灰色の絵の具 ~閉ざされた世界~

速水静香

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第八話

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 リコさんの話が終わると、校長室には、鉛を飲み込んだような、重たい沈黙が落ちた。

 ガシャアン、という、また一つ窓ガラスが割れるような音が、遠くから聞こえてくる。でも、もう、誰もそちらに注意を払おうとはしなかった。私たちの意識は、全て、今しがた聞かされた、一人の少年の悲しい物語に、完全に奪われてしまっていた。

「……そんな話、信じられるかよ」

 やがて、ハヤトくんが、吐き捨てるようにつぶやいた。でも、その声には、いつものような力強さは全くなかった。信じたくない、という気持ちの裏側で、彼の心も、その物語の持つ異様な説得力を感じ取ってしまっているのが分かった。

 ケンタくんは、へたり込んだまま、ただ黙って床の一点を見つめている。彼の頭の中も、きっと、私と同じように、たくさんの情報が駆け巡って、混乱しているんだろう。

 私の頭の中では、バラバラになっていたパズルのピースが、一つ、また一つと、吸い寄せられるように組み合わさっていくのが分かった。

 あの、美術準備室にあった、奇妙な木箱。

 中にたった一本だけ入っていた、不思議な『灰色の絵の具』。

 それは、呪いのアイテムなんかじゃなかった。影山くんが、自分の存在を、この世界から消し去りたいと願った、その深い絶望と、悲しみが固まってできた、涙の結晶だったんだ。

 私は、もう一度、窓の外の黒い巨人を見た。

 もう、ただの恐ろしい怪物には見えなかった。

 あれは、影山くんの魂そのものなんだ。誰にも分かってもらえなかった、認められなかった、その満たされることのなかった気持ちが、こんなにも巨大な、怒りと悲しみの塊になってしまったんだ。

 助けて、って。

 寂しいよ、って。

 僕を、見てよ、って。

 あの叫び声は、ただの威嚇じゃない。彼の、心の叫びだったんだ。

 だから、私たちは、今までずっと間違っていた。

「絵の具を集めるだけじゃ、だめなんだ……」

 私の口から、無意識に、そんな言葉が漏れていた。

 はっとしたように、三人が一斉に私の方を見る。

「相田さん……? どういう、ことですか」

 リコさんが、尋ねる。私は、三人の顔を、そして自分の手の中にある三色の絵の具を、交互に見つめながら、必死に言葉を探した。

「だって、この呪いは、影山くんの心が作ったものだから。彼の心が救われない限り、きっと、呪いは解けない。ただアイテムを集めて、ゲームみたいにクリア、なんて、そんな簡単な話じゃ、ないんだよ」

 そうだ。これは、サバイバルゲームなんかじゃない。私たちは、ただ、悲しい思いを抱えたまま、この学校に縛り付けられてしまった、一人の男の子の心に、触れようとしていただけなんだ。

 どうすれば、彼の心は救われるんだろう。どうすれば、この悲しい連鎖を、終わらせることができるんだろう。

 その時。

 私の脳裏に、ある光景が、写真みたいに、鮮明に浮かび上がってきた。

 それは、この奇妙な一日の、一番最初に訪れた場所。

 美術準備室の、あの独特の、絵の具と古い木の匂いがした、ひんやりとした空間。

 部屋の隅っこ。たくさんの画材道具や、使い古された石膏像の陰に隠れるようにして、ひっそりと、一枚の古いキャンバスが、壁に立てかけられていた。

 誰も、気にも留めなかった。私も、ハヤトくんたちも、ただの古いゴミか何かだと思って、通り過ぎただけだった。

 でも、あのキャンバスは、真っ白じゃなかった。何かを描こうとした、途中の絵だった気がする。全体が、くすんだ白黒の色合いで、まだ、完成には程遠い、未完成の絵。

 どうして、あんな場所に、描きかけの絵が、十年も置かれたままになっていたんだろう。

 もしかして。

 もしかして、あれこそが。

 影山くんが、最後に残した、たった一つの、心残りなんじゃないだろうか。

 コンクールに出して、認められなかった絵でもなく、絶望して塗りつぶしてしまった絵でもない。彼が、本当は、描きたかったもの。でも、描くことが、できなかったもの。

「美術室に……」

 私は、かすれた声で、そうつぶやいた。

「美術室に、行かなきゃ」

 私のその言葉は、どこか遠い場所から聞こえてくるみたいに、自分でも現実感のない響きを持っていた。

 当然、みんなは戸惑った顔を私に向けた。

「美術室に? 相田、お前、何を言ってるんだ!」

 ハヤトくんが、信じられないという表情で私に詰め寄る。

「外には、あんな化け物がいるんだぞ! ここから一歩でも出たら、どうなるか……!」

「ですが、ここにいても、校舎ごと潰されてしまうのは時間の問題です」

 リコさんが、冷静に、しかし血の気のない顔で言った。彼女の言う通りだった。窓の外では、あの黒い巨人が、またゆっくりと腕を持ち上げようとしている。さっきよりも、その動きは速くなっている気がした。

