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森の外に憧れた花と「ギジンカクテル」

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 アネモナは数十年間そうしていたように、日の光をあびていた。ひと仕事終えたあとの日光浴は、かくべつだ。
 アネモナは、子供の半分ほどの丈をもつ、植物型の亜人だ。見た目は、ピンク色の大きな花。茎の上部に、二つのくぼみがある。人で言う目だ。
 口はないが、テレパシーの呪文で会話ができる。しかも樹木たちとは、根っこを回線にして通話できる。
「一丁目のオオスギさん、森のそとのようすはどう?」
「何回聞いたってかわらないよ。いつもどおりさ」
「草は、どんなふうにゆれているの? 川はどんなふうに流れているの?」
「わからない。目がないから」
「動物たちはなにか言っていた?」
「変わったことは、なにも。餌はどこだとか、冒険者がどうのとか、いつもどおりさ。アネモナ、すまないが、わしはこれから朝の光合成に集中したい。いつも通りに。しばらく、話しかけないでほしい」
「わかった」
 オオスギさんは、怒らせるとこわい。アネモナはしかたなく、会話をきりあげた。
 森林の奥深くなのに、アネモナの周囲だけは明るかった。土も黒色で、栄養に富んでいる。
 まわりの小動物や植物をまもるかわりに、肥料や日光をわけてもらっているからだった
「きょうの人も、よわかったなぁ」
 追い出した侵入者は、Cランク冒険者と名乗っていたらしい。アネモナには、なにがCなのかはわからないし、冒険者以外の人も見たことがない。
 アネモナにとって、いま五感で感じているものが、世界のすべてだった。一歩も動けないからだ。日光や雨を浴びつつ、地面から栄養を吸い、ときどき侵入者をおいだす。それだけの数十年。
「たいくつだなぁ」
 そんなアネモナは、動物たちに、森の外の様子をきくのが大好きだった。山とか、川とか、草原とか。質問攻めにすると、みんなは飽き飽きした様子で答える。けれどもアネモナは、何度きいても、きき飽きなかった。
 いつか、森の外へ行ってみたい。でも、みんな我慢しているのに、自分だけそとに出ようなんて、おこがましい。

「あ! だれか来た!」
 あらわれたのは、全身毛に覆われている、子猫の亜人だった。
 黒いブラウスを着ている。頭の三角帽子からは猫耳が突き出ていた。平らな胸に、ぽっこりとしたお腹。完全な幼児体型だ。
 帽子の縁からは、金色の髪の毛が垂れている。
「ふん、ふふん、ふふ~ん♪」
 小さなマズルに、大きくクリッとしたつり目。鼻の付け根から上は金毛で、鼻から下は白毛だった。毛並みは見るからにふわっふわで、よく手入れされている。右手にはコンパスが握られていた。
 こういうみょうな冒険者が、一番手強いことを、アネモナは知っている。
 亜人は、コンパスとアネモナを交互に見て、なにかを確認する。うれしそうにうなずくと、満面の笑みで声をかけてきた。
 少しエラそうだが、かわいらしい声だった。
「こんにちは、幸運のお客さま。アタシは、ふしぎ魔法具屋のミミコッテ!」
 ミミコッテは、左手を腰に当てて、ふんぞり返っている。
 魔法のかかったアイテムは、アネモナも目にしたことがあった。身につけるだけで防御力が上がるブレスレットや、火の力を宿した剣。どれもこれもぶっそうで、良いイメージがない。
 でも、ふしぎって何だろう。
 こんわくするアネモナに、ミミコッテは右手をさしだしてきた。肉球の上に乗っているコンパスの針は、アネモナを指している。
「あなたの悩みを言ってごらんなさい。ニャニャンと願いをかなえる、ふしぎ魔法具をおゆずりするわ! 対価としていただくのは、『幸運』。実質タダね!」
 おゆずり? 願いをかなえる? 幸運? あやしい。でも、だまそうとか、自分だけ得しようとか、そういう意図は感じない。
 念のため、いつでも攻撃できるよう、地中の根っこを動かしていく。
