灰色の絵の具 ~閉ざされた世界~

速水静香

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第七話

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 そして、私たちは見た。

 窓の外に広がる光景を、私は、たぶん一生忘れることができないだろう。

 校庭の、その広い空間を埋め尽くすように、無数の黒い人型が集まっていた。音楽室にいたもの、給食室にいたもの、そして、きっと私たちがまだ見ていない校内のあらゆる場所に潜んでいた、全ての黒い何かが、そこにいた。

 彼らは、強い磁力に引き寄せられる砂鉄のように、校庭の中心にある一点を目指して、ゆっくりと、しかし確実に、引きずられるように移動していた。それはもう、個々の意思を持った動きじゃない。もっと大きな、抗うことのできない何かの法則に、ただ従っているだけのように見えた。

 校庭の中心。そこに、黒い人型たちが次々と吸い込まれていく。そして、一つになった彼らは、黒い粘土をこねていくように、その形を、大きさを、変えていった。

 もぞもぞと、うごめきながら、黒い塊は空に向かって盛り上がっていく。それは、生き物が成長する過程を、何百倍もの速さで見ているような、ひどく不気味な光景だった。

 やがて、それは、はっきりとした輪郭を持ち始めた。

 頭。胴体。二本の腕。そして、二本の足。

 それは、紛れもなく、人の形をしていた。でも、その大きさは、人間なんてものとは比べ物にならない。校舎の三階にある、この校長室の窓から見上げなければ、その全体像を捉えることができないほどに、巨大だった。天を突くほどの、黒い巨人。

 これまでの異形とは、密度も、存在感も、何もかもが違っていた。ただ黒いだけの、のっぺりとしたシルエットじゃない。その内側には、ドロドロとした、純粋な悪意と、悲しみと、怒りがないまぜになった、どす黒い感情が、マグマのように煮えたぎっているのが、遠目にも分かった。

 あれが、この世界の『主』なんだ。

 直感的に、そう理解した。

『主』は、その巨大な体を起こし終えると、空に向かって、顔のないはずの顔を上げた。そして、再び、あの叫び声を上げた。

 ゴオオオオオオオオオッ!

 空気が、ビリビリと鳴る。窓ガラスが、その音圧だけで、細かくカタカタと揺れた。それは、ただの声じゃない。明確な、破壊の意思を告げる、宣戦布告だった。

 希望は、ほんの一瞬で、真っ黒な絶望に塗り替えられてしまった。

『主』は、ゆっくりと、その巨大な腕の一本を持ち上げる。その動きは、悪夢の中の一コマのように、ひどく緩慢に見えた。そして、振り下ろす。狙いは、私たちがいる、この本館の校舎だった。

 すさまじい衝撃と、全てを打ち砕くような轟音が、私たちの鼓膜を叩いた。

 校舎の、すぐ隣の部分。理科室や、家庭科室があったあたりが、巨大なハンマーで叩き潰されたかのように、一瞬で崩れ落ちた。壁が紙のように破れ、コンクリートの塊が、おもちゃのように宙を舞う。窓ガラスが、けたたましい音を立てて砕け散り、灰色の破片となって降り注いだ。

 幸運にも、私たちがいる校長室は、直接の被害を免れた。でも、足元から伝わる、建物全体が軋むような悲鳴は、この校舎が、もう長くはもたないことを告げていた。

 圧倒的な、力の差。

 私たちは、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。手に入れたはずの三原色の絵の具が、急に、ひどくちっぽけで、無力なものに思えた。こんなもののために、私たちは命を懸けてきたんだろうか。こんな、何の役にも立たないもののために。

 ハヤトくんは、唇を噛みしめ、ただ一点、窓の外の『主』を睨みつけている。でも、その拳は、小さく、小刻みにゆれていた。ケンタくんは、腰が抜けてしまったのか、その場にへたり込み、青ざめた顔で「うそだ……」と繰り返している。

 私たちは、どうすることもできずに、ただ、次なる破壊を待つことしかできなかった。

 その、重苦しい静寂を破ったのは、リコさんの、か細い声だった。

「まさか……。あの記事の通りだとすれば……」

 そのつぶやきは、ほとんど息のような音だったけれど、静まり返った室内では、嫌になるほどはっきりと聞こえた。

「記事?」

 ハヤトくんが、リコさんの方を振り返った。

「氷川さん、今、なんて……?」

 私も、彼女の言葉の意味が分からず、問いかける。リコさんは、青白い顔のまま、ゆっくりとこちらを向いた。その表情には、恐怖とはまた違う、何かを確信してしまったことへの、絶望のような色が浮かんでいた。

「図書室で、あの灰色の絵の具を使った時……。私は、床に散らばっていた、古い学校新聞を何冊か、目にしていました。その中の一冊に、とても気になる記事が載っていたんです」