 その時、私は気づいた。『主』の動きの変化に。

 今までの破壊は、癇癪を起こした子供のように、手当たり次第だった。でも、今は違う。その顔のない顔は、はっきりと、私たちが最初にこの異変に巻き込まれた、あの校舎の一角を向いていた。

 私とハヤトくんとケンタくんがいた、六年生の教室がある、あの棟を。

 そして、そのすぐ下の一階には、美術準備室と、美術室がある。

「……狙ってるんだ」

 私の口から、乾いた声が漏れた。

「あの『主』は、美術室を目指してる。きっと、あそこには、まだ影山くんの心が、強く残っているんだ。だから、自分の手で、最後の心残りも、めちゃくちゃに壊してしまいたいんだよ」

 残された時間は、本当に、もうほとんどない。

 私は、三人の顔をまっすぐに見つめた。もう、うつむいてはいられない。私の考えを、伝えなければ。

「だから、私が行きます。美術室に行って、あの未完成の絵を、完成させなきゃ」

「はあ!? 絵を、完成させる!?」

 ハヤトくんが、今度こそ、あんぐりと口を開けて、私をまじまじと見た。無理もない。こんな状況で、あまりにも突拍子もない、ばかげた提案に聞こえたはずだ。

「正気ですか、相田さん。あまりにも、非科学的で、現実的ではありません」

 リコさんでさえ、その考えには、はっきりと否定的な言葉を向けた。

「で、でも、どうやって……。絵を描いてる間に、あいつが来ちゃったら……」

 ケンタくんが、おびえた声で言う。

 みんなの言う通りだった。成功する確率なんて、ほとんどないに等しい、無謀な賭け。でも、私には、これしか方法がないように思えた。

「分かってる。でも、もう、逃げてるだけじゃだめなんだよ。戦うだけでも、きっとだめなんだ。だって、あの『主』は、影山くんの悲しい心の叫びなんだから」

 私は、自分の手の中にある、三色の絵の具を、ぎゅっと握りしめた。

「力でねじ伏せても、彼の心は救われない。私たちが、彼の心を、分かってあげなきゃ。彼が本当に描きたかった、温かくて、優しい世界を、私たちが代わりに、描いてあげるの。それしか、この呪いを解く方法はないと思う」

 私の目には、今、どんな光がともっているんだろう。自分では分からない。でも、私の言葉を聞いた三人の表情が、少しずつ、変わっていくのが分かった。

 驚き、戸惑い、そして、信じられないという気持ち。それらが、彼らの顔の上で複雑に交じり合っている。

 重い沈黙が、私たちの間に流れた。窓の外からは、ゴ、ゴゴゴ、と、巨人が一歩、また一歩と、こちらに近づいてくる、地面をゆるがすような足音が聞こえてくる。

 その沈黙を、最初に破ったのは、意外にも、ハヤトくんだった。

「……分かった」

 彼は、短く、そう言った。そして、一度、固く目をつぶると、何かを振り払うように、大きく息を吐いた。

「もう、理屈とか、確率とか、どうでもいい。お前に、賭ける」

「高城くん……」

「僕たちが、時間を稼いでやる。お前は、その間に、さっさと絵を完成させろ。いいな」

 彼は、そう言うと、いつもの、不敵な笑みを口元に浮かべてみせた。それは、絶望的な状況の中で、仲間を安心させようとする、彼の精一杯の優しさなんだと、私には分かった。

「私も、賛成します」

 リコさんが、ハヤトくんに続いて、静かに言った。

「論理的な根拠は、ありません。ですが、ここまで私たちを導いてきたのは、相田さんの、その不思議な直感でした。だとしたら、最後の可能性も、そこに賭けてみるべきです」

「ぼ、僕も……! 僕も、やるよ!」

 ケンタくんが、ふるえる声だったけれど、はっきりと、そう宣言した。

「アヤちゃんが、絵を描く時間を、僕たちが作るんだ!」

 アヤちゃん。ケンタくんが、初めて、私のことを名前で呼んだ。

 胸の奥が、きゅっと熱くなる。今まで、ずっと一人で絵を描いてきた。自分の気持ちを誰かに伝えるのが怖くて、自分の世界に閉じこもっていた。でも、今は違う。私の隣には、こんなにも頼もしい仲間たちがいる。私の、無茶で、ばかげた考えを、信じてくれる人たちがいる。

「みんな……。ありがとう」

 やっとのことで、それだけを言うのが精一杯だった。



 作戦は、単純で、そして、あまりにも無謀だった。

 ハヤトくん、リコさん、ケンタくんの三人がおとりになって、校庭で『主』の注意を引きつける。その間に、私が本館を抜け出し、特別教室棟の一階にある美術室へ向かい、絵を完成させる。

 どうやって、あの巨人の注意を引くのか。どれくらいの時間、稼げるのか。そんな具体的な計画は、何もない。ただ、三人の覚悟と、私の絵だけが、頼りだった。

 私たちは、校長室の扉の前に、四人で並んで立った。これが、もしかしたら、四人で一緒にいられる、最後の時間になるのかもしれない。そんな考えが、頭をよぎる。

「じゃあ、行くか」

 ハヤトくんが、私たち三人の顔を、一人一人、順番に見た。

「相田。絶対に、やり遂げろよ。お前の絵で、あいつを、何とかしてくれ」

「うん。任せて」

「リコさん。ケンタくん。あなたたちも、無茶はしないでくださいね」

 リコさんが、こくりと頷く。

「高城くんこそ。先陣を切るのは、あなたなんですから」

「ケンタ。お前、ポケットの中身、まだ何か残ってるか?」

「う、うん。ガラクタみたいなものばっかりだけど……。何か、役に立つかもしれない」

 ケンタくんが、自分のベストのポケットを叩いて見せた。

 もう、これ以上、言葉は必要なかった。私たちの間には、言葉にしなくても分かる、強くて、太い絆のようなものが、確かに結ばれていた。

 ハヤトくんが、扉を開ける。三人は、私に一度だけ力強く頷いてみせると、ためらうことなく、廊下へと駆け出していった。校庭へと続く、階段を目指して。

 私は、三人の後ろ姿が見えなくなるまで、その場で見送った。そして、彼らとは反対方向、美術室のある、特別教室棟へと続く渡り廊下に向かって、私も、走り出した。

 仲間たちの友情と、覚悟と、そして、影山くんの悲しい魂。その全てを、この両手に乗せて。



 渡り廊下を、夢中で走る。ガラス張りの壁の向こうに、校庭で繰り広げられる、信じがたい光景が見えた。

 ハヤトくんたち三人は、校庭の真ん中に、ぽつんと、あまりにも小さな点でしかなかった。その目の前には、黒い絶望の壁が、そびえ立っている。

「おおおおおい! 化け物! こっちだぞ!」

 ハヤトくんの、空気をふるわせるような大声が、ここまで聞こえてくる。彼は、校庭に転がっていたサッカーボールを拾い上げると、渾身の力で、『主』の足元に向かって蹴り込んだ。ボールは、巨体に当たって、力なく弾け飛ぶ。

 もちろん、そんなもので、ダメージを与えられるはずもない。でも、その行為は、確かに『主』の注意を、美術室から、ハヤトくんの方へと向けさせることに成功した。

『主』が、ゆっくりと、巨体を彼の方へと向けようとする。

「今です! 散開して、ゆさぶりをかけます!」

 リコさんの、冷静な指示が飛ぶ。三人は、ぱっと三方向に散らばった。

 ケンタくんが、ポケットから何かを取り出して、立て続けに投げつける。それは、たぶん、音の出るおもちゃか何かだろう。けたたましい電子音が、いくつか鳴り響いて、巨人の意識をさらにかき乱そうとする。

 でも、圧倒的な力の差は、どうしようもなかった。

『主』は、足元でちょろちょろと動き回る、小さな三つの点に、いらだちを覚えたようだった。その巨大な足が、ゆっくりと持ち上げられる。そして、ケンタくんがいるあたりを、無慈悲に、踏みつけた。

 ドオオオオオオン!

 すさまじい地響き。土煙が、もうもうと立ち上る。

「ケンタ!」

 ハヤトくんの、悲鳴に近い叫び声が聞こえた。

 私の足が、一瞬、もつれた。だめだ。見てはいけない。私が、今、振り返ってしまったら、三人の覚悟が、無駄になってしまう。

 私は、唇を固く噛みしめて、涙がこぼれそうになるのを、必死でこらえた。そして、前だけを見て、走り続けた。

 一歩でも、速く。一秒でも、早く。

 三人が、命がけで繋いでくれている、この時間を、絶対に、無駄にはしない。

 特別教室棟の、見慣れた廊下に、たどり着く。一番奥にある、美術室の扉が、私の目の前にあった。

 私は、ほとんど体当たりするようにして、その引き戸に手をかけた。
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