「幸運のエネルギーをあげちゃうと、わたしはどうなるの?」
「べつになくても困らないわ。あげちゃっても、不運になるわけじゃないし。ただし、『幸運』は、めったに心に宿らないの。だから、アタシと同じように『幸運』をほしがっている人とは、お近づきになれなくなっちゃうわ。ご利用は、計画的にね」
 彼女の言葉は、スッとアネモナの胸に落ちた。
 ミミコッテはふところにコンパスをしまった。チラリと裏側に「幸運のコンパス」という文字がみえた。
「じゃあ……実質タダ?」
「そういうこと!」
 やっぱり怪しい。そんなにつごうのいいことなんて、あるはずがない。詐欺がなんかに決まってる。
 疑いの目を向けるアネモナに、ミミコッテは申し訳なさそうにうつむいた。
「ごめんなさい、実はさっきの会話、盗み聞きしちゃったの。外の世界が気になるんでしょう? いいアイテム持ってくるから、待ってて!」
「え、ちょっと!?」
 アネモナが引き留めるまもなく、ミミコッテはよちよち走り去った。

 昼過ぎ、黄色く大きなチョウチョが、アネモナのもとへ、とんできた。頭の花を傾けると、蝶は蜜を吸い始めた。
「やっぱり、つかれたときは、きみのミツに限るね」
「アゲハ、きょうのおはなしは?」
 アネモナは、彼にミツを分けてあげるかわりに、森の外の様子を教えてもらっているのだった。
「今日はまっ青だった。空に、雲のかけらひとつ、見当たらない。右を見ても、左を見ても、上には青がひろがっていて、とてもすがすがしかった」
「どのくらいあおかったの?」
「アオスジさんの羽よりも、ずっと青くて澄んでる。あさってまで、この天気はつづくそうだよ。あんまりにもきれいだから、ミツを吸い終わったら、すぐにまた花畑にもどるつもりさ」
 アネモナは、茎をしならせて見上げる。木々の隙間から、わずかに青い光が見えた。
「わたしも見てみたいな。あおぞら」
「アネモナに空を見せてあげられるような、魔法がつかえたらなぁ」
 アゲハは、アネモナの前に着地すると、残念そうにうなだれた。
「アゲハ。いつか、わたしがうごけるようになったら、外の世界、あんないしてくれる?」
「ああ、もちろんだよ。もしそうなったら、とってもたのしいんだろうな。アネモナといっしょに散歩するのを想像するだけで、胸がドキドキしてくる」
 なやみを解決してくれる、ふしぎ魔法具。
 もし、本物なら、アゲハといっしょに森の外へ出ることも叶うのかな?

 アゲハと入れ違いでもどってきたミミコットは、小さなアンプルを見せてきた。
 アンプルの中には、ベージュの液体がゆれている。色のついた水にしか見えないが、なぜだか目がはなせない。なにか、とてつもなく、重要なものに、見える。
「それは、何?」
「これは『ギジンカクテル』。根っこの側に刺しておくだけであら不思議。翌日の朝、人型に大変身! 能力は据え置きで、人みたく自由に動き回れるようになるの。光合成のエネルギーを利用してるから、効果は最長で日の出から日没までつづくわ!」
 一日限定とはいえ、森の外に出られる。アゲハといっしょに――。
 ほしい。ほしい! とってもほしい!
 アネモナは、桃色の花弁を小刻みに震わせた。
「交換したい……です! とっても、とってもほしいです!」
「じゃあいくわよ――」
 ミミコッテは右手を空に掲げると、親指の先っぽに中指を乗せた。
「あなたのラッキーくださいニャン♡」
 ミミコッテが右薬指をパチンを鳴らすと、アネモナの体が淡い光に包まれた。光は「ギジンカクテル」へと注がれた。
「では、お品物をどうぞ。これでふしぎ魔法具はあなたのもの! 変身したい日の前日に使ってね」
 アネモナは、根っこを器用に動かして、品物を受け取った。
「わかった」
「道具をどう使うかは、あなたの心がけ次第よ! ご購入、ありがとうございました!」
 ミミコッテは、両手を前にそろえて、深々とおじぎしてきた。同時に、視界がぼやけてきて、気がついたら、だれもいなくなっていた。
 夢だったのか思いきや、目の前に「ギジンカクテル」のアンプルが置かれている。
 か、買えた!
