9 / 14
チョコレート・シグナル(二)
しおりを挟む
静と会えない夜は、かつて叔父に貰った裸婦画に静の裸体を思い重ねて自分で自分を慰める。孤独の夜を越える毎に、屑入れには、虚しき欲望の屍骸が積み重ねられた。
静に出会ってからというもの、私はコンスタンの言う所、アドルフに違いなかった。私に無限の愛を注いでくれる、愛すべき恋人を悲しくも鬱陶しく感じ、二度と抱き締めようとは思わなかった。のみならず、何かしらの理由を付けては顔を合わせる事を避けるようになった。無意識にも彼女の笑顔を静の完璧な笑顔に重ねて、その決定的な欠点を見つけ出してしまうようである。彼女の外的要素のすべてを静に重ねて、嫌悪感は日毎に高まるのであった。であっても、私にはこの恋人を切り離す勇気が湧かなかった。彼女が私を心から愛してくれている事を知っていたし、何年も寄り添って身に染み込んだ情を解消する事ができなかった。私は、自身の弱さから、彼女の涙を見る事を恐れたのである。
ああ、アドルフよ。お前は、我々すべての男たちに、厳粛なる戒めの鉄槌を下ろしている。私はその本を手にした事を心から後悔した。世の中には知らなければ良かった事など山ほどある。殊に、自身の弱くって仕方の無い心根に関しては…。
その様にして流れゆく、或日の事。
すっかり体の慣れた静の部屋のベッドで、いつもと同じく愛撫を重ねて、二人は裸で並んで横たわって話をしていた。その日、静の部屋には、名前の知らないハーブ茶の香りがしていた。私は、何となしに、その香りを〈憂鬱〉と名付けてみた。
「憂鬱…。」私がその事を告げると、静は伏目がちに目を逸らした。
「どうかしたの?」
「いや、何でもないの。」
静は笑おうとしていたが、其処にいつもの十全たる面持ちは無かった。のみならず、その瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。私は狼狽える。唯、阿呆の様に、平身謝ったりして、低頭に「どうしたの」などと聞いた。
「前に、マトリョシカの話をしたじゃない?」堰を切ったように流れ出す涙に、鼻をぐずつかせながら、静は言った。「私、きっとそれに違いないのよ。」
「どうしたって言うんだ、君らしくも無い。」
「皆に、なんて言われているかも知ってるの。中身のない女だって。」
「そんな事ないじゃないか。」たぶん、と私は心内に自信が無くなり、やがて静の事は身体の他に何も知らないのだと気が付いた。
「そうに違いないのよ。私自身もそんな風に思って不意に不安になるの。一人の夜は、大泣きに泣きより仕方なくて…あなたに縋ったりして、それがいけないって言われてるのに。」
私にはもう成す術もなく、唯立ち尽くしていた。
「もうどうしようもないのよ。」静は声を荒げる。「私は、マトリョシカ!」
「この少女と何が違うっているの?外見ばかり人より優れているからって、私には、私には…何もないじゃない!…堪らないのよ、本当に堪らないのよ。」
そうして静は大声に泣いた。まるで赤子のように肩を震わせながらしゃくりを挙げて。私はどうしようも無く、温かな毛布を彼女の背に掛けてやって、その上から抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫だから。」
そんな頼りない慰めを、震え声で繰り返していた。
彼女の涙を目にした瞬間、私は、私の抱いていた怒りの名を知った。あれは、きっと嫉妬と呼ぶのであったろう。私は、静に対して、性的なる恋心のみならず、精神的にも恋心を抱いていたのである。
彼女は、―美しきメフィスト・フェレスは、とうとう私の魂までも食い滅ぼしてしまった。私は、静に多大なる愛を抱いている。その事を確信するのに、あの涙は十分に過ぎた。
静に出会ってからというもの、私はコンスタンの言う所、アドルフに違いなかった。私に無限の愛を注いでくれる、愛すべき恋人を悲しくも鬱陶しく感じ、二度と抱き締めようとは思わなかった。のみならず、何かしらの理由を付けては顔を合わせる事を避けるようになった。無意識にも彼女の笑顔を静の完璧な笑顔に重ねて、その決定的な欠点を見つけ出してしまうようである。彼女の外的要素のすべてを静に重ねて、嫌悪感は日毎に高まるのであった。であっても、私にはこの恋人を切り離す勇気が湧かなかった。彼女が私を心から愛してくれている事を知っていたし、何年も寄り添って身に染み込んだ情を解消する事ができなかった。私は、自身の弱さから、彼女の涙を見る事を恐れたのである。
ああ、アドルフよ。お前は、我々すべての男たちに、厳粛なる戒めの鉄槌を下ろしている。私はその本を手にした事を心から後悔した。世の中には知らなければ良かった事など山ほどある。殊に、自身の弱くって仕方の無い心根に関しては…。
その様にして流れゆく、或日の事。
すっかり体の慣れた静の部屋のベッドで、いつもと同じく愛撫を重ねて、二人は裸で並んで横たわって話をしていた。その日、静の部屋には、名前の知らないハーブ茶の香りがしていた。私は、何となしに、その香りを〈憂鬱〉と名付けてみた。
「憂鬱…。」私がその事を告げると、静は伏目がちに目を逸らした。
「どうかしたの?」
「いや、何でもないの。」
静は笑おうとしていたが、其処にいつもの十全たる面持ちは無かった。のみならず、その瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。私は狼狽える。唯、阿呆の様に、平身謝ったりして、低頭に「どうしたの」などと聞いた。
