マトリョシカ

アジャバ

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悪魔の囁き(三)

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 暫くして高橋と伊藤とが起き出すと、四人は連れ添って近くのラーメン屋で空腹を満たした。

 知らぬ間に雨が降ったらしく、コンクリートの地面は濡れて、街灯の光を反射させていた。

 「雨の日は、道路にこそ夜を感じるよね。」

 静は呟くように言った。彼女は再びあの清涼なる仮面を被っている。その向こうに悪魔の笑っている事は、この場において私にしかわからない。

 やがて一人帰路について、再び小雨の降り出した夜の中、新しく舗装された路を歩いた。彼女の言葉を思い出しながら歩く。足下のコンクリートがまだ固まっておらず、歩くと少し沈むのを足裏に感じた。新しく舗装された道ははるかに脚の進みは好いが、どうも沈み込むようで少し気味が悪い。それでも其処を歩かずにはいられないのが、我々人間の性なのであろう。

 私は、何処かで聞いた事のある罪人の話を思い出した。

 城の見張りを仕事としている非常に視力の良い男があった。ある日、世にも美しい女が城に向かって来るのを男は遠くに見つけた。そのあまりの美貌に、彼は来客の事を城主に伝え忘れてしまったのである。準備する暇もなく美女を出迎える破目になった城主は激怒して男を捕えると牢に入れたのであった。
 別日、裁判が行われると、男は饒舌にあの女の美しき事を語った。その弁は実に三日三晩も続けられた。女の美しい事を身の髄まで知り尽くした周囲の者どもは、城主もその例外ならず、男を無罪釈放に遣わそうとするも、法の番人たる裁判官は、冷徹なる死刑を求刑する。
 その翌日、城門には男の首が晒されていた。「美に酔いし男の罪は、重きなり」との立札と共に。

 「どうだ、己の云った通りだろう。」

 悪鬼は言った。其処に誇らし気な様子は一寸も無かった。むしろその俯いた表情は、何処か悲しそうにも見えた。

 「敷島を、一本くれないか。」

 私が言うと、彼は煙草を一本手渡してくれた。

 「ありがとう。」

 「お前も、結局の話己と同じなのさ。」

 「今日ばかりは、何も言い返すまい。」
 
 「或狂人の娘に魅せられて、その心根を根こそぎ持ってかれるのさ。」

 「きっと、違いないよ。」

 私は、生まれて初めての煙草を吸った。それは、私にとってはMarihuanaに変わりなかった。静は確かに悪魔に違いなかった。しかし、どうしても悪魔は人間にとって魅力的に過ぎるのだ。かのファウストが悪魔に心惹かれたのも、特段に可笑しい話ではない。ましてや、私のような、凡人など…。

 そのような考えを巡らせながら、小雨に向かいて煙を吸っては吐いた。私は、前髪で隠された静の左の眉の尻に、小さなホクロのある事を知ってしまった。

 それは、底なし沼に導かれる一歩目に違いなかったのである。
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