 今すぐにでも使いたい! ほかのみんなに相談している場合じゃない。仮に説明したところで、止められるか、信じてもらえないに決まっている。
 アネモナは勢いよく地面から根っこを出すと、アンプルを掴んだ。すると、急に興奮がさめてきた。
「あれ、なんだろう、これ」
 ラベルには説明文が書かれていた。翻訳の魔法がかけられているらしく、字にうといアネモナでも読むことができた。
<ギジンカクテルは葉緑体に働きかけることで、木人化効果を発揮する、液状魔力型植物活性剤です。とがっている方を下にして、株元から少し離れたところに、そのまま差しこんでください。土が乾いているときは、水やりをして、湿らせてから使用してください。効果は、日の出から日没まで。使用本数の目安――1株につき1本。注意:昼に使用しても、翌日の日の出から効果を発揮します。多く飲むと、持続時間が長くなるというものではありません>
 そのほかにも、当たりさわりのない注意事項がたくさん書いてあった。読んでいるうちに、どんどん頭がさえてくる。
「――それで全部か? 一言一句、読み忘れはないか?」
「ない。なんどもよみかえした」
 オオスギさんはしばらく沈黙した。
「認可されていない魔法具で、これ以上の品質保証は、望めないだろう。ミミコッテは、この手の商人の中では、そうとう良心的だ」
「そうなの?」
「こういう品を手にした輩は大抵、興奮で我を忘れてしまう。説明文を読まず、誰にも相談せず、真っ先に使ってしまうのがオチだ。長年、恋い焦がれ、でも叶わないと諦めていた願いが、簡単に叶ってしまうのだからな」
 アネモナは、夢でなかったとわかった瞬間のよろこびと、胸のたかなりを思いだした。
 でも、あの瓶にふれた瞬間、現実にもどった。
「じゃあ、わたしがオオスギさんに相談することを、思いついたのは……」
「そうだ。ミミコットのアフターサービスに他ならない。彼女は、本心で、アネモナに幸せになってほしいのだろう」
 アネモナは身も凍るような思いをした。もし、あのまま薬を使っていたらどうなっていただろう。きっと、とりかえしのつかないことをしてしまったにちがいない。
「やっぱり、こわいから、すてちゃおうかな」
「幸運に気づける場所へ行くこと。幸運を自ら掴むこと。幸運を勇気を持って活用すること。わしらは、幸運に歩いて近づくことはできない。でも、やってきた幸運を掴み、活用することはできる。アネモナよ。掴んだ幸運は、勇気を持って使いなさい」
 オオスギさんの声は、いつもとちがって、優しかった。
「森の外への案内は、アゲハに任せよう。森のことは、わしらに任せてくれ。考えたくはないことだが、万が一のことがあっても後悔しないよう、森のみんなに感謝の言葉を伝えてから、出発するように」
「ありがとう。オオスギさん!」
「わしらの代わりに、いろんな物を見て、聞いて、感じておくれよ」
 アネモナは、アンプルをつかむと、地面に刺した。橙色の薬液は、みるみる土に吸いこまれていった。

 翌朝、太陽の光が当たった瞬間、アネモナの視界がゆれた。同時に、脳内にミミコットの声がひびいた。
<ピンポンパンポーン! 日の出になったわ。ギジンカクテルの効果が発動するわよ。次は効果時間が1/3を過ぎたときにお知らせするわ>
 どんどん、地面がはなれていく。
「葉っぱがドレスみたいになってる。左右にあるのは、ツルじゃなくて、お手々かしら」
 地面に力を込めると、根っこだったものが抜けた。
「これが足!」
 根っこの束が、人の足をかたどっていた。球根はお尻に変形、スカートの中に隠れている。
 顔に手を当てる。植物だったときとは違い、複雑な凹凸があった。
 音も、匂いも、クリアに感じる。
 周囲の景色に感動していると、アゲハが飛んできた。
「うわ……」
 アネモナは、不安になった。もしかしたら、とんでもなく醜い姿になってしまったのかも!?
