番犬バディがしっぽを振るのは。

小熊井つん

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1.愛しのバディ

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※注意
この作品には以下の要素が含まれます。
苦手な方はご注意ください。

・虫
・奇病
・流血
・微ホラー

なお、全体的なストーリーはほのぼのテイストで進行します。

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「19××年に発生した大規模怪異災害、『百鬼夜行事件』から今日でちょうど50年が経過しました。怪異対策機関•柴ではこの百鬼夜行事件を教訓に、より強固な組織体制の構築と、バディ制度の導入など新たな対策を……」
車のラジオから流れるニュースを聞きながら、俺はハンドルを握っていた。
時刻は午後8時30分。
今日は怪異の生態調査で都心から離れた山間部まで足を運んでいた。
調査は無事に終了し、あとは帰るだけだが、市街地に出るなり帰宅ラッシュの渋滞に巻き込まれ、かれこれ2時間近くこの車に閉じ込められている。

「ふー……」
信号が赤になり、深い溜息を吐く。
何気なくバックミラーで自分の顔を確認すると、そこには目付きの悪い男が映っていた。
焦茶色の短髪は前髪がやや目にかかるほど伸びており、それがより陰鬱な雰囲気を助長している。

高校を卒業後、【怪異対策機関・柴】に就職して早8年。
俺の所属する【黒柴】は怪異の生態研究や技術開発等を主な業務としている。
『怪異』とは、物理法則や時間の概念から外れた存在であり、古事記や日本書紀といった神話の中にもその存在が記されている。
時代の移ろいとともに変容を遂げてきた怪異は、今や高層ビルの陰に、スマートフォンの画面越しに、改札口の群衆に紛れ、静かに現代社会へと溶け込んでいる。
そしてそれらの怪異が引き起こす現象もまた千差万別で、時に災害となり、またある時には恵みをもたらしもする。

そんな怪異の生態や能力を解明し、人間にとって有益な存在とするために管理していくのが俺たち黒柴の役割だ。 

しかし、怪異には不確定要素が多くそれ故に危険が伴うこともある。
そのため、柴に所属する我々職員は【犬憑き】と呼ばれる特異体質の人間とバディを組んで業務に当たることが義務付けられている。
“先天的に怪異を探知する能力を持つ人間”それが柴が定めた【犬憑き】の定義だ。

そして今まさに助手席で眠りこけている男こそが、俺のバディである犬憑き––橘雪臣。
犬憑き、と言っても外見は俺たち普通の人間と何ら変わりはない。
癖のある白髪に青白い肌が印象的な整った顔立ちの青年。
スーツの上に着た柴規定のジャケットは細身の彼には少しサイズが大きいようで、袖が余っている。

浮世離れした雰囲気のせいか年齢不詳な印象を受けるが、実年齢は俺の2歳歳上、今年で29歳になるはずだ。

人間の身体能力に個人差があるように、犬憑きの探知能力の精度や範囲にも個体差がある。
俺のバディである橘さんは嗅覚型犬憑きの中ではトップクラスの実力を持つ人物だ。
彼と初めてバディを組んで3年近く経つが、その能力の高さにはいまだに驚かされている。
そして、いつも穏やかでどこか掴みどころのない彼の隣は、不思議と居心地が良かった。

そうこうしている間に車は柴の地下駐車場にたどり着いた。
停車した時の振動で目が覚めたのか、助手席の橘さんがゆっくりと瞼を開く。
眠たげな目をこすり、小さく欠伸をする姿すらも絵になって見えるのは、彼の整った容姿のせいだろう。
気怠げで緩慢な仕草は彼の持つ独特の雰囲気にもよく合っていた。

「佐竹君おはよー。ごめん、爆睡してた」
「いえ、いつもの事ですから」
「なんか佐竹君の運転って家で寝るよりも安眠できるんだよね」
「それはどうも」

淡々とした俺の返答を気にする様子もなく、橘さんはシートベルトを外しながら再び大きな欠伸をした。
そして当たり前のように俺に向かって両手を広げてきた。

「ん」
黒目がちな垂れ目が柔らかく細められる。
その仕草はまるで恋人にハグをせがむ時のような甘さを含んでいた。
俺は周囲に人が居ない事を確認してからシートベルトを外すと、助手席に身を乗り出すようにして橘さんを抱きしめた。

「はぁ~生き返る~」
座席に座りながらのハグは少し窮屈だったが、橘さんは満足そうに俺の首筋へと顔を埋めていた。

「3分だけですよ。あまり人に見られたくないんで」
「はーい」
素っ気ない俺の返答も意に介した様子は無く、橘さんは俺の肩に頬擦りをしてくる。
その仕草は飼い主に甘える犬のようで、なんだか少しくすぐったい。
俺はジャケットからスマホを取り出すと、片手でタイマーをセットし、スタートボタンを押した。

3分後にアラームが鳴れば、この一連の儀式も終了だ。
柴ではバディとしての絆が恋愛に発展するというケースも珍しくはない。
共に死線をくぐり抜けたバディの絆は、一般的な男女の恋愛関係よりも強固で深いのだとかなんとか。
だが、俺と橘さんが今しているこの抱擁は別に恋人同士のそれではない。
これは犬憑きの能力の特性上、必要な行為なのだ。

というのも。
犬憑きは俺達には知覚し得ない『匂い』『音』『磁場』等の感覚から怪異の存在を探り当てる事ができるのだが、その時の仕草がまるで犬に憑依されているように見えることから『犬憑き』と呼ばれているのだ。
橘さんの場合は『嗅覚型』と呼ばれるものに分類される。
そして怪異の気配を匂いで感じとる彼ら嗅覚型犬憑きにとって、怪異の匂いは酷い悪臭として知覚される。
よく例えられるのは、肉や甲殻類の腐乱臭、吐瀉物の匂いなどだ。
捜査の際はそれを長時間嗅ぎ続ける事になるため、大抵の犬憑きはストレス軽減のために自分のお気に入りの香りをお守りとして携帯している。
それは香水であったり使い古した衣類であったり……人によって様々だ。

どういうわけか、橘さんにとってそのお気に入りの香りとやらが俺の体臭らしい。
つまり、これはただの嗅覚ケアであり、業務の一環なのだ。
とはいえ抱き合っている姿を他人に見られる事に抵抗があるのもまた事実。
俺は人の気配に気を配りながら、タイマーが鳴るのをじっと待った。

薄暗い車内で、俺と橘さんの間に沈黙が落ちる。
それは緊張感を伴うものではく、共に映画でも鑑賞しているかのような穏やかな静けさだった。
本来パーソナルスペースの広い俺は人と触れ合う事が得意ではないし、仕事とはいえ他人に体臭を嗅がれる事には抵抗がある。

それでも彼のこの“嗅覚ケア”の申し出に応えているのは、橘さんが俺にとって少なからず特別な存在であるからに他ならない。
橘さんはいつも俺に対して気安く接してくる。
その距離感は同僚というより友人に近い。

常に冷めた思考と態度で周囲と壁を作りがちな俺にとって、そんな彼の振る舞いは心地よかった。
何気ない会話や向けられる笑顔に俺は無意識のうちに救われていたのだろう。
素の自分を受け入れてもらえている。
その安心感が、俺の心を少しずつ解していった。

俺は橘さんの背中に手を添え、その体温を感じながら目を閉じた。
そして静かに鼻から息を吸い込むと、彼の香りがふわりと鼻腔をくすぐった。
香水や柔軟剤が苦手だと話していた通り、橘さんからは清潔感のある石鹸の香りがするくらいで、強い香料の類は一切感じない。
その香りはどこか懐かしくて落ち着く、そんな優しいものだった。

言葉にしたことはないけれど、俺も彼のこの匂いが好きだ。
「犬憑きの嗅覚ケアも仕事のうち」と初めてこの行為の説明を受けた時は正直抵抗しかなかったが、3年近くも続けているとさすがにもう慣れてくるもので。
最近では、触れ合う体温や香りに安心感すら覚えるようになってしまった。
「はー、安心するー」
同じことを考えていた事に少し驚きつつも、俺は橘さんの背中をそっと撫でた。
すると、彼は俺の肩口に顔を埋めたまま小さく笑う。

「ねえ佐竹君。怪異調査も一段落したことだし、今度2人で美味しいものでも食べに行こうよ」
「いいですね。どこか希望あります?」
「俺、叙々庵行きたいなー」
「ええ、構いませんよ」
「やった~佐竹くん大好き~」

俺の肩にぐりぐりと額を押しつけながら、橘さんはころころと笑った。
それに釣られて、思わず俺の頬も緩む。
「お店、予約しておきますよ。今週の金曜日あたりどうですか?」
「あ。ごめん、金曜は定期検診入ってて。来週のが確実かも」   
「わかりました、じゃあ来週の金曜日で。時間はあとで調整しましょう」
「ありがとう。佐竹君とご飯行くの久しぶりで嬉しいな~」

橘さんがそう呟いた直後、タイミング良くスマホのアラームが鳴り響いた。
「はい、おしまいです」
「えー、もう?早いなぁ」
橘さんは名残惜しそうに身体を離すと、俺の襟元を正してから何事も無かったかのように手荷物をまとめ始めた。

「それじゃお疲れ様。気をつけて帰ってね」
「ええ、橘さんもお疲れ様でした」
ひらひらと手を振りながら車を降りていく彼に軽く会釈を返し、その背中が見えなくなったところで俺は運転席のシートに深く体を預けた。
先ほどまで触れ合っていたはずの温もりはあっさりと消え去り、車内に静寂が戻ってくる。

定期検診、という彼の言葉がやけに耳に残った。
普段ののんびりとした様子からはとても想像がつかないが、橘さんは【怪異性疾患】という難病に冒されながらも犬憑きとしての責務を全うしている。
そんな彼の強さの裏側には、一体どれほどの苦労や葛藤があるのだろうか。

発作が起きた際の対処法や薬の保管場所、緊急連絡先など、バディとしての必要最低限の情報共有は受けているが、俺は彼の苦しみのほんの一部しか知らない。
不治の病という非常にデリケートな問題だからこそ、俺も不用意に詮索しないよう努めていた。
橘さん自身もそんな俺との距離感を心地よく感じている節があるようで。
この距離感がお互いにとってベストなのだと、そう思っていた。

けれど、いつしかその関係をもどかしく感じ始めている自分が居て。
俺は、そんな自分自身に戸惑いを隠せなかった。
家族にすら心を開けなかった自分が、橘さんにだけは心を許しているという事実。

この感情の正体は一体なんなのだろうか。
彼が座っていた助手席の背もたれにそっと手を這わせ、俺は小さく溜息をついた。

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