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百合の棺桶(二)
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心に飼う悪鬼と、別れを告げる時が来た。
ある日を境に、静と連絡がつかなくなった。それから二週間も経とうという時の事である。私は一人、静と何度も散歩した道を歩いていた。もしかしたら静に遭えるかも知れない、との思いも僅かにあった事は白状するが、どちらかと云えば、私の心が抑えきれず、居ても居られなくなって、つまりは必要に追われて、と云うのが正しいだろう。何にせよ、事件はその日に起きた。
歩きながら、かの大作家の言葉を口の中に反芻していると、車通りの多い十字路の、横断歩道を挟んで私と対面方向に、手を繋ぐ一組の男女の姿が見えた。私は、その女の方が他ならぬ静である事をすぐに悟った。
凝視する。静の笑顔を独り占めにするその男は私の知らない男であった。背が高く、新緑のタートルネックニットの上に、紺のジャケットを着こみ、滲み出る自信をたなびかせて歩いている。
二人は赤信号に留まり、こちらに向かって歩いて来ようとしていた。そして、私も赤信号に留まり、静のいる岸に渡ろうとしていた。私は何故か、心の底に淀んだ罪悪感を抱いてその道を避けようとしたが、時はすでに遅く信号は青に変わり、条件反射的に横断歩道へ足を踏み出していた。愛すべき静は隣の男の腕を抱き、如何にも幸せそうな笑顔をして、こちらへと歩いてくる。その時の、声も、表情も、何もかも、私に向けられるものとは随分違っていた。それらは、私の見た中で、最高に美しいものであった。私は、俯きがちに、決して静に気付かれないようにして、こそこそとすれ違った。その刹那、私は、嗅ぎ慣れた静の香りを嗅いだ。
小さくなる後姿。静は、男の手を握っていた。私は立ち呆けて、それらが視界から消えるまで眺めていた。私の存在は、少しも気付かれる事なく、いないのも同然の、落ち葉の下の小さな虫たちが如く、一風景として彼女の目に映っていた。
意外な事に嫉妬心は燃え上がらなかった。唯、木枯らしに、圧倒的なる敗北を感じていた。悲しみとも取れぬ感情に、暫し、気の抜けた狂人の様にして歩き慣れた道を歩いた。私の通った道には、重たい涙の跡が、何処までも続いていたことだろう。
―彼は、ナイフを一丁手にしている。
研ぎ澄まされた刃に、自分のやつれた顔を映して、何やら考え事をしていた。
「……奴を殺すか?」彼は聞いた。
「僕には、とても、できない。」私は答える。
「では、あの女から手を引くか?」また彼は聞いた。
「それも、できない。」
「では、兎角、現状に甘んじるが好いさ。都合の好い男として、あの立派に見える〈一番目の〉男の代用品として、いつまでも惨めに、そこらで這いつくばっているが好い。」
「それも、できない。」
「ならば…」
そして、彼はそのナイフを自らの首元に近付けて、空いた方の手で敷島を咥えた。
「ならば、いっその事死んでしまうが好い、なあ、友よ、此処らに大輪の百合の花が咲いていれば好いな。」
「その時が、来たのか。」
「ああ、何を怖がる事がある。これは、人間だけに与えられた、唯一理性的な死に方だ。」
「そうは、云うが…」
「友よ、逃避などを考えるのは止めにしたまえよ。我々は唯病の様にして死ぬのだ、かのウェルテルがそうした様に。『ウェルテルが、自分の為に書かれたと思った事の無い人間は、不幸者である』……なあ、我々は、幸福者であったな?」
私は、彼に向かって何度も頷いて見せた。私の目にも、彼の目にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「さようなら。」私は呟いた。
「ああ、さようならだ、我が親愛なる友よ。そして、この忌まわしき世界の輝かしいromanticismよ、永遠に、さようならである。」
彼は、喉元にナイフを突き刺した。辺り一面に、赤い血しぶきが散る。血しぶきは黒いインクに変貌し、いつしか空に幾つもの言葉が生み出された。彼は、天上に召されたに違いなかった。聖母マリアに抱かれて、眠りについたに違いなかった。なあ、愛すべき悪鬼よ。きっと、そうであるべきであろう?
静が、私にとって特別であるのは、決して手に落ちぬ女であるからだろう。そして、如何なる男にも落ちぬ女である、―そう思っていたから、彼女が他の『知らぬ誰か』と睦まじく歩く姿を見て、私に向けられぬ、輝くような笑顔を目撃して、私は、世界の光を全て捨て去りたくなったのである。…
…愛されるが好い! 散々に抱かれれば好い! その身を汚らわしい数多の男の手によって、損ない続けるが好い! お前は…お前は、魔性の女!狂人の娘! しかし、そんなお前であるから私は、お前を欲してたまらないのだ! その忌まわしいマトリョシカの中にすっかり隠されてしまった、その玉のように美しい純情よ…!
