マトリョシカ

アジャバ

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チョコレート・シグナル(一)

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 静の温かな吐息が、私の耳元で聞こえる。

 静の肌は触れると表面がひんやりとしていて、指を沈み込ませる毎にその肉体の温度を測り知る事ができる。私は、彼女の二の腕に指を沈ませた。じんわりと低反発な彼女の肉体は、その美しく、その可愛らしくもある顔に似つかわしくもなく、間違いなく大人の女性であった。
 
 あの初めての情事から幾日も経ち、気が付けば町に雪のちらつく季節になった。

 私と静はあれから何度も体を重ね合った。しかし、それはいつも最後の一線を越えぬ事を約束としていた。であるから、私は、右手の人差し指と中指を持って彼女の中心を荒らして、その最も敏感な部分を舌の先で刺激する事で彼女を満たし、彼女もまた、私の中心を手で上下に擦り上げるなり、口に含むなりして、頂きへと導いてくれたのである。
 それでも二人は、情事に対しては、互いに一組の雄雌となる事に没頭し、性に目覚めたばかりの少年・少女がよろしく、処女と童貞に成り下がる様にして、夢中で相手を求めていた。

 「ねえ、早く。」

 静が、私に悪魔の口付けを与える。私はその魔力に導かれるがまま、彼女の足の間に顔を埋める。暫し経ち、彼女の喘ぐ音が漏れて聞こえて来た。

 三度目の情事からは静の部屋を逢瀬の場に選んだ。私の部屋であると、恋人が急に訪れてくる危険があったからである。静の部屋は閑散としていて、必要最低限の家財道具に、所々、センスを十分に感じるオブジェやら、絵画やらが置かれていた。それは、岡本太郎であったり、エッシャーであったり、時には、何処かのお土産であったりした。その冷淡とも言える温かみの無い部屋に、私は底知れぬ美を感じていた。
 枕元のサイドテーブルに、ロシア土産のマトリョシカがあった。柔らかな笑みを浮かべた小公女は、赤い頭巾を被って両手に黄色の花束を抱えていた。私はそのマトリョシカに、二人の情事のすべてを監視されているような気がしていた。

 鋭く高い声で鳴くと、静は三度目のEcstasyに達した。その名残で跳ね上がる彼女の腰、濡れた真っ白いシーツ、二酸化炭素ばかりの増えた室内…。頬を火照らせて、肩で息をしながら、彼女はこちらに向かってとろけるような眼差しをくれる。

 「次は、あなたの番ね。」

 ああ、私は、頭がおかしくなりそうなんだ。

 ほんの一時間も経たぬ前に、私は一度逝ったはずであるのに、その記憶に反して、脳の奥では再び彼女を欲して止まない。固くなった私の股間に彼女の呼吸が触れる。もう、駄目である。私は悪魔に平身低頭している。そして、それを、思考能力のすべてをもって、肯定せんとしているのだった。

 愛撫の限りを尽くして体力も底を着くと、二人はベッドに並んで横たわった。私は、その腕に玲を抱き締めながら、小公女のマトリョシカを眺めていた。

 「それ、母親に貰ったの。」静は、身を起こしてマトリョシカを手に取った。

 「私、マトリョシカは好きよ。可愛らしい女の子よね、マトリョシカって。何となく惹かれて、もっと知りたくなって、夢中でどんどん開けていくの。中身なんて無いって知っているのにね。これってまるで愛とか恋とかみたいじゃない?」

 静はマトリョシカを次々と開けていく。私はその様子を唯眺めていた。一つ、二つ、三つ、四つ、五つ、六つ。そして、七つ目の人形の中には空気の他に何も入っていなかった。

 「空っぽ、だね。」

 「私ね、キャベツとか玉ねぎとか、そういうものが好きだったりするの。中身は無いって知っていても、開けたくなるのはどうしてなのかしらね。」静は笑った。

 「それは、虚しくならない?僕なら中身にある何かを欲しがってしまうと思う。」

 「あなた、優しい人ね。」静は笑った。何処かその笑顔の中に、今まで見た事のなかった憂いを見た気がした。

ーー

 「静ちゃんは、いい噂を聞かないぜ?」

 私が、静の美しい事を語ると、高橋は同情するようにしてそう言った。

 「どういう事?」

 「うーん、誰とでも寝る女だって、そんな噂さ。」高橋は、言いづらそうに言った。

 「彼氏も居るのにね。ほら、彼女可愛いだろう?それで勘違いだけさせられて、捨てられて…。そんな被害者が何人もいるんだって。」

 「そうか、そんな気もしていたけれど。」

 「何かあったのか?」
 
 「いや、そう思っただけだよ。」
 
 「なら、いいけど。」高橋は、怪しむ顔をした。「何にしろ気を付けろよ、後戻りできなくなるぜ。」

 「わかってるよ。」

 あの日、彼女の本当の顔を見てしまった時、私はその事を自ら悟ったはずであった。であるのに、滲みこみ上げて来るこの感情は何だと言うのか。―怒り。そうだ、これは怒りである。静に対しての狂暴な怒りである。そして、彼女を抱く数多の男どもに対する怒りである。そうでなくては、これはどう説明付けられるのだろう。
 私は、彼女を狂人としてレッテルを深く貼り付けては禍々しい憎悪を抱いた。しかし、一方そこには必死に流れる涙を堪えようとする私もいた。

 私は彼女を深く憎みながらも、会う度にそのすべてを許す傲慢さで、また誘惑に覚えれてしまうに違いなかった。
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