7 / 9
第七話 死による救済は許されるか
しおりを挟む
そして現在、雪の中二人は再び相まみえた。
ペストマスクは言った。
「今さら何をしに来た、ミミコッテ」
ミミコッテが切り出した。
「あなたに伝えたいことがあるの」
彼女の背後から現れた人物に、ペストマスクは硬直した。
先ほど殺したはずの男だった。
「なんて惨いことを」
言い終える前に、男が頭を下げた。
「違います。改めて私が『生き直したい』と望んだんだ」
「何だと!?」
「あなたに指摘され気づいた。私は人から期待される役割に答えようとしていただけだった。今が人生の最後になってしまえば、大好きな家族よりも、嫌いな職場で過ごした時間の方が長くなってしまう。それでは、悔しすぎる」
男は頭を上げ、笑みを浮かべた。
「それに……あなたやミミコッテさんのように、見知らぬ人へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようと、思った」
ペストマスクは、メスを握った手を額に当て唸った。
「取り返しのつかないことをしてしまった私を、賞賛するとは」
「安心しました」
弾んだ声だった。
「あなたにも、照れることがあるんですね」
ペストマスクは男と目を合わせて、低く言った。
「辛くなったら、いつでも相談してくれ」
雪風が吹き、青年は消え去った。
短い黙祷の後、ミミコッテが言った。
「メスを取らなかった、その先の断片よ。寝たきりの人、画家、配信者……救われた人もいれば、結局死を選んだ人もいた」
「……覗き見したのか」
「あなたの理想と現実の差を知るには、こうするしかなかった」
気づかぬうちに、握ったメスが折れていた。
雪にきらめく先端を睨み、ペストマスクは言った。
「何がわかった」
「分かったことは三つ。順番に言うわね」
白毛に包まれた三本の指が立った。
「一つ目。漠然とした死にたい気持ちは、心が叫ぶ数ある声の一つに過ぎない。死にたい、と思った次の瞬間には、サンドイッチを食べたいと思うこともある」
黒いコートの懐を雪風が揺らした。
「来るかも分からない救いが来るまで待てと? 希望は苦痛を引き伸ばす」
ペストマスクは苛立ちを隠さぬ声で言った。
「どれだけ辛いことか、分からないお前ではないはずだ」
ミミコッテはためらいがちに言った。
「救われるはずだったのに、介入で歯車が狂ったことが何度もある。でもね」
ミミコッテは深呼吸してから、指を一本折り曲げた。
「二つ目。極限まで追い詰められた人間は、自他への影響を正しく見積もれなくなる。それは利己でも、利他でもなく、視野狭窄よ」
ペストマスクが初めて言葉に詰まった。
「もっともらしく見えても、過信は禁物よ」
「……」
「三つ目。生き残った後の人生が好転する例が、確かにあること。さっきの係長さんみたいに……ごく少数でも、助かる人がいる。死ななくてよかった、と言う人がいる」
一呼吸置き、ミミコッテは言葉を強めた。
「幇助は必要かもしれない。でも、今のあなたのやり方だと、『変われたかもしれない人』が混ざってしまう」
「少数のために、大多数が苦しむような考えが、正しいはずがない」
「そのための線引きよ。客観的評価の下、本人の意思が明確で反復されていても、死を待つ難病の人や、終末期でない限り、幇助に誘導してはいけない」
「話を逸らすな」
ペストマスクは再び言葉をさえぎった。メスの代わりに、言葉を振るう。
「他人に迷惑をかけることでしか生きられない人がいる。画家や、心中をもくろんだ親のように」
「誰にも迷惑をかけずに生きている人はいないもの」
ミミコッテは淡々と言葉を紡ぐ。
「死と同じように、社会が包み隠しているだけ。人は誰とも関わらずには生きられない。周囲に与える影響も、完全にはコントロールできない。自分の行為の結果を、全部自分で背負うなんて不可能なの」
「ならば誰が背負う」
服の中から、紙の束を投げた。診療カルテだった。
「彼らの人生に巻き込まれた者は、みんな彼らの下を去った」
今度はミミコッテが黙る番だった。
「『皆で背負う』は理想論だ。現実には、誰が背負うかを決める前に、『誰を背負うか』選別している。トリアージだ。強者しか生き残れない」
ミミコッテは震える声で言った。
「じゃあ、あなたはどうするの?」
「痛みに耐えられない人に、逃げてもいいと手を差し伸べたい。手を掴むかどうかを決めるのは、本人の意思だ」
「正しさは、脳が作る。『人生は無意味』『人は変われない』『愛せないし、愛されない』。……経験則からあなたは仮説を立て、証明し続けているのかもしれない。ただ、過去の意味づけと、未来の見積もりは、脳が作る仮説だから、間違うことがある」