…私は、かつて、彼女の純情に触れてしまった事を、今一度ひどく後悔した。もう、駄目である。私は、彼女を愛さねばならなくなってしまった。決してものにできないと知りながら、決して私を愛する事のない魔性の女を…。
私は、この世に留まり、右にも左にも行けずに、苦しみ続けるより他になかった。彼は、雄々しくもその命を絶つ事であらゆる想いにケジメを付けた。が、私には、とてもそうする事はできなかった。私には、この滑稽にも臆病な私には、自ら門を開き、死にゆくだけの勇気など、無いのであるから。
ある日を境に、静と連絡がつかなくなった。それから二週間も経とうという時の事である。私は一人、静と何度も散歩した道を歩いていた。もしかしたら静に遭えるかも知れない、との思いも僅かにあった事は白状するが、どちらかと云えば、私の心が抑えきれず、居ても居られなくなって、つまりは必要に追われて、と云うのが正しいだろう。何にせよ、事件はその日に起きた。
歩きながら、かの大作家の言葉を口の中に反芻していると、車通りの多い十字路の、横断歩道を挟んで私と対面方向に、手を繋ぐ一組の男女の姿が見えた。私は、その女の方が他ならぬ静である事をすぐに悟った。
凝視する。静の笑顔を独り占めにするその男は私の知らない男であった。背が高く、新緑のタートルネックニットの上に、紺のジャケットを着こみ、滲み出る自信をたなびかせて歩いている。
二人は赤信号に留まり、こちらに向かって歩いて来ようとしていた。そして、私も赤信号に留まり、静のいる岸に渡ろうとしていた。私は何故か、心の底に淀んだ罪悪感を抱いてその道を避けようとしたが、時はすでに遅く信号は青に変わり、条件反射的に横断歩道へ足を踏み出していた。愛すべき静は隣の男の腕を抱き、如何にも幸せそうな笑顔をして、こちらへと歩いてくる。その時の、声も、表情も、何もかも、私に向けられるものとは随分違っていた。それらは、私の見た中で、最高に美しいものであった。私は、俯きがちに、決して静に気付かれないようにして、こそこそとすれ違った。その刹那、私は、嗅ぎ慣れた静の香りを嗅いだ。
小さくなる後姿。静は、男の手を握っていた。私は立ち呆けて、それらが視界から消えるまで眺めていた。私の存在は、少しも気付かれる事なく、いないのも同然の、落ち葉の下の小さな虫たちが如く、一風景として彼女の目に映っていた。
意外な事に嫉妬心は燃え上がらなかった。唯、木枯らしに、圧倒的なる敗北を感じていた。悲しみとも取れぬ感情に、暫し、気の抜けた狂人の様にして歩き慣れた道を歩いた。私の通った道には、重たい涙の跡が、何処までも続いていたことだろう。
―彼は、ナイフを一丁手にしている。
研ぎ澄まされた刃に、自分のやつれた顔を映して、何やら考え事をしていた。
「……奴を殺すか?」彼は聞いた。
「僕には、とても、できない。」私は答える。
「では、あの女から手を引くか?」また彼は聞いた。
「それも、できない。」
「では、兎角、現状に甘んじるが好いさ。都合の好い男として、あの立派に見える〈一番目の〉男の代用品として、いつまでも惨めに、そこらで這いつくばっているが好い。」
「それも、できない。」
「ならば…」
そして、彼はそのナイフを自らの首元に近付けて、空いた方の手で敷島を咥えた。
「ならば、いっその事死んでしまうが好い、なあ、友よ、此処らに大輪の百合の花が咲いていれば好いな。」
「その時が、来たのか。」
「ああ、何を怖がる事がある。これは、人間だけに与えられた、唯一理性的な死に方だ。」
「そうは、云うが…」
「友よ、逃避などを考えるのは止めにしたまえよ。我々は唯病の様にして死ぬのだ、かのウェルテルがそうした様に。『ウェルテルが、自分の為に書かれたと思った事の無い人間は、不幸者である』……なあ、我々は、幸福者であったな?」
私は、彼に向かって何度も頷いて見せた。私の目にも、彼の目にも、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
「さようなら。」私は呟いた。
「ああ、さようならだ、我が親愛なる友よ。そして、この忌まわしき世界の輝かしいromanticismよ、永遠に、さようならである。」
彼は、喉元にナイフを突き刺した。辺り一面に、赤い血しぶきが散る。血しぶきは黒いインクに変貌し、いつしか空に幾つもの言葉が生み出された。彼は、天上に召されたに違いなかった。聖母マリアに抱かれて、眠りについたに違いなかった。なあ、愛すべき悪鬼よ。きっと、そうであるべきであろう?
静が、私にとって特別であるのは、決して手に落ちぬ女であるからだろう。そして、如何なる男にも落ちぬ女である、―そう思っていたから、彼女が他の『知らぬ誰か』と睦まじく歩く姿を見て、私に向けられぬ、輝くような笑顔を目撃して、私は、世界の光を全て捨て去りたくなったのである。…
…愛されるが好い! 散々に抱かれれば好い! その身を汚らわしい数多の男の手によって、損ない続けるが好い! お前は…お前は、魔性の女!狂人の娘! しかし、そんなお前であるから私は、お前を欲してたまらないのだ! その忌まわしいマトリョシカの中にすっかり隠されてしまった、その玉のように美しい純情よ…!
…私は、かつて、彼女の純情に触れてしまった事を、今一度ひどく後悔した。もう、駄目である。私は、彼女を愛さねばならなくなってしまった。決してものにできないと知りながら、決して私を愛する事のない魔性の女を…。
私は、この世に留まり、右にも左にも行けずに、苦しみ続けるより他になかった。彼は、雄々しくもその命を絶つ事であらゆる想いにケジメを付けた。が、私には、とてもそうする事はできなかった。私には、この滑稽にも臆病な私には、自ら門を開き、死にゆくだけの勇気など、無いのであるから。
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