「きれいになったね。ここまで体の形が整っている人は、そういないよ。ついてきて! あおぞら、見せてあげる」
 アネモナは、「あれはなに?」「これはなに?」「どうなっているの?」と、ことあるごとにアゲハに質問した。アゲハは、嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しそうに、答えてくれた。
 途中で、二匹の赤豹と出くわした。アネモナがさっき食べた、木の実の香りにつられたらしい。
 アゲハが、アネモナを守るように前に出た。
 が、赤豹の方がさっさと逃げてしまった。
「えっへん、ぼくの姿を見て、逃げていったぞ――なんちゃって。アネモナが歩いているのを見て、びっくりしたんだろうね。あんなに必死な彼ら、はじめて見た」
「わたし、こわい顔してた?」
「……アネモナはいつもかわいいよ」
「ねぇ、うやむやにしないで」
 長話したい気持ちもやまやまだった。
 けれど、森の外を見たい気持ちのほうが、強かった。二人で話をしつつ、どんどん前へとすすんでいく。
 急に、視界が開けた。上半分をおおう、青。どこまでも広く、どこまでも続いている。上の方に、光の円が浮いていた。
「うわぁ……」
「これが、あおぞら。あの光りのかたまりが、太陽。地面がもり上がっているのが山。ほら、下も見て」
 大地に目を向けると、たくさんの色が目に飛び込んできた。あまりの色の多さに、目がクラクラする。
「これがぼくが住んでいる花畑だよ」
「すごい、すごい、すごい!」
「あっ、アネモナ、お花さん、踏まないように気をつけてね」
 足があるのも、ちょっぴり不便ね。根っこのときは、こんなこと気にしなくてよかったのに。っていうか、ここに来るまでの森の中、みんなを踏んじゃったってこと? それじゃあ、冒険者といっしょじゃない。
 不安げなアネモナに、いち早くアゲハが反応した。
「大丈夫だよ。森のみんなは、踏まれたくらい気にしない。アネモナが一番知っているでしょ?」
「うん」
「それにもし、アネモナが怒られたとしても、僕もいっしょに謝るよ」
「ありがとう、アゲハ」
 アゲハが、なぜか目をそらした。
「どうしたの?」
「かわいすぎて、みれない」
「みてみてー」
「や、やめて~」
 アゲハはよろよろと、後ろにのろけた。これまでは追いかけられなかったが、今は違う。アネモナは前のめりになると、駆けだした。
「まてまて」
「かわいいが追いかけてくるよ!」
 アゲハとかけっこをしていると、不意に脳内に声がひびいた。
<ピンポンパンポーン。制限時間の1/3が過ぎたわ。残り2/3ね。次は半分になった時点で、お知らせするわ。ちなみにうっとおしくても、このアナウンスは消せないわ>
 アゲハが声をかけてきた。ぼーっとしていると、勘違いしているようだった。
「花畑の外に、ぼくはついていけない。なわばりの外だからね。でも、アネモナはいける。時間のゆるすかぎり、どこまでも。だから見てきてほしいんだ。ぼくも見たことのない景色を」
 アゲハと別れるのは不安だった。でも、それ以上に、好奇心がおさえられなくなっていた。
「わかったわ。……ごめん。あなたを置いて、いくことになってしまって」
「気にしないで。ぼくは、待っているよ。でも気をつけて。この先の土地に、君が育つだけの養分はないから」

 アネモナは草原を走った。走って走って走りまくった。草も木も、空も、鳥も、動物も、風の感触も、昼の熱も、湿度も、足の裏に感じる冷たさも、口の中にのこった果実のかけらの味も、何もかもが新鮮だった。
 ああ、世界はこんなにも大きくて、きれいだったのね。どこまでいっても終わりが見えない。きっと、この丘の先も、遠くの山の向こうにも、世界は続いている。
