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10.あなた
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昼に目が覚めた。こんなに安らかに眠れたのは、久しぶりだった。全身をここちよい疲労感が包んでいる。
布団から起き上がると、エプロン姿のレーベンが目に入った。目が合ったが、気恥ずかしくてお互いにそらしてしまった。
「お……おはよう、レーベン」
「あの……おはようございます、あなた。リビングへどうぞ。昼食が出来ています」
リビングに用意された食事は、パンにコーヒー、サラダにスープ。デザートのヨーグルト。普段とメニューはそう変わらないのに、灰色だった食卓がとてもきれいにみえる。
「レーベン、君は食べられないのか?」
「ええ。あなたが食べている姿そのものが、わたしにとって最高のお食事ですので」
匂いを感じる。熱々のバターと、焼けた小麦の、香ばしい香り。表面のじゅわっとした舌ざわりと、ざくざくとした食感。表面のバターの油味、続くパンの甘み。焼いてバターをぬっただけのパンが、こうもおいしいとは。いつも自炊していたから、他人に作ってもらう食事のおいしさを忘れていた。
窓の外の空では、白い鳥が群れを成してとんでいた。毎日見ているはずなのに、ひどくまぶしい。
何より、レーベンがいる。自分の顔をみて、うれしそうにしてくれる人がいる。
ああ、世界はこんなに美しかったのか。
「おいしいよ、レーベン」
「えへへ、とてもうれしい、です!」
気恥ずかしそうにレーベンは、真っ赤な顔を逸らした。それにつられて、藍色のポニーテールがふわりとゆれた。
扉ごしに白紙のキャンバスがみえた。胸に使命感がよみがえった。今なら、筆を取れそうな気がする。
「今この瞬間も、君たちを生み出す可能性が失われているのだろうか?」
「ふふ、心配性は相変わらずですね、あなた」
レーベンは、パンのうち一枚をつかむと、タダノの口元へ。
タダノは、すなおにパンをかじった。はずかしくて、顔を背けたくなるが、一分一秒でもレーベンを見ていたい気持ちが勝った。
「大丈夫ですよ」
と、もう片方の手で、頬にふれてきた。電撃が走ったかのように、体がビクッとした。ふれられただけなのに、手足がガクガクして、心臓が破れつしそうだった。
それは、レーベンも同じようだった。目の焦点が合っておらず、ほほえみもぎこちなかった。
「こんなに穏やかな顔をしているんですもの。良心がとがめるはずがありません」
良心、という言葉で、ようやく正気に戻った。
「良心か。良心が基準なのか……」
「良心は、一回きりの唯一無二の可能性、『問いの答え』、言い換えるなら『実現されるべき何か』を直感的に把握することのできる能力。何を信じるべきかわからない状況で、何を信じるべきか、あなたに教えてくれる無意識の声です。良心に従って誠実に行動すれば、望む結果が得られずとも『やれることはやった』と納得することができます」
「しかし、私の心のなかは雑念ばかりだ。どれが良心の声なのか、聞き分ける方法はないのか?」
今までのタダノは、みじゅくさ、欠点、間違い、失敗のいずれも、自分の都合をいいようにしか解釈できなかった。みとめてしまうと自分の人格が否定されるかのような、不安や恐れがあったからだ。
「考え方や価値観は、つきつめれば他の誰かから借りてきた『人工物』『作り物』に過ぎません。これに対し、自分の内側でダイレクトに『これ』と指し示すことのできる体の感じ――『内蔵感覚』は、遥かにリアルでたしかなものです」
カフェで間違ったメニューを注文したとき「ちょっと違う」「これじゃなかった」といった、「うまく言葉にならないけど感じる、ちょっとした違和感」が内蔵感覚だそうだ。
「今みたいに落ち着いているときはいい。逆に切羽詰まったとき、どうやれば良心を呼び起こせるんだ?」
「『あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目はちょうどいまあなたがしようとしているように、すべて間違ったことをしたかのように、生き』るんです。今を過去のもののように思い、この過去はいつでも帰れて改善できると、考えるんです」
「成したことと同じく、機会損失の事実も同様に、誰にも手出しできないのか……」
「こう生きれば、良心と、人生に対する責任を自覚することができます。少なくとも、楽な方に流されて、成すべき困難から遠ざかるようなことはなくなるはずです」
食事を終えたタダノは、洗面台の前に立ち、歯ブラシを持った。かがみの前の自分は、ひどくもうしわけなさそうだった。
「……レーベン、俺は今まで何度も良心に背いてしまった」
