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チョコレート・シグナル(三)
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彼女は、そのマトリョシカのような心の、最も内側に潜む美しき人形の中に、甘かったり苦かったりするチョコレートをそっとしまい込んでいる。彼女の涙は私にその在処を告げていた。
人は人を分かろうとする時、相手の心に纏わりついた人形の形を模した殻を必死に開いていく。その試みはあまりに苦労を擁するものであるから、大抵が途中で投げ出したりしてその深淵を遠目に見る事さえ叶わない。その末に身勝手に「僕こそ彼女を知っているんだ」と、自分が最もその深淵に近づけた者であると言い張ってみたりする。そんな具合だから、如何に愛を語り合おうとも、そのふやけるような甘い言葉は、微かに空気を揺らす振動にしかなりえないんだ。
マトリョシカを破るその勇気ある試みの原動力たるものは、唯、本能的、快楽的衝動のみなのであろう。この一刹那、圧倒的な快楽的空間に居ながら、彼女の深淵から迸る涙を目撃した私は、恐らくは、彼女の奥深くに潜む甘味を、最も間近に感じられた一人に違いない。いや、もしかしたら、私も「僕こそ彼女を知っているんだ」と、自分が最もその深淵に近づけた者であると言い張る一人であるのかも知れない。
その様にして、彼女の純心を垣間見てしまった私は、最早彼女から離れる事が叶わなくなった。その果てにあるのが破滅だけだったとしても、私は彼女の心の殻を懸命に破ろうとするに違いない。そう、例え、彼女の悪魔のような微笑みがこの世に存在する男たちに全てに平等に与えられるものだとしても…。
静は泣き疲れると、私の胸に頭をもたげて静かに眠りに付いた。
私は静に出会ってしまうまで、自らの良心に大いなる自負を抱いてきた男であった。それが目前で眠る一匹の悪魔の手によって忽ち崩壊してしまったのだ。静の寝息に混じって、彼の静かなる冷笑が、耳元に聞こえてくる。
「だから言っただろう。良心など、数ある趣味の一つに過ぎないのだよ。」彼は詰まらなそうに窓辺に座り、今にも死にかけた小さな蜘蛛を少し迷って親指で殺した。
「いたのか。」私は呟くように言った。
「もう仕方があるまいから、数多の男とそいつを共有したまえよ。それを良しとして麻酔に掛かったように呆けた顔をして生きていくが好いさ。」
「嫉妬心が、それを許しそうにない。」私は、それを口にして、自らの内に迸る独占欲を確認した。
「見知らぬ男たち、であってもか?」
「どうもにも、駄目だ。」
「そうか。」彼は、冷笑を強める。「―お前は、あの女の言葉を思い出せぬようだな。」
「どういう事だ?」
「知らぬ事は無い事に同じであると。その言葉に頼って、お前は罪を犯したのではなかったか?」
私は返答をしなかった。いつしか、彼女の笑顔が私の為のみに存在していると、懸命に信じ込もうとしていたのだった。彼は私の口に敷島を押し込んで、その先端にマッチで火を点けた。
「数多はどうでも好いとして、あの男は、どうする?」
「静の彼氏の事か?どうもしないさ。」
「では、一生お前は二番手だ。ともすれば、三番、四番手かも知れぬが。」
「………」
「果たし、彼女は今、どんな夢を見ると思う。お前の夢?いや、違う。」
「………」
「彼女は、お前に抱かれていながら、愛する男に抱かれる夢を見るのさ、当然だろう?」
「………」
「お前など、誰が愛するものか。自尊心ばかりが強い、色欲狂いのお前など。」
「消えろ、もう何処かへ行ってくれ!お前は悪魔だ。」
「悪魔はどちらかね。いや、彼女ばかりではない、お前こそ、中身の無いマトリョシカではあるまいか?見ただろう彼女の純心を。ところが、どうだい、お前の心は何処まで行っても空っぽじゃないか。」
私は、言を失ったかのように放心する。彼は寂しそうに鼻を啜った。
「どうしたい、その男を殺すか、彼女を殺すか、それとも―お前を殺すのか。」
「………」
「お前が、この愛に走ろうとするのなら、それしか選択肢はないのだよ。」
人は人を分かろうとする時、相手の心に纏わりついた人形の形を模した殻を必死に開いていく。その試みはあまりに苦労を擁するものであるから、大抵が途中で投げ出したりしてその深淵を遠目に見る事さえ叶わない。その末に身勝手に「僕こそ彼女を知っているんだ」と、自分が最もその深淵に近づけた者であると言い張ってみたりする。そんな具合だから、如何に愛を語り合おうとも、そのふやけるような甘い言葉は、微かに空気を揺らす振動にしかなりえないんだ。
マトリョシカを破るその勇気ある試みの原動力たるものは、唯、本能的、快楽的衝動のみなのであろう。この一刹那、圧倒的な快楽的空間に居ながら、彼女の深淵から迸る涙を目撃した私は、恐らくは、彼女の奥深くに潜む甘味を、最も間近に感じられた一人に違いない。いや、もしかしたら、私も「僕こそ彼女を知っているんだ」と、自分が最もその深淵に近づけた者であると言い張る一人であるのかも知れない。
その様にして、彼女の純心を垣間見てしまった私は、最早彼女から離れる事が叶わなくなった。その果てにあるのが破滅だけだったとしても、私は彼女の心の殻を懸命に破ろうとするに違いない。そう、例え、彼女の悪魔のような微笑みがこの世に存在する男たちに全てに平等に与えられるものだとしても…。
静は泣き疲れると、私の胸に頭をもたげて静かに眠りに付いた。
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「だから言っただろう。良心など、数ある趣味の一つに過ぎないのだよ。」彼は詰まらなそうに窓辺に座り、今にも死にかけた小さな蜘蛛を少し迷って親指で殺した。
「いたのか。」私は呟くように言った。
「もう仕方があるまいから、数多の男とそいつを共有したまえよ。それを良しとして麻酔に掛かったように呆けた顔をして生きていくが好いさ。」
「嫉妬心が、それを許しそうにない。」私は、それを口にして、自らの内に迸る独占欲を確認した。
「見知らぬ男たち、であってもか?」
「どうもにも、駄目だ。」
「そうか。」彼は、冷笑を強める。「―お前は、あの女の言葉を思い出せぬようだな。」
「どういう事だ?」
「知らぬ事は無い事に同じであると。その言葉に頼って、お前は罪を犯したのではなかったか?」
私は返答をしなかった。いつしか、彼女の笑顔が私の為のみに存在していると、懸命に信じ込もうとしていたのだった。彼は私の口に敷島を押し込んで、その先端にマッチで火を点けた。
「数多はどうでも好いとして、あの男は、どうする?」
「静の彼氏の事か?どうもしないさ。」
「では、一生お前は二番手だ。ともすれば、三番、四番手かも知れぬが。」
「………」
「果たし、彼女は今、どんな夢を見ると思う。お前の夢?いや、違う。」
「………」
「彼女は、お前に抱かれていながら、愛する男に抱かれる夢を見るのさ、当然だろう?」
「………」
「お前など、誰が愛するものか。自尊心ばかりが強い、色欲狂いのお前など。」
「消えろ、もう何処かへ行ってくれ!お前は悪魔だ。」
「悪魔はどちらかね。いや、彼女ばかりではない、お前こそ、中身の無いマトリョシカではあるまいか?見ただろう彼女の純心を。ところが、どうだい、お前の心は何処まで行っても空っぽじゃないか。」
私は、言を失ったかのように放心する。彼は寂しそうに鼻を啜った。
「どうしたい、その男を殺すか、彼女を殺すか、それとも―お前を殺すのか。」
「………」
「お前が、この愛に走ろうとするのなら、それしか選択肢はないのだよ。」
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