 もっといろんな物を見たい。もっと遠くへ行きたい。もっと食べたい。感じたい。
 だんだんと、真緑だった大地に、茶色が混ざっていく。草木がまばらになっていき、かわりに石ころが増えてきた。
「ずいぶん、遠くまできたなぁ」
 無我夢中で走っていると、見慣れた動物が見えた。赤豹だった。獲物は一人。でも、鎧は着てないし、非力すぎる。
「まさか、わたしが、赤豹を追い出してしまったせいで?」
 人に関われば、ろくな事にならない。アネモナはよくわかっていた。仲間を伐り、摘み取り、殺し、死体を持ち去ったり、ひどいときには火事をおこすことすらある。人は、森にとって害悪でしかない。
 見て見ぬふりをしようとした。
「あれは……」
 彼女が、花柄の服を着ていることに気づいた。
 アネモナは思い直した。
 自分のわがままのせいで、あの二人が死んでしまう。そんなことはあってはならない。
 アネモナは、両足を地面に突き刺した。一瞬にして足が根っこに変形、地中へ拡散する。
「守れ!」
 今まさに獲物に飛びかかった二匹の豹の前に、極太の根が出現。豹たちは思いっきり頭をぶつけ、「キャウン!?」という情けない声を上げた。
 赤豹が反撃する暇もなく、木の根が湾曲。豹の胴体を掴んだ。そのまま、振り子の要領で大きく投げ飛ばす。赤豹は、見事に受け身をとった。その拍子にアネモナと目が合う。
 アネモナは、森の方向を手で指さした。すると赤豹たちは、全速力でアネモナから逃走。故郷へと帰っていた。
 豹が去って行くのを確認して、アネモナも森へ戻ろうとした。
「待ってください。アネモネのお方」
 若い女性だった。緑地花柄で、袖なしのひらひらした服を着ている。空と同じ青色の長髪で、おしとやかそうな人だった。
 彼女はうやうやしくおじぎした。
「わたくしの命を救ってくださり、ありがとうございました。わたくしの名前はハルカゼと申します」
「わたしはアネモナ。とうぜんのことをしたまで」
 アネモナは素っ気なくこたえた。人そのものは嫌いだったけれど、ありがたられるのは、わるい気分ではなかった。
 ハルカゼの表情は、助かったわりには暗かった。
「なにか、不安なことでもあるの?」
 ハルカゼは苦虫をかみつぶしたような顔で、語りはじめた。
「護衛にやとった冒険者も、馬も、みな赤豹を恐れて逃げ出してしまいました。ここから次の町まで歩いて半日ほどですが、おそらくそれまでに魔物に襲われる可能性が高いでしょう。残念ながらわたくしは、アネモナさんのように力が強くありません」
 女性は地面に頭がつく勢いで、再びお辞儀した。服のひらひらが、花びらのようにふわりと舞う。
「アネモナさん、本当にもうしわけないのですが、町まで護衛してはいただけないでしょうか。可能な限り、お礼はします。無理なお願いですが、どうか……」
 最後の方は、聞き取れなかった。彼女が泣き出してしまったからだ。
 アネモナは長生きしたのもあって、一目見れば、相手がどれほど強いかわかる。女性はDランク冒険者よりも非力だ。
「うぅっ……まさか、こんなところで! わたくし、なんて不運なの! レッドパンサーに出くわすなんて。密林の奥深くにしか生息しないはずなのに。そもそも、代金をケチらずにC級パーティにお願いすれば……。あぁ、町まであと少しのところだったのに」
 間を置かず、脳裏にミミコッテの言葉が響いた。
<ピンポンパンポーン。残り時間が半分になったわ。遠出したのなら、もうそろそろ、引き返した方が安全よ。次は、残り時間が1/3になったらお知らせするわ>
 どうしよう。