「もし、あなたと同じように苦しんでいる人がいたら?」
「何も声をかけられない」
「ではもし、あなたが試練を乗りこえたあとなら」
「アドバイスできるかもしれない」
「そうです。人生において成功は約束されてはいません。しかし、どんな失敗や敗北が与えられたとしても、その逆境を糧として、あなたは成長していくことができます。その知恵がいずれ、誰かを救うかもしれません。その知恵をいずれ、創作に活かせるかもしれません。はたまた、あなたの運命に対してのあり方が、わたしたちにより深い意味を与えるかもしれません。それだけでも、苦しむことに、意味はあると思います」
いったん手を止めて、レーベンにきいた。
「しかし、あとさき短い人生で、知恵を活かす機会がくるのだろうか」
「何気ない日常の一場面だけを変えることで、人生は大きく変化します。ですが、人生の分岐点ががいつなのかはわかりません。わたしたちにできることは、過去を振りかえって『あのときがそうだったのか』と受け入れることだけです。何があるかわからない以上、『つねに人生から問われている』ということを忘れてはなりません」
「そうだったな。俺は問う側じゃなかったな。俺は人生から問われる側だった」
自分の馬鹿さ加減に、笑いが出てくる。
うがいの水と共に、心の膿をはき出した。
「もう、大丈夫そうですね。あなた」
タダノはうがいコップを置いて、手をふいた。
レーベンのほうを向くと「意味への旅」の本を、胸におしつけてきた。彼女が、決して手放さなかった本だ。
タダノは彼女が言わんとすることをさっして、本をかかえた。
「今、自分に課せられた使命を理解したよ。余計な事を考えず、君を描くことに全力を注ぐ。君を描き終えたら、君の妹の制作に取りかかる。最後の一息まで創作に命を燃やし、人生からの問いに答え続け、意味のある人生を送ってみせる」
決意を口にした瞬間、視界がぼやけてきた。レーベンの顔が霧がかかったようにみえなくなり、視界の端から闇にそまっていく。
「あなたが、創造すべき作品を、創造し終えられるか否かは、この世の誰にもわかりません。でも、いかなる最後であろうと、どうか悲観しないでください。あなたが全神経、全エネルギーを使い、人生を賭けて創作したという事実は、わたしたちが……あなたの作品が、一番よく知っています。あなたの人生の結末がどうあれ、わたしたちはあなたを、誇りに思います。わたしたちは、あなたの作品であることを、誇りに思います。――永遠に」
「ありがとう、レーベン」
布団から起き上がると、エプロン姿のレーベンが目に入った。目が合ったが、気恥ずかしくてお互いにそらしてしまった。
「お……おはよう、レーベン」
「あの……おはようございます、あなた。リビングへどうぞ。昼食が出来ています」
リビングに用意された食事は、パンにコーヒー、サラダにスープ。デザートのヨーグルト。普段とメニューはそう変わらないのに、灰色だった食卓がとてもきれいにみえる。
「レーベン、君は食べられないのか?」
「ええ。あなたが食べている姿そのものが、わたしにとって最高のお食事ですので」
匂いを感じる。熱々のバターと、焼けた小麦の、香ばしい香り。表面のじゅわっとした舌ざわりと、ざくざくとした食感。表面のバターの油味、続くパンの甘み。焼いてバターをぬっただけのパンが、こうもおいしいとは。いつも自炊していたから、他人に作ってもらう食事のおいしさを忘れていた。
窓の外の空では、白い鳥が群れを成してとんでいた。毎日見ているはずなのに、ひどくまぶしい。
何より、レーベンがいる。自分の顔をみて、うれしそうにしてくれる人がいる。
ああ、世界はこんなに美しかったのか。
「おいしいよ、レーベン」
「えへへ、とてもうれしい、です!」
気恥ずかしそうにレーベンは、真っ赤な顔を逸らした。それにつられて、藍色のポニーテールがふわりとゆれた。
扉ごしに白紙のキャンバスがみえた。胸に使命感がよみがえった。今なら、筆を取れそうな気がする。
「今この瞬間も、君たちを生み出す可能性が失われているのだろうか?」
「ふふ、心配性は相変わらずですね、あなた」
レーベンは、パンのうち一枚をつかむと、タダノの口元へ。
タダノは、すなおにパンをかじった。はずかしくて、顔を背けたくなるが、一分一秒でもレーベンを見ていたい気持ちが勝った。
「大丈夫ですよ」
と、もう片方の手で、頬にふれてきた。電撃が走ったかのように、体がビクッとした。ふれられただけなのに、手足がガクガクして、心臓が破れつしそうだった。
それは、レーベンも同じようだった。目の焦点が合っておらず、ほほえみもぎこちなかった。
「こんなに穏やかな顔をしているんですもの。良心がとがめるはずがありません」
