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最愛の旦那様

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ここはネコ族とイヌ族が仲睦まじく暮らす島国『ポチタ魔国』
ヒトの体に獣の耳と尾を持つ種族たちの国である。
太古からイヌ族はネコ族に仕える事を宿命づけられており、ネコ族に忠誠を誓う事で平和な時代を築き上げてきた。
しかし近年ではネコ族の支配体制に疑問を持つ者も現れ始め、イヌ族もネコ属と同等の権利を主張するようになりつつある。

「旦那様、おはようございます」

私はイヌ族のマリー。
1年前からこの町外れの屋敷でメイドとして仕えている。
私の旦那様、『リナリア様』は小説家を生業とされているとても聡明でお優しい方だ。
人嫌いで有名なお方らしいが、種族の違いなど関係なく対等に接して下さるし、私のような使用人にも気を配ってくださる。

そして何より……お美しい。
手入れの行き届いたフワフワのネコ耳と長い尻尾。
金色の髪は太陽の光を受けてキラキラ輝き、澄んだ緑色の瞳はエメラルドのように透き通っている。
しなやかな体躯、主張の控えめな胸元、
そして凛々しくも実年齢より遥かに幼く見える顔立ちには庇護欲を掻き立てられる物があった。
旦那様に見つめられるだけで私の心は激しく揺り動かされてしまうのだ。
こんなに素敵な女性を他に見たことがない。

それに先日は私が焼いたクッキーを「毎日でも食べたい」と仰ってくださった。
 これはもうプロポーズと受け取っても良いのではないか? 
旦那様の事を考えていると無意識に尻尾が揺れてしまう。

「おはようマリー…今何時だ?」
「11時になるところです」
「そうか……」
まだ眠いのか、旦那様は大きな欠伸をしながらゆっくりとベッドから起き上がる。
最近は朝方まで執筆活動をされているらしく、この時間帯に声をかけるよう命じられていた。
机の上に散らばっている原稿用紙には文字がびっしりと書き込まれている。
「リビングに食事の準備が出来ております。冷めないうちにどうぞ」
「ああ、ありがとう」
旦那様の着替えを手伝うためにクローゼットを開くと、そこにはワンピースやブラウスなどがズラリと並んでいた。
どれも生地の良い高級品だが、決して華美ではない落ち着いたデザインだ。
旦那様は派手な服よりもシンプルなデザインの物を好む傾向がある。

私はその中から黒のワンピースを選び出し、寝間着を脱ぎ始めた旦那様に差し出した。
「ではこちらをお召し下さいませ」
「ん」
旦那様がワンピースを受け取り袖を通す。
こうして間近で見るとやはり旦那様はとても美しい。
私は思わずため息を漏らした。
「あまりジロジロ見るなよ」
「申し訳ございません。旦那様があまりにもお美しくて」
私は表情を変えず淡々と事実を告げた。
毎日起床後と就寝前に旦那様の素晴らしさを讃える事が私の習慣になのだ。

「…お前はいつも元気そうで良いな」
着替え終えた旦那様はため息混じりにそう呟いてベッドへ腰掛けた。
その横顔には寝起きにも関わらず疲れが滲み出ている。
「お疲れのようですね」
「ああ、ちょっと思うように筆が進まなくてな」
何かあったのではないかと勘繰ってしまうほど最近の旦那様は元気がない。

「差し出がましいようでしたら申し訳ありません。もしよろしければ私に悩みを打ち明けていただけないでしょうか?少しでも
力になれればと思います」
私は旦那様の足元へ屈み、下から顔を覗き込むようにしてそう問いかけた。
旦那様は少しの間沈黙していたが、やがて口を開いた。

「マリーは誰かと付き合った経験はあるか?」

唐突に何を聞かれているのか分からなかった。
「いいえ、今まで一度も」
「好きな相手は?」
「マリーは旦那様一筋です」
「いや、そういう事ではなくてだな…」
旦那様は諦めたような顔をしてため息をついた。

「実は…今執筆している小説に恋愛要素を入れろと担当から指示を受けたんだ」
「え…?でも旦那様って…」
「ああ」
旦那様は以前から恋愛の類いに嫌悪感を抱いていると仰っていた。
そもそも旦那様は一流小説家の中では他人を一切寄せ付けない事で有名なお方だ。
本来、ネコ族にとってイヌ族の使用人は家具同然の認識であるにも関わらず「屋敷の中に他人が居ては落ち着かない」と私以外のメイドは雇わない程だ。

そんな状況の中でいきなりラブストーリーを書けと言われても困るだろう。

「私は恋なんかした事がないし、どんな展開にすれば良いのか全く分からないんだ」
思えば旦那様の小説には不自然なほど恋愛描写が無い事で有名だった。
恋愛小説ブームの今の時代、そういった作風は浮いてしまうのだろうか。

「それならいっそ無理に従わずご自身の作風を貫くというのはいかがでしょう。逆に他作品との差別化を図れるのでは無いかと思うのですが」
「…確かに私も同じことを考えていた……が、やはり小説家としては“表現できない描写がある”というのはどうしてもプライドが許さない」
旦那様は膝の上で拳を強く握りしめながら言った。
執筆活動にどこまでもストイックで、苦手な分野にも真っ向から立ち向かおうとする旦那様はやっぱりカッコいい。
私はなんて愚かな提案をしてしまったのだろうかと己の発言を恥じた。

「一応、恋愛小説や映画も片っ端から見てみたんだが、なにが面白いのかさっぱり分からなかったし登場人物にも全く感情移入できなかった…」
旦那様はもうお手上げだという様子でネコ耳を垂らしながら項垂れていた。
こんなにも弱々しい姿は初めてだ。

これはもしかしたら私にとっても重要なチャンスかもしれない。
「旦那様、マリーに一つ提案があるのですが」
「なんだ?」
「私を練習台にしてみてはいかがでしょう」
「は?」
旦那様は意味が分からないといった様子で目を丸くしている。
「つまり……私と交際してみるというのはどうですか?実際に体験してみる事で小説のアイデアが降ってくるかもしれませんし、逆に私は愛する旦那様と一時の幸せを得られます。実にwin-winの関係じゃありませんか」
私はうっとりとした表情で捲し立てながら旦那様に顔を近づけそっと手を握った。
「流石にそれは色々おかしくないか?」
「もちろん無理にとは言いませんが…」

私がそう言いながら部屋の壁に掛けられたカレンダーに視線を移すと旦那様も誘われるように同じ方向を見た。
そこには1週間後の月曜日に『〆切』の赤い文字が枠いっぱいに書き込まれている。
「う…」
「マリーはいつでもお待ちしております」

私が微笑むと旦那様は諦めたように肩を落として言った。
「分かったよ。それで良いからとりあえず離せ」
「……と、いう事は」
「ああ。頼む」
その言葉を聞いて私は全身の血が沸騰するような高揚感に包まれた。
尻尾が千切れんばかりに忙しなく揺れる。
「必ず幸せにしますわ!」
「……原稿が終わるまでの間だけだからな」

こうして旦那様と私の幸せな疑似恋愛生活が幕を開けたのだった。
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