 彼らを町まで送れば、森へ帰るのはむずかしくなる。でも、この人が命の危機にさらされているのはわたしのせいだ。
「うーん……」
 わたしは、もう十分生きた。生まれてからずっと「見てみたい」と思っていたものは見れた。「やってみたい」と思ったこともできた。アゲハやみんなに二度と会えないのは寂しい。けど、もうお別れはすませてある。悔いはない。
「わかった。赤豹は、わたしからにげて、ここまで来てしまった。ハルカゼの不幸の原因は、わたし。おわびに、送る」
 彼女の顔が、ぱあっと、明るくなった。

 荒野の魔物たちは、アネモナにおびえて姿を見せなかった。だから、二人はたっぷりとおはなしすることができた。
 女性が真っ先に口にしたのは、アネモナへの賛辞だった。
「アネモナさんは、花の色艶がいいし、張りもある。色も濃くて透けてない。ドレスや髪の毛の葉っぱも、先端は上を向いてる。葉っぱと葉っぱの間に新芽も見える。わたくし、こんなに綺麗で立派なお花、今まで見たことがありません」
「ハルカゼはお花についてくわしいね」
「えへへ。わたしくし、お花、大好きですの。見ているだけで、穏やかな気持ちになって、癒やされるし、疲れも取れちゃう」
「いつもは、どんなお仕事をしているの?」
「それは、あんまり言いたくありませんの」
 ハルカゼは気まずそうに目を逸らしつつ、「ところで」と強引に話題をそらした。
「アネモナさんは、ずっと森の奥で暮らしていたんですよね」
「ええ。わたしには、足がなかったから」
「さぞかし、たいくつだったでしょう」
 同情の目に対して、アネモナは顔を伏せた。
「うん。でも、だいじょうぶだった。わたしたちは、粘菌をつうじて、みんなとつねにつながってるから。でも、動物はちがう。自分と他人が切りはなされて、ひとりぼっち。こわいし、不安だし、なによりさびしい」
 ハルカゼは、にこりとほほえむと、スッとよりそってきた。アネモナの肩に、ハルカゼの肩がふれる。はじめて触れた人の肌は、とてもあたたかかった。
「あの……」
「どうしたの、アネモナさん」
「ハルカゼ、おてて、つないでも、いい?」
「もちろん」
 手と手が触れあった瞬間、不安な気持ちが消えてしまった。
「うん、これなら、寂しくない」
 三人はしばらくの間、だまって前へ進んだ。
 どれくらいたっただろう。日がずいぶん沈んできた気がする。
「アネモナさんは、わたくしへ故意に危害を加えようとしたわけではありません。本来、あなたはわたくしに罪悪感を感じる必要は、ないはずです。もう、大分歩いたし、後はわたくしが、どうにかしますわ。ここまでありがとう、アネモナさん。楽しかったわ」
 言葉に、追い打ちをかけるように、ミミコットの声が聞こえてきた。
<ピンポンパンポーン。残り時間が三分の一になったわ。今すぐ全力疾走すれば「ギジンカクテル」を使った座標に、ぎりぎり帰れるわ。これが最後のお知らせよ。あなたには待っている人がいる。帰らないことは、彼ら全員の期待を裏切ることになるわ。だからお願い、今すぐ引き返して!>
 アネモナは立ち止まった。帰りたい。今すぐ。たいくつだけど充実した毎日にもどりたい。
 でも、いま帰ったら、大変なことになる。アネモナにおびえて隠れていた魔物たちが、いっせいに動き出す。そのうち何匹かが、彼女の前に現れるに違いない。か弱い彼女は、ひとたまりもない。
 森のみんなは、アネモナがいなくなっても生きていける。でも、ハルカゼはアネモナがいないと死んでしまう。
 アネモナは、守るべき物を見極めてから、言った。
「ハルカゼは、森の外で、最初にできたおともだち。見捨てるわけにはいかない」