「前に、マトリョシカの話をしたじゃない?」堰を切ったように流れ出す涙に、鼻をぐずつかせながら、静は言った。「私、きっとそれに違いないのよ。」
「どうしたって言うんだ、君らしくも無い。」
「皆に、なんて言われているかも知ってるの。中身のない女だって。」
「そんな事ないじゃないか。」たぶん、と私は心内に自信が無くなり、やがて静の事は身体の他に何も知らないのだと気が付いた。
「そうに違いないのよ。私自身もそんな風に思って不意に不安になるの。一人の夜は、大泣きに泣きより仕方なくて…あなたに縋ったりして、それがいけないって言われてるのに。」
私にはもう成す術もなく、唯立ち尽くしていた。
「もうどうしようもないのよ。」静は声を荒げる。「私は、マトリョシカ!」
「この少女と何が違うっているの?外見ばかり人より優れているからって、私には、私には…何もないじゃない!…堪らないのよ、本当に堪らないのよ。」
そうして静は大声に泣いた。まるで赤子のように肩を震わせながらしゃくりを挙げて。私はどうしようも無く、温かな毛布を彼女の背に掛けてやって、その上から抱き締めた。
「大丈夫、大丈夫だから。」
そんな頼りない慰めを、震え声で繰り返していた。
彼女の涙を目にした瞬間、私は、私の抱いていた怒りの名を知った。あれは、きっと嫉妬と呼ぶのであったろう。私は、静に対して、性的なる恋心のみならず、精神的にも恋心を抱いていたのである。
彼女は、―美しきメフィスト・フェレスは、とうとう私の魂までも食い滅ぼしてしまった。私は、静に多大なる愛を抱いている。その事を確信するのに、あの涙は十分に過ぎた。
0
あなたにおすすめの小説
可愛らしい人
はるきりょう
恋愛
「でも、ライアン様には、エレナ様がいらっしゃるのでは?」
「ああ、エレナね。よく勘違いされるんだけど、エレナとは婚約者でも何でもないんだ。ただの幼馴染み」
「それにあいつはひとりで生きていけるから」
女性ながらに剣術を学ぶエレナは可愛げがないという理由で、ほとんど婚約者同然の幼馴染から捨てられる。
けれど、
「エレナ嬢」
「なんでしょうか?」
「今日の夜会のパートナーはお決まりですか?」
その言葉でパートナー同伴の夜会に招待されていたことを思い出した。いつものとおりライアンと一緒に行くと思っていたので参加の返事を出していたのだ。
「……いいえ」
当日の欠席は著しく評価を下げる。今後、家庭教師として仕事をしていきたいと考えるのであれば、父親か兄に頼んででも行った方がいいだろう。
「よければ僕と一緒に行きませんか?」
【完結】少年の懺悔、少女の願い
干野ワニ
恋愛
伯爵家の嫡男に生まれたフェルナンには、ロズリーヌという幼い頃からの『親友』がいた。「気取ったご令嬢なんかと結婚するくらいならロズがいい」というフェルナンの希望で、二人は一年後に婚約することになったのだが……伯爵夫人となるべく王都での行儀見習いを終えた『親友』は、すっかり別人の『ご令嬢』となっていた。
そんな彼女に置いて行かれたと感じたフェルナンは、思わず「奔放な義妹の方が良い」などと言ってしまい――
なぜあの時、本当の気持ちを伝えておかなかったのか。
後悔しても、もう遅いのだ。
※本編が全7話で悲恋、後日談が全2話でハッピーエンド予定です。
※長編のスピンオフですが、単体で読めます。
将来の嫁ぎ先は確保済みです……が?!
翠月るるな
恋愛
ある日階段から落ちて、とある物語を思い出した。
侯爵令息と男爵令嬢の秘密の恋…みたいな。
そしてここが、その話を基にした世界に酷似していることに気づく。
私は主人公の婚約者。話の流れからすれば破棄されることになる。
この歳で婚約破棄なんてされたら、名に傷が付く。
それでは次の結婚は望めない。
その前に、同じ前世の記憶がある男性との婚姻話を水面下で進めましょうか。
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
遠回りな恋〜私の恋心を弄ぶ悪い男〜
小田恒子
恋愛
瀬川真冬は、高校時代の同級生である一ノ瀬玲央が好きだった。
でも玲央の彼女となる女の子は、いつだって真冬の友人で、真冬は選ばれない。
就活で内定を決めた本命の会社を蹴って、最終的には玲央の父が経営する会社へ就職をする。
そこには玲央がいる。
それなのに、私は玲央に選ばれない……
そんなある日、玲央の出張に付き合うことになり、二人の恋が動き出す。
瀬川真冬 25歳
一ノ瀬玲央 25歳
ベリーズカフェからの作品転載分を若干修正しております。
表紙は簡単表紙メーカーにて作成。
アルファポリス公開日 2024/10/21
作品の無断転載はご遠慮ください。
二年間の花嫁
柴田はつみ
恋愛
名門公爵家との政略結婚――それは、彼にとっても、私にとっても期間限定の約束だった。
公爵アランにはすでに将来を誓い合った女性がいる。私はただ、その日までの“仮の妻”でしかない。
二年後、契約が終われば彼の元を去らなければならないと分かっていた。
それでも構わなかった。
たとえ短い時間でも、ずっと想い続けてきた彼のそばにいられるなら――。
けれど、私の知らないところで、アランは密かに策略を巡らせていた。
この結婚は、ただの義務でも慈悲でもない。
彼にとっても、私を手放すつもりなど初めからなかったのだ。
やがて二人の距離は少しずつ近づき、契約という鎖が、甘く熱い絆へと変わっていく。
期限が迫る中、真実の愛がすべてを覆す。
――これは、嘘から始まった恋が、永遠へと変わる物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる