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百合の棺桶(一)
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あの日から二人の逢瀬は、性的交渉の無いPlatonicなものに変わっていた。
二人が初めて出会った公園で待ち合わせ、取り留めのない事を話しながら散歩をした。散歩の終わりは、いつも静の住むマンションの前で、彼女は必ず「またね」とだけ言う。私にとってこの言葉は、「また会いましょう」と再会を約束するものでなく、「もう少し待ってね」とお預けを意味するものであった。しかし、それは私がそのように受け取ったと云うだけの話であって、彼女の本意は実際の所知れなかった。
一つ知れるのは、あの日以来、静が頻繁に憂き目を見せるようになったという事実である。
かつて、あれ程完璧に思えた笑顔も、今や苦痛に歪むように人目を避けるように淀んでしまっている。其処には、致命的なcomplexが紛れてしまっているに違いなかった。彼女は、自身は空っぽであると断罪した。そのようにして辺りを見回した時、静は「自分はあまりに孤独な女なんだ」と言う自覚を得なくてはならなかった。そして、如何に容貌醜い女であっても、静ほどに孤独である女は、他に誰一人とていなかった。
彼女は、自身の空虚さに深いcomplexを抱くのである。そして、そのcomplexを爆発させた引き金が、私などではなく、他の誰かに起因するものである事はあまりに明かであった。その誰かの穴埋めとして、私が選ばれていただけの事ある。何度も、「誰かの代役でもいいじゃないか」と自らの恋心をなだめたが、嫉妬に燃える恋心とは、実に厄介な代物であって、それを上手く鎮火する術は見当たらなかった。
「百合の香り。」
公園を出て民家の立ち並ぶ住宅地に入った時、何処かの家の庭に植えられていたのだろう、百合の香りがほのかにして、静が言った。その香りに誘われてか、羽虫が数匹ふらふらと空を漂っている。
「本当だ、こんなに寒いのに。」
十二月も半ば、初夏の花である百合の香りがする事を、私は不思議に思った。
「白百合は、聖母マリアの処女の象徴なのよ。」
「処女の象徴?」
「ええ、マリアは姦通する事なくイエスを身籠ったでしょう? だから彼女は美しいし、神聖なのよ。」
そう言って、静はくしゃりと音を立てて足下の落ち葉を踏んだ。私は、その落ち葉の下に居たかも知れない、小さな虫たちを気の毒に思った。
「それで、十二月にも栽培されているんだね。」
「そういう事。ねえ、百合の花で死んだ男の話、知ってる?」
「百合で自殺する話ならね。」
「そう、自殺。百合の花に囲まれて死んでいくって、何か素敵だと思わない?」
「少し、わかるよ。」
私は、大輪の百合が敷き詰められた部屋の真ん中で、ベッドに横たわる自身の姿を想像した。百合は私を殺そうと、妖艶な香りを放ち続ける。次第に部屋の酸素が失われて、私の気は遠ざかっていく。そして、生と死を彷徨う最後の際に、聖母マリアの姿を見るのだろう。その美しいマリアの顔は、何処か静に似ているはずだ。私はこの世の幸福に、もしかしたら不幸に対しても、精一杯に祝福を与えながら天上に召されていく。背に羽根の生えた、如何にも可愛らしい子供たちが、私の周囲を舞う………。
「いや、何を云うんだ、お前には地獄がお似合いだ。」
途端に、その天使の内の一人が、我が愛すべき悪鬼の声をして言った。
「ほら、己と一緒に来るが好い。」
「大丈夫?」静の声がして、私は妄想から抜け出す。額には、汗が流れていた。
「大丈夫。」
「本当に?真っ青よ?」
「大丈夫だよ。」
「そう、それならいいけど。」静は訝しむように言った「それで、あなたはどうなの?」
「何が?」
静は、あの悪魔的魅力に溢れる笑顔をして、じっと私の瞳の中を見据えた。私は、私の心根を握られたかのように、(または、蛇に睨まれた蛙のように)、立ち呆けた。
「あなたは、どうなのよ?」
「僕は、………僕は、君の為なら死んだって好い。」
彼女の視線の鋭さに自らの心を背く事ができず、気が付けば真実をすっかり告げてしまっていた。彼女は、その答えを満足そうに恍惚として聞いていた。
私は、静という底なしの沼地に迷い込んだ。もう逃げる事は叶わない。蜘蛛の巣に掛けられた羽虫の如き私は、唯々彼女に溺れていく。そしてそれもまた、私にとっては幸福に違いなかった。
二人は、いつもと同じく静のマンションに向かっていく。その途中、或家の軒下に大きな蜘蛛の巣が掛けられているのを見つけた。蜘蛛はその中心で、獲物の掛かるのをじっと待っている。
「ねえ、綺麗ね。女郎蜘蛛よ。」静は言った。
「綺麗に作ったもんだなあ。」私は感心する。
「違うわ、巣じゃなくて。蜘蛛自身の事よ。」
「蜘蛛?」
「雄は雌に食われる運命なの。それでも、雌の放つ圧倒的なpheromoneに、雄は恍惚としてその身を差し出すのよ。」
「嫌な話だな。」私は、あからさまに嫌な顔をする。
「雌は、雄を食った後、どうなると思う?」
「さてね。」
「子に食われるのよ。」静は、冷たく言い放った。
その顔には、一つの笑みもなかった。私は、居心地の悪い気がして、何も言わず、悲哀な運命を背負った蜘蛛を眺めていた。すると、その美しい蜘蛛の巣に、羽虫が一匹捕まっているのが見えた。蜘蛛は、羽虫に気が付くと、のそりと体を起こしその方へ動き出す。
私は、見て居られず、静の腕を引いてまた歩き出した。哀れな羽虫の断末魔の声が背後に聞こえるようであった。
この日もまた、静は「またね」と一言言って、マンションへと姿を消した。私は、この瞬間を最も憎らしいと思う。次に会える日まで、私のこの心は、何処へ向かえば良いのだろうか。唯じりじりと焼かれて、焦がれて止まれぬ嫉妬心は、次第に、確実に、私を蝕んでいる。
二人が初めて出会った公園で待ち合わせ、取り留めのない事を話しながら散歩をした。散歩の終わりは、いつも静の住むマンションの前で、彼女は必ず「またね」とだけ言う。私にとってこの言葉は、「また会いましょう」と再会を約束するものでなく、「もう少し待ってね」とお預けを意味するものであった。しかし、それは私がそのように受け取ったと云うだけの話であって、彼女の本意は実際の所知れなかった。
一つ知れるのは、あの日以来、静が頻繁に憂き目を見せるようになったという事実である。
かつて、あれ程完璧に思えた笑顔も、今や苦痛に歪むように人目を避けるように淀んでしまっている。其処には、致命的なcomplexが紛れてしまっているに違いなかった。彼女は、自身は空っぽであると断罪した。そのようにして辺りを見回した時、静は「自分はあまりに孤独な女なんだ」と言う自覚を得なくてはならなかった。そして、如何に容貌醜い女であっても、静ほどに孤独である女は、他に誰一人とていなかった。
彼女は、自身の空虚さに深いcomplexを抱くのである。そして、そのcomplexを爆発させた引き金が、私などではなく、他の誰かに起因するものである事はあまりに明かであった。その誰かの穴埋めとして、私が選ばれていただけの事ある。何度も、「誰かの代役でもいいじゃないか」と自らの恋心をなだめたが、嫉妬に燃える恋心とは、実に厄介な代物であって、それを上手く鎮火する術は見当たらなかった。
「百合の香り。」
公園を出て民家の立ち並ぶ住宅地に入った時、何処かの家の庭に植えられていたのだろう、百合の香りがほのかにして、静が言った。その香りに誘われてか、羽虫が数匹ふらふらと空を漂っている。
「本当だ、こんなに寒いのに。」
十二月も半ば、初夏の花である百合の香りがする事を、私は不思議に思った。
「白百合は、聖母マリアの処女の象徴なのよ。」
「処女の象徴?」
「ええ、マリアは姦通する事なくイエスを身籠ったでしょう? だから彼女は美しいし、神聖なのよ。」
そう言って、静はくしゃりと音を立てて足下の落ち葉を踏んだ。私は、その落ち葉の下に居たかも知れない、小さな虫たちを気の毒に思った。
「それで、十二月にも栽培されているんだね。」
「そういう事。ねえ、百合の花で死んだ男の話、知ってる?」
「百合で自殺する話ならね。」
「そう、自殺。百合の花に囲まれて死んでいくって、何か素敵だと思わない?」
「少し、わかるよ。」
私は、大輪の百合が敷き詰められた部屋の真ん中で、ベッドに横たわる自身の姿を想像した。百合は私を殺そうと、妖艶な香りを放ち続ける。次第に部屋の酸素が失われて、私の気は遠ざかっていく。そして、生と死を彷徨う最後の際に、聖母マリアの姿を見るのだろう。その美しいマリアの顔は、何処か静に似ているはずだ。私はこの世の幸福に、もしかしたら不幸に対しても、精一杯に祝福を与えながら天上に召されていく。背に羽根の生えた、如何にも可愛らしい子供たちが、私の周囲を舞う………。
「いや、何を云うんだ、お前には地獄がお似合いだ。」
途端に、その天使の内の一人が、我が愛すべき悪鬼の声をして言った。
「ほら、己と一緒に来るが好い。」
「大丈夫?」静の声がして、私は妄想から抜け出す。額には、汗が流れていた。
「大丈夫。」
「本当に?真っ青よ?」
「大丈夫だよ。」
「そう、それならいいけど。」静は訝しむように言った「それで、あなたはどうなの?」
「何が?」
静は、あの悪魔的魅力に溢れる笑顔をして、じっと私の瞳の中を見据えた。私は、私の心根を握られたかのように、(または、蛇に睨まれた蛙のように)、立ち呆けた。
「あなたは、どうなのよ?」
「僕は、………僕は、君の為なら死んだって好い。」
彼女の視線の鋭さに自らの心を背く事ができず、気が付けば真実をすっかり告げてしまっていた。彼女は、その答えを満足そうに恍惚として聞いていた。
私は、静という底なしの沼地に迷い込んだ。もう逃げる事は叶わない。蜘蛛の巣に掛けられた羽虫の如き私は、唯々彼女に溺れていく。そしてそれもまた、私にとっては幸福に違いなかった。
二人は、いつもと同じく静のマンションに向かっていく。その途中、或家の軒下に大きな蜘蛛の巣が掛けられているのを見つけた。蜘蛛はその中心で、獲物の掛かるのをじっと待っている。
「ねえ、綺麗ね。女郎蜘蛛よ。」静は言った。
「綺麗に作ったもんだなあ。」私は感心する。
「違うわ、巣じゃなくて。蜘蛛自身の事よ。」
「蜘蛛?」
「雄は雌に食われる運命なの。それでも、雌の放つ圧倒的なpheromoneに、雄は恍惚としてその身を差し出すのよ。」
「嫌な話だな。」私は、あからさまに嫌な顔をする。
「雌は、雄を食った後、どうなると思う?」
「さてね。」
「子に食われるのよ。」静は、冷たく言い放った。
その顔には、一つの笑みもなかった。私は、居心地の悪い気がして、何も言わず、悲哀な運命を背負った蜘蛛を眺めていた。すると、その美しい蜘蛛の巣に、羽虫が一匹捕まっているのが見えた。蜘蛛は、羽虫に気が付くと、のそりと体を起こしその方へ動き出す。
私は、見て居られず、静の腕を引いてまた歩き出した。哀れな羽虫の断末魔の声が背後に聞こえるようであった。
この日もまた、静は「またね」と一言言って、マンションへと姿を消した。私は、この瞬間を最も憎らしいと思う。次に会える日まで、私のこの心は、何処へ向かえば良いのだろうか。唯じりじりと焼かれて、焦がれて止まれぬ嫉妬心は、次第に、確実に、私を蝕んでいる。
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