 空が赤く染まり、空気が冷えてきたころ。大きな箱が密集している場所が、見えた。あれが町なのだそうだ。
「アネモナさん、改めて、ありがとう。この恩は一生忘れません。わたくし、絶対にまた、あなたに会いにいきます」
「こちらこそ、一生の思い出を、ありがとう。ハルカゼ」
 二人で抱きあった後、ハルカゼは町へ向かって歩き出した。彼女は何度もアネモナに振り返り、手を仰いだ。
 アネモナも、ずっと手を動かしつづけた。
 ハルカゼのシルエットがどんどん小さくなっていき、やがて見えなくなった。同時に、アネモナは自分の体が、急激にしぼんでいくのを感じた。
 薬効が切れたのだ。
 あらかじめ大地に根を張っていたものの、水も栄養もほとんど吸えない。喉はカラカラで、茎は腐葉土をほしがって、悲鳴を上げている。
「とっても、楽しい、一日だった」
 息が苦しくなり、視界が白くぼやける。全身から力が抜けていく。しばらくすると、不快感が消え去り、視界の端から、黒いもやが、ひろがっていく。
「あ、間違った……一日じゃない……一生……。ゴメン……アゲハ……みんな……」
 そして、完全な闇が訪れた。

 休眠から目覚めたアネモナは、見なれない場所にいた。人の足がたくさん。声もひっきりなしに聞こえてくる。左右には、鉢植えに植えられた花々。
 アネモナも、プランターに植えられていた。日当たり、風通しも申し分ない。土は栄養たっぷりで水はけがよく、その上肥料がまかれている。根っこも、植え替えのときに、しっかりほぐしてくれたらしく、のびのびと地中を這い回っていた。
 大勢の人間が通り過ぎていく中、一人の貴婦人が立ち止まった。
「いらっしゃいませ」
「フラワーショップハルカゼへようこそ。いつもごひいきにしてくださり、ありがとうございます」
 背後から、聞き覚えのある声が聞こえた。
 ハルカゼは花屋さんだった。早朝市場で花を買いとって、馬車で店に運んで、手入れして、店先に並べる。そして、お客さんが買いにくる。花を売って、お金をもらう。
 アネモナからは一見、奴隷取引にみえた。
 でも、ハルカゼとお客さんの花への愛情を見ているうちに考えがかわった。ここにいる人たちは、決して花をモノあつかいはしていなかった。彼女の仕事は、奴隷契約の仲介ではなく、お見合いの仲介だったのだ。
 人にはいろいろな種類がいる。野蛮な冒険者だけじゃなくて、ハルカゼみたいに優しい人たちもいる。全員が全員、悪人ではなかったのだ。
 貴婦人は、しゃがみ込むとアネモナの花弁をのぞき込んできた。
「このアネモネ、ずいぶん元気になったわねぇ」
「そうでしょう。もう少しで、故郷の森に返せると思うんです。猫耳魔女さんの言葉を信じるのであれば、ですが。まあ、いざというときは本人に直接確認しちゃえばいいですしね」
 視界の右側から、ハルカゼが現れた。青いつなぎを着ていた。すどには泥がついていて、手にはグローブをはめていた。花の手入れの途中だったらしい。
 彼女は、アネモナに会釈してから、貴婦人と向き合った。
「え、いくら花屋さんだからって、お花と直接話すのは無理じゃないの?」
「この子は特別なんです」
 貴婦人は、冗談と受けとったのか、景気のいい笑い声をひびかせた。
「じゃあ、あと少しでお別れね。今のうちにしっかりと目に焼き付けておかなくちゃ」
「わたくしも、同感ですわ」
 寂しげな笑みを浮かべる三人に、アネモナは言った。
「わたしもそう思う」
 二人の呆然とした顔がおかしくて、アネモナは思わず花弁を揺らすのであった。
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