ミミコッテの視線の先は、男が消えた場所だ。
ペストマスクは、幻影を振り払うように首を振った。
「だから時間をおいて、粘り強く何度も向き合っている。それでもなお『この世から消えたい』と叫ぶ声を、私は否定したくない」
ペストマスクは一歩前へ踏み出した。ブーツの回りで雪が舞う。
「いつでも苦痛を止められるから、人は安心して生きられる」
もう一歩。
「逃げ道がないから、巻き込みが増える。あの親子のように!」
ペストマスクは、上からミミコッテを覗き込んだ。
「医療の軸は、本人の同意と苦痛の緩和だ。それは最後まで崩されるべきではない」
ミミコッテは視線をそらさずに、ポツリと言った。
「最初は選択肢でも、やがて周囲の期待になる。空気は法律で裁けない」
ペストマスクの脳裏に、寝たきり男へ向けられていた、冷たい視線がフラッシュバックした。
ミミコッテは続ける。
「制度化すれば、社会は言う。『救えなかったんじゃない。本人が選んだんだ。だから支援が足りなかったわけじゃない』」
あの親子を、本当に追い詰めた原因は、なんだったのか。
「可視化しなければ、水面下で行われる死の強要は止められない」
「可視化しても止まらない」
ミミコッテは散らばるカルテを見た。
「『他人に迷惑をかけてでも生きる』って答えられる人は少ない。強い人しか生きられない」
ペストマスクが苦々しく言った。
「トリアージか」
もしも彼らが『生きたい』と願っていたとしても、果たしてどれほど生き延びられるだろうか。
雪が止んだ頃、ミミコッテが言った。
「平行線ね……。お互い理屈抜きの感情で、『自分はどうするべきか』を考えてる。不幸な未来と幸福な未来。どちらが真実か分からないから。……アタシは、ほんのわずかでも生きてみようと思える方を、選びたいし、選ぶように勧めたい」
「なぜだ」
ミミコッテは折れたメスの先端を見つめ答えた。
「死は、取り返しがつかない」
「そうか」
ぐらりと地面が揺れた。かと思えば、ペストマスクの視界が雪の白に染まった
ペストマスクは言った。
「今さら何をしに来た、ミミコッテ」
ミミコッテが切り出した。
「あなたに伝えたいことがあるの」
彼女の背後から現れた人物に、ペストマスクは硬直した。
先ほど殺したはずの男だった。
「なんて惨いことを」
言い終える前に、男が頭を下げた。
「違います。改めて私が『生き直したい』と望んだんだ」
「何だと!?」
「あなたに指摘され気づいた。私は人から期待される役割に答えようとしていただけだった。今が人生の最後になってしまえば、大好きな家族よりも、嫌いな職場で過ごした時間の方が長くなってしまう。それでは、悔しすぎる」
男は頭を上げ、笑みを浮かべた。
「それに……あなたやミミコッテさんのように、見知らぬ人へここまで尽くしてくれる人がいる世界なら、もう少し生きてみようと、思った」
ペストマスクは、メスを握った手を額に当て唸った。
「取り返しのつかないことをしてしまった私を、賞賛するとは」
「安心しました」
弾んだ声だった。
「あなたにも、照れることがあるんですね」
ペストマスクは男と目を合わせて、低く言った。
「辛くなったら、いつでも相談してくれ」
雪風が吹き、青年は消え去った。
短い黙祷の後、ミミコッテが言った。
「メスを取らなかった、その先の断片よ。寝たきりの人、画家、配信者……救われた人もいれば、結局死を選んだ人もいた」
「……覗き見したのか」
「あなたの理想と現実の差を知るには、こうするしかなかった」
気づかぬうちに、握ったメスが折れていた。
雪にきらめく先端を睨み、ペストマスクは言った。
「何がわかった」
「分かったことは三つ。順番に言うわね」
白毛に包まれた三本の指が立った。
「一つ目。漠然とした死にたい気持ちは、心が叫ぶ数ある声の一つに過ぎない。死にたい、と思った次の瞬間には、サンドイッチを食べたいと思うこともある」
黒いコートの懐を雪風が揺らした。
「来るかも分からない救いが来るまで待てと? 希望は苦痛を引き伸ばす」
ペストマスクは苛立ちを隠さぬ声で言った。
「どれだけ辛いことか、分からないお前ではないはずだ」
ミミコッテはためらいがちに言った。
「救われるはずだったのに、介入で歯車が狂ったことが何度もある。でもね」
ミミコッテは深呼吸してから、指を一本折り曲げた。
「二つ目。極限まで追い詰められた人間は、自他への影響を正しく見積もれなくなる。それは利己でも、利他でもなく、視野狭窄よ」