良心、という言葉で、ようやく正気に戻った。
「良心か。良心が基準なのか……」
「良心は、一回きりの唯一無二の可能性、『問いの答え』、言い換えるなら『実現されるべき何か』を直感的に把握することのできる能力。何を信じるべきかわからない状況で、何を信じるべきか、あなたに教えてくれる無意識の声です。良心に従って誠実に行動すれば、望む結果が得られずとも『やれることはやった』と納得することができます」
「しかし、私の心のなかは雑念ばかりだ。どれが良心の声なのか、聞き分ける方法はないのか?」
今までのタダノは、みじゅくさ、欠点、間違い、失敗のいずれも、自分の都合をいいようにしか解釈できなかった。みとめてしまうと自分の人格が否定されるかのような、不安や恐れがあったからだ。
「考え方や価値観は、つきつめれば他の誰かから借りてきた『人工物』『作り物』に過ぎません。これに対し、自分の内側でダイレクトに『これ』と指し示すことのできる体の感じ――『内蔵感覚』は、遥かにリアルでたしかなものです」
カフェで間違ったメニューを注文したとき「ちょっと違う」「これじゃなかった」といった、「うまく言葉にならないけど感じる、ちょっとした違和感」が内蔵感覚だそうだ。
「今みたいに落ち着いているときはいい。逆に切羽詰まったとき、どうやれば良心を呼び起こせるんだ?」
「『あたかも、二度目の人生を送っていて、一度目はちょうどいまあなたがしようとしているように、すべて間違ったことをしたかのように、生き』るんです。今を過去のもののように思い、この過去はいつでも帰れて改善できると、考えるんです」
「成したことと同じく、機会損失の事実も同様に、誰にも手出しできないのか……」
「こう生きれば、良心と、人生に対する責任を自覚することができます。少なくとも、楽な方に流されて、成すべき困難から遠ざかるようなことはなくなるはずです」
食事を終えたタダノは、洗面台の前に立ち、歯ブラシを持った。かがみの前の自分は、ひどくもうしわけなさそうだった。
「……レーベン、俺は今まで何度も良心に背いてしまった」
「もし、あなたと同じように苦しんでいる人がいたら?」
「何も声をかけられない」
「ではもし、あなたが試練を乗りこえたあとなら」
「アドバイスできるかもしれない」
「そうです。人生において成功は約束されてはいません。しかし、どんな失敗や敗北が与えられたとしても、その逆境を糧として、あなたは成長していくことができます。その知恵がいずれ、誰かを救うかもしれません。その知恵をいずれ、創作に活かせるかもしれません。はたまた、あなたの運命に対してのあり方が、わたしたちにより深い意味を与えるかもしれません。それだけでも、苦しむことに、意味はあると思います」
いったん手を止めて、レーベンにきいた。
「しかし、あとさき短い人生で、知恵を活かす機会がくるのだろうか」
「何気ない日常の一場面だけを変えることで、人生は大きく変化します。ですが、人生の分岐点ががいつなのかはわかりません。わたしたちにできることは、過去を振りかえって『あのときがそうだったのか』と受け入れることだけです。何があるかわからない以上、『つねに人生から問われている』ということを忘れてはなりません」
「そうだったな。俺は問う側じゃなかったな。俺は人生から問われる側だった」
自分の馬鹿さ加減に、笑いが出てくる。
うがいの水と共に、心の膿をはき出した。
「もう、大丈夫そうですね。あなた」
タダノはうがいコップを置いて、手をふいた。
レーベンのほうを向くと「意味への旅」の本を、胸におしつけてきた。彼女が、決して手放さなかった本だ。
タダノは彼女が言わんとすることをさっして、本をかかえた。
「今、自分に課せられた使命を理解したよ。余計な事を考えず、君を描くことに全力を注ぐ。君を描き終えたら、君の妹の制作に取りかかる。最後の一息まで創作に命を燃やし、人生からの問いに答え続け、意味のある人生を送ってみせる」
決意を口にした瞬間、視界がぼやけてきた。レーベンの顔が霧がかかったようにみえなくなり、視界の端から闇にそまっていく。
「あなたが、創造すべき作品を、創造し終えられるか否かは、この世の誰にもわかりません。でも、いかなる最後であろうと、どうか悲観しないでください。あなたが全神経、全エネルギーを使い、人生を賭けて創作したという事実は、わたしたちが……あなたの作品が、一番よく知っています。あなたの人生の結末がどうあれ、わたしたちはあなたを、誇りに思います。わたしたちは、あなたの作品であることを、誇りに思います。――永遠に」
「ありがとう、レーベン」
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