みを思い出す。あの悪魔のように魅力に溢れた、悪戯な笑みを…。途端に私の鼓動はスプリング・ボードの様にして跳ね上がった。そして、間抜けな問いをした。

 「どうしたの?」

 「そういう気分なのよ。」

 私は彼女の顔を見る。さも冗談らしく、さも本当らしく、彼女の視線は私の瞳の奥を射抜いていた。

 「彼氏、いるんだろう?」

 「こんな女は嫌い?」

 「ほら、高橋も、伊藤もいるし。」

 「あら、居たらどうして駄目だっていうの?」

 彼女の言葉の一つ一つは強力な興奮剤の様に私の理性をぐら付かせていく。静はもう一歩と自分の体を私に近付けた。気のせいか、私の鼻に金木犀の香りが充満していく。それは丁度あのデッサン会の時と同じような香りであった。

 「はしたないよ。」 

 「はしたない? それは、あなたのアイデアなの?」

 「そうと云えば、そうかもね。」

 「つまらない男なのね。」

 静はそう云って体を起こし、頬を少しだけ膨らませた。それから、満面に笑みを浮かべると、着ていた白いブラウスのボタンを、上から順に、そして正確に外していった。

 「僕には、恋人が居る。」

 外されたボタンは三つを数え、中から桃色のブラジャーに包まれた豊満な乳房が現れた。

 私の視線はその一点に注がれる。この異様な空間に居て色欲に酔わぬ男など何処にいるだろうか。私の股間は痛いほどに膨らんでいた。静は、その繊細なる左手を私の右胸にそっと置いて、耳元で艶やかに囁いた。

 「ねえ、知らないって事は、なかった事と一緒なんだよ。」

 その言葉は、辛うじて保たれていた私の理性を打ち負かせた。同時に、ダムの様に堰き止められていた欲望が爆発して、私は遮二無二、静をその腕に抱き締めた。抱き締めた胸に静の鼓動を感じる。静の心臓はSnare drumみたいに私の胸を強く叩いた。

 静は美しき悪魔の様に、私の全てを奪い取らんが如く、甘い吐息を私の耳に聞かせた。お互いにもう自分を制する事が出来なくなっていた。その手綱をすべて彼女に捧げてやっても好い。彼女にならばすべてを投げ出してやっても好い。それ程に私は静を欲していた。静の柔らかな唇に私の唇を押し付けた。静は一瞬の躊躇いもなくそれを受け入れて、自らの舌を私の舌の上に這わせた。私も夢中で彼女の舌を吸った。静は小さく声を上げる。

 完全に日の落ちた真っ暗な部屋には男と女の性の匂いが充満し、舌を重ね合わせる卑猥な音、発情した犬の様に興奮した粗い呼吸の音だけが聞えていた。

 私は静の背中に手を回し、その桃色のブラジャーのホックを外した。闇の中、月明かりに微かに照らされて、静の乳房が上下に揺れるのが見えた。顔をその谷間に埋めて、訳も分からず両の乳房を揉みしだく。静は、呼吸をどんどん粗くして、私の右耳に舌を這わせた。今度は、私が間抜けな声を上げた。静の右手は私の乳首を、左手は私の膨らみ切った股間を絶えず愛撫する。夢かと思われる、甘美なる瞬間…。私は、静の最深部に手を伸ばす。

 もしも、私がファウストであれば、間もなく声を上げ叫んだだろう!

 この甘美なる瞬間に正面から向き合って「止まれ、お前は、いかにも美しい!」と。そして、静の割れ目に私の指が届いて、その濡れた陰毛に触れ、私の中の倫理やら道徳やら、大事な何かを守っていた最後の糸が切れんとした時、背後で誰かの動く気配がした。

 二人は慌てて離れ離れになり、その方を目を見張って見つめた。それは高橋の寝返る音であった。胸を撫で下ろすと、静は私に長い口付けをくれてから「今日は、ここまでにしましょう?」と云った。

 私は、汗に濡れて額に張り付いた、静の細い前髪を眺めた。視線を眉へとずらしていく。左の眉の終わりに、小さなホクロのある事を知った。

 そのようにして、二人の情事は交わされたのである。
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