ペストマスクが初めて言葉に詰まった。
「もっともらしく見えても、過信は禁物よ」
「……」
「三つ目。生き残った後の人生が好転する例が、確かにあること。さっきの係長さんみたいに……ごく少数でも、助かる人がいる。死ななくてよかった、と言う人がいる」
一呼吸置き、ミミコッテは言葉を強めた。
「幇助は必要かもしれない。でも、今のあなたのやり方だと、『変われたかもしれない人』が混ざってしまう」
「少数のために、大多数が苦しむような考えが、正しいはずがない」
「そのための線引きよ。客観的評価の下、本人の意思が明確で反復されていても、死を待つ難病の人や、終末期でない限り、幇助に誘導してはいけない」
「話を逸らすな」
ペストマスクは再び言葉をさえぎった。メスの代わりに、言葉を振るう。
「他人に迷惑をかけることでしか生きられない人がいる。画家や、心中をもくろんだ親のように」
「誰にも迷惑をかけずに生きている人はいないもの」
ミミコッテは淡々と言葉を紡ぐ。
「死と同じように、社会が包み隠しているだけ。人は誰とも関わらずには生きられない。周囲に与える影響も、完全にはコントロールできない。自分の行為の結果を、全部自分で背負うなんて不可能なの」
「ならば誰が背負う」
服の中から、紙の束を投げた。診療カルテだった。
「彼らの人生に巻き込まれた者は、みんな彼らの下を去った」
今度はミミコッテが黙る番だった。
「『皆で背負う』は理想論だ。現実には、誰が背負うかを決める前に、『誰を背負うか』選別している。トリアージだ。強者しか生き残れない」
ミミコッテは震える声で言った。
「じゃあ、あなたはどうするの?」
「痛みに耐えられない人に、逃げてもいいと手を差し伸べたい。手を掴むかどうかを決めるのは、本人の意思だ」
「正しさは、脳が作る。『人生は無意味』『人は変われない』『愛せないし、愛されない』。……経験則からあなたは仮説を立て、証明し続けているのかもしれない。ただ、過去の意味づけと、未来の見積もりは、脳が作る仮説だから、間違うことがある」
ミミコッテの視線の先は、男が消えた場所だ。
ペストマスクは、幻影を振り払うように首を振った。
「だから時間をおいて、粘り強く何度も向き合っている。それでもなお『この世から消えたい』と叫ぶ声を、私は否定したくない」
ペストマスクは一歩前へ踏み出した。ブーツの回りで雪が舞う。
「いつでも苦痛を止められるから、人は安心して生きられる」
もう一歩。
「逃げ道がないから、巻き込みが増える。あの親子のように!」
ペストマスクは、上からミミコッテを覗き込んだ。
「医療の軸は、本人の同意と苦痛の緩和だ。それは最後まで崩されるべきではない」
ミミコッテは視線をそらさずに、ポツリと言った。
「最初は選択肢でも、やがて周囲の期待になる。空気は法律で裁けない」
ペストマスクの脳裏に、寝たきり男へ向けられていた、冷たい視線がフラッシュバックした。
ミミコッテは続ける。
「制度化すれば、社会は言う。『救えなかったんじゃない。本人が選んだんだ。だから支援が足りなかったわけじゃない』」
あの親子を、本当に追い詰めた原因は、なんだったのか。
「可視化しなければ、水面下で行われる死の強要は止められない」
「可視化しても止まらない」
ミミコッテは散らばるカルテを見た。
「『他人に迷惑をかけてでも生きる』って答えられる人は少ない。強い人しか生きられない」
ペストマスクが苦々しく言った。
「トリアージか」
もしも彼らが『生きたい』と願っていたとしても、果たしてどれほど生き延びられるだろうか。
雪が止んだ頃、ミミコッテが言った。
「平行線ね……。お互い理屈抜きの感情で、『自分はどうするべきか』を考えてる。不幸な未来と幸福な未来。どちらが真実か分からないから。……アタシは、ほんのわずかでも生きてみようと思える方を、選びたいし、選ぶように勧めたい」
「なぜだ」
ミミコッテは折れたメスの先端を見つめ答えた。
「死は、取り返しがつかない」
「そうか」
ぐらりと地面が揺れた。かと思えば、ペストマスクの視界が雪の白に染まった
0
あなたにおすすめの小説
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
17歳男子高生と32歳主婦の境界線
MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。
「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる