マトリョシカ

アジャバ

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チョコレート・シグナル(二)

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 静と会えない夜は、かつて叔父に貰った裸婦画に静の裸体を思い重ねて自分で自分を慰める。孤独の夜を越える毎に、屑入れには、虚しき欲望の屍骸が積み重ねられた。

 静に出会ってからというもの、私はコンスタンの言う所、アドルフに違いなかった。私に無限の愛を注いでくれる、愛すべき恋人を悲しくも鬱陶しく感じ、二度と抱き締めようとは思わなかった。のみならず、何かしらの理由を付けては顔を合わせる事を避けるようになった。無意識にも彼女の笑顔を静の完璧な笑顔に重ねて、その決定的な欠点を見つけ出してしまうようである。彼女の外的要素のすべてを静に重ねて、嫌悪感は日毎に高まるのであった。であっても、私にはこの恋人を切り離す勇気が湧かなかった。彼女が私を心から愛してくれている事を知っていたし、何年も寄り添って身に染み込んだ情を解消する事ができなかった。私は、自身の弱さから、彼女の涙を見る事を恐れたのである。

 ああ、アドルフよ。お前は、我々すべての男たちに、厳粛なる戒めの鉄槌を下ろしている。私はその本を手にした事を心から後悔した。世の中には知らなければ良かった事など山ほどある。殊に、自身の弱くって仕方の無い心根に関しては…。

 その様にして流れゆく、或日の事。

 すっかり体の慣れた静の部屋のベッドで、いつもと同じく愛撫を重ねて、二人は裸で並んで横たわって話をしていた。その日、静の部屋には、名前の知らないハーブ茶の香りがしていた。私は、何となしに、その香りを〈憂鬱〉と名付けてみた。

 「憂鬱…。」私がその事を告げると、静は伏目がちに目を逸らした。

 「どうかしたの?」

 「いや、何でもないの。」

 静は笑おうとしていたが、其処にいつもの十全たる面持ちは無かった。のみならず、その瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。私は狼狽える。唯、阿呆の様に、平身謝ったりして、低頭に「どうしたの」などと聞いた。

 「前に、マトリョシカの話をしたじゃない?」堰を切ったように流れ出す涙に、鼻をぐずつかせながら、静は言った。「私、きっとそれに違いないのよ。」

 「どうしたって言うんだ、君らしくも無い。」

 「皆に、なんて言われているかも知ってるの。中身のない女だって。」

 「そんな事ないじゃないか。」たぶん、と私は心内に自信が無くなり、やがて静の事は身体の他に何も知らないのだと気が付いた。

 「そうに違いないのよ。私自身もそんな風に思って不意に不安になるの。一人の夜は、大泣きに泣きより仕方なくて…あなたに縋ったりして、それがいけないって言われてるのに。」

 私にはもう成す術もなく、唯立ち尽くしていた。

 「もうどうしようもないのよ。」静は声を荒げる。「私は、マトリョシカ!」
 「この少女と何が違うっているの?外見ばかり人より優れているからって、私には、私には…何もないじゃない!…堪らないのよ、本当に堪らないのよ。」

 そうして静は大声に泣いた。まるで赤子のように肩を震わせながらしゃくりを挙げて。私はどうしようも無く、温かな毛布を彼女の背に掛けてやって、その上から抱き締めた。

 「大丈夫、大丈夫だから。」

 そんな頼りない慰めを、震え声で繰り返していた。

 彼女の涙を目にした瞬間、私は、私の抱いていた怒りの名を知った。あれは、きっと嫉妬と呼ぶのであったろう。私は、静に対して、性的なる恋心のみならず、精神的にも恋心を抱いていたのである。

 彼女は、―美しきメフィスト・フェレスは、とうとう私の魂までも食い滅ぼしてしまった。私は、静に多大なる愛を抱いている。その事を確信するのに、あの涙は十分に過ぎた。
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