 彼女は、自分自身に言い聞かせるように、途切れ途切れに話し始めた。

「それは、もう十年前の、とても古い記事でした。卒業式の特集記事の、隅の方に載っていた、本当に小さなコラム。だから、最初は気にも留めなかった。でも、今なら、分かります。あれこそが、この呪いの……」

 リコさんは、そこで一度、言葉を切った。そして、ごくりと、乾いた喉を鳴らした。

「この記事に書かれていた、一人の生徒の、悲しいお話。それこそが、全ての始まりだったんだとしたら……」



 リコさんの言葉は、しん、と静まり返った校長室の中に、小さな石を投げ込んだみたいに、波紋を広げた。外では、あの黒い巨人が校舎を破壊する、地響きのような音が断続的に続いている。それなのに、私たちの間だけは、時間が止まったかのように、異様な静けさに満たされていた。

「どういうことだよ、リコ! その記事ってのは、なんなんだ!」

 ハヤトくんが、焦れたように声を張り上げた。彼の言う通りだった。私たちは、もう一刻の猶予もない、絶体絶命の状況にいる。昔話を聞いている暇なんて、本当はないはずだった。

 それでも、リコさんの次の言葉を、私たちは固唾をのんで待っていた。彼女だけが、この絶望的な状況の、何か根本的な部分に触れようとしている。そんな予感がしたからだ。

 リコさんは、一度ぎゅっと唇を結ぶと、ふるえる息を整えるように、ゆっくりと話し始めた。その声は、いつも通りの冷静な響きを保とうとしていたけれど、その奥に、隠しきれない動揺が滲んでいるのが分かった。

「その生徒の名前は、新聞の小さな記事によると、『影山』くん、というそうです」

 カゲヤマくん。その名前が、私の頭の中で、奇妙な反響を起こした。私たちが今まで追いかけられてきた、あの黒い何かのことを、私たちは勝手に『カゲ』と呼んでいたから。

「十年前に、この学校に在籍していた男の子でした。記事には、こう書かれていました。その子は、とても絵が上手だったんです」

 リコさんは、記憶の糸をたぐるように、慎重に言葉を選びながら続ける。

「誰も思いつかないような構図で、誰も見たことのないような色を使って、素晴らしい絵を描いたそうです。でも……彼は、とても内気な性格で、自分の気持ちを言葉にして誰かに伝えるのが、ひどく苦手だった」

 その言葉が、私の胸の奥に、ちくりと小さな棘のように刺さった。

 自分の気持ちを、言葉にできない。それは、私のことを言われているみたいだったから。

「彼にとって、唯一の言葉が、絵を描くことでした。ですが、彼は、その描いた絵でさえ、誰かに見せることを、ひどく怖がっていたそうです。だから、クラスの中でも、いつも一人ぼっち。誰も、彼の本当のすごさや、その心の中に、どんなに美しい世界が広がっているかなんて、知らなかった」

 ハヤトくんも、ケンタくんも、ただ黙ってリコさんの話に耳を傾けている。外の轟音さえ、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。

「そんな影山くんが、たった一度だけ、勇気を出したことがありました。卒業を記念して開かれる、大きな絵画コンクールです。彼は、自分の持てる全ての力を注ぎ込んで、最高の作品を描き上げ、そのコンクールに出品した。これが認められれば、きっと、自分は変われる。誰かと、繋がれるかもしれない。彼は、そう、希望を持ったんです」

 希望。その言葉の響きが、今の私たちには、あまりにも眩しくて、痛々しいものに聞こえた。

「でも……」

 リコさんの声が、少しだけ、かすれた。

「彼の絵は、誰にも認められませんでした。コンクールで、賞を取ることはできなかったんです。誰にも、彼の絵の本当の価値は、分からなかった」

 ああ、と、私は心の中で小さなうめき声を上げた。

 分かる。その気持ちが、痛いほど分かる。自分の全てを込めたものが、誰にも届かなかった時の、あの胸が張り裂けそうになるような感覚。世界から、たった一人だけ、切り離されてしまったような、底なしの孤独。

「たった一つの希望を失って、彼は、完全に絶望してしまいました。そして、卒業式の日に……彼は、とんでもないことをしてしまったんです」

 リコさんは、そこで言葉を切ると、窓の外で、また何かを破壊しようと腕を振り上げている『主』の姿を、悲しそうな目で見つめた。

「彼は、自分で作った、特別な絵の具で……自分が今まで描いてきた、大切な作品を、全部、塗りつぶしてしまった。自分の言葉も、心も、存在した証も、全て、自分の手で。そして、卒業式が終わった後、誰にも何も言わずに、この学校から、姿を消してしまったそうです。それっきり、彼がどうなったのかは、誰にも分からない、と。記事は、そう